名無しは非日常に気付けない

名無しは非日常に気付けない 前編




 ダメだ、書けない。

 シャープペンシルを机の上に放り、天を仰ぐ。しかしそこには、昼下がりの陽光に照らされる天井のシミしかない。故に、何の気休めにもならなかった。それどころか、定期的に雨漏りするこの高校の天井はシミが大量にあるので、いくつもの目に見下されている気分だ。

 溜息を吐きつつ、目の前にある広げられたノートへと視線を戻す。あぁ、一面真っ白な見開き。何時もなら、ぱっと思い付く筈の書き出しさえ捻り出せない。

「苦戦しているな、文芸部部長」

 すっと耳に通る声によって、私の鬱々とした気持ちが少しだけ融けていくのを感じた。

 向かい側の席へと目を向けると、一学年上の先輩がコーヒーを飲んでいる。

「……何も思いつかなくて。なんか、気力が湧かないんです」

「珍しいな。毎月のように部誌を一人で発行しているのに」

「それはウチの部が私を含めて二人しかいないからです。一応の副部長であるアイツは幽霊部員だし……。あー、今からでも入部して下さいよガロア先輩」

「三年の俺が今から入っても意味ないだろう。それに、俺は生徒会の仕事が忙しい。君が生徒会に入るなら――」

「嫌です」

 ほらみろ。と言いたげに何時も結ばれている唇を更にキュッとする先輩。これで目を吊り上げたら吽形像の完成だ。

「馬k……生徒会長のお陰で此処はどうにか存続できているんだ、少しは生徒会に貢献してくれ」

「その生徒会長様である龍之進先輩と会計様のガロア先輩に、感謝の証としてウチの部室をサボり場所として開放しているじゃないですか。先輩が飲んでるそのコーヒー、我が家から持ってきたマシーンとコーヒー豆で淹れたヤツなんですけど」

 父が飽きてしまったせいで家に放置してあった一式とはいえ、そこそこお高めなコーヒー豆を遠慮せずに消費する先輩は、ちゃっかり持ち込んでいるステンレスのマグカップを机に置いた。そして、分厚い肉が挟まったキューバサンドを齧り、咀嚼する。

 若干埃っぽい部室より、海外のカフェテラスの方がよく似合いそうな、優雅なランチタイムを過ごしていらっしゃる。来月の部誌(そして活動困難と廃部にされかねない文芸部)の存亡がかかっているお陰で先程からウンウン唸っている私とは雲泥の差だ。

「アレだな、五月病。龍之進も毎年罹患している」

「えっ?」

「やる気が出ない、食欲が落ちる。隈もあるところからして、あまり寝てないな? 典型的な五月病の症状だ」

 私の昼食である、キャップさえ開けてないゼリー飲料に視線をやった先輩は、病院紹介するぞと呟く。

「いやいや、季節の変わり目で、ちょっと体調崩しちゃっただけですよ」

「馬鹿言え。つらいならちゃんと病院行け。龍之進といい、お前達は体調不良を甘く見過ぎなんだ。逆に部誌の休刊を重く見過ぎだ。クラブ活動は義務でやるものじゃない。一度ぐらい発行を止めても、責めるヤツは此処にはいない」

「けど、書きたいんです」

 先輩の声にすっかり委縮してしまった私の、絞り出すような吐露。それを聞いた先輩は、少しだけ表情を和らげ、色素の薄い瞳に淡い光を浮かべた。

「お前が書く話は、きっと大変なんだ」

「大変?」

「一から十まで、想像上の話だから、書くには大変な労力を必要になるんだ。空想のストックが尽きたら、もう書けない。……偶には、身の回りの事を書いてみたらどうだ」

「エッセイですか? けど、私が書きたいのはそういうのじゃ……」

「ファンタジーに出てきそうなキャラクターとして置き換えてみればいい。例えば龍之進は、凄腕の剣士とか」

「龍之進先輩が剣士って……面白そうかも。じゃあ、ガロア先輩は、魔法使いかな。あるいは、百発百中のスナイパーとか」

「いいんじゃないか。お前はどんなキャラクターになる?」

「えっ、私は……なんだろ。先輩なら、どんなキャラにしますか」

「戦闘に長けたヤツだろうな。殺し屋とか、軍人なんかの」

「私、そんな物騒なヤツと思われてるんですか……」

「折角空想上のキャラクターになれるなら、格好良くすればいいじゃないか」

「えぇ? 格好良いつっても、人殺しですよ?」

 寧ろ、そういうのはウチの副部長の方が向いてそうだ。いや、あいつは魔王の方が向いているかな。

 なんて考えていると、立て付けの悪い引戸を無理やり開く音が鳴り響く。こんな粗野な開け方をする知り合いは一人しかいない。

「ケン、扉壊れるからその開け方はやめなさいって言わなかったっけ?」

 私の注意なんて聞いてないケンは、ふらりとした動きで先輩の隣に座る。一八五センチはあるだろうガロア先輩以上にひょろりと長いので、学習椅子が窮屈そうだ。

「……その姿からして、今来たのか?」

 先輩の呟き通り、物が入っているのかも怪しいスクバを机に置いたうちの副部長は今来たばかりなんだろう。同じクラスだというのに今日やっと会えた私が証人になれる。

「伝え聞いてはいたが、本当だったんだな。サボり癖」

 クラスメイトの困った行動に、先輩が信じられない顔をするのも仕方あるまい。『昇降口のすのこに足を引っかけたらやる気がなくなったから保健室登校する』とか、『登校中にくしゃみをしたら行く気をなくした』だとかで休むのだ、このアホは。比較的真面目な先輩には理解出来ない生態だろう。

 けれど更に信じられない事に、これでも一年の一学期と比べたら教室に来るようになったのである。なんせ、酷い時には『行こうとしたら、自宅の玄関で靴紐が解けたから』という理由もあった。教師達はやっと落ち着いてくれたかと安堵の息をついているぐらいだ。

 しかし、一度休むと決めたらもう絶対に来なくなる彼が遅刻してくるなんて珍しい。

「なんかあった?」

「今日は、日直だから、ちゃんと来いと、言われたから。早めに学校に行こうと思ったんだ」

「そうね、昨日私はそう言った。だって、私の今の席は貴方の隣だから、休まれると日直の仕事が全部回ってくる。けど、貴方は来なかった。そして何時もなら、朝のSHRに現れなかったら、その日はもう学校に来ない。なのに今日は遅刻してでも来た。……ケン、何かあったんでしょ」

 クォーターであるケンの、日本人離れしたヘーゼルの瞳がほんの少し揺れ、彼の上体が十度ほど傾く。決断が早い彼にしては、歯がゆい様子だった。

「……今朝、人とぶつかった」

「それで行く気をなくしたのか?」

「いや、寧ろ、行く気になった、というか……」

「誰にぶつかったの」

「女子生徒。ネクタイの色からして、此処の一年生の筈」

 おいおい、何ともなさそうに話すから、ガロア先輩ぐらいの体格の人とぶつかったのかと思ったのに。自販機なみのデカさがあるコイツにぶつかって無事なのかその女子生徒は。

「向こうが、転びそうになったから、咄嗟に、手首を掴んだ。……小さいと思ってはいたけど、その、とても、細かったんだ」

 案の定、転倒しかけたか。と顳顬を押さえたが、途中で話の流れに違和感を覚えた。それは先輩も同じらしく、眉間にしわを寄せ、吽形像になってしまった。

「声をかけようと思ったけど、その前にこれを押し付けて、逃げて行った。恥ずかしがり屋なのかもしれない」

「あ?」

 手にあるスティックパンの袋をイジイジしながら俯くケンの姿は、ある意味攻撃力抜群だった。

 強い感情をあまり表に出さない筈の先輩は、濁音が付きそうな声と共に顔面が阿形像に変化する。私だって変な声が漏れ出そうになったけど、どうにかグッと堪えた。その代償として酷い眩暈と頭痛に襲われる。

 いや……お前、それは恥ずかしがってたんじゃないだろ。小さくて細っこい子が、デカい上級生の男にぶつかって見下ろされたらビビるわ。絶対カツアゲと思われてるだろ。

「気付いたら、バスに乗ってた。だから、一周回ってから、学校に来たんだ」

 ケンの自宅から学校までの距離は徒歩十数分程度。何故にバスに乗ってしまったのであろうか。そういや、『バスに乗ったら海沿いまで来てしまったから今日は行けない』という言い訳を使ってた事があったな。やっぱコイツ、アホだ。

 苦々しげな先輩が此方に視線を送るが、残念ながら無言で首を振る事しか出来ない。それによって先輩の目は凪いだ。恐らく、『あぁ、コイツも龍之進(あの馬鹿)と同じだったか……』と察してくれている。

「彼女に会いに行こうと思った。けど、クラスが分からなかったから、君に会いに来た」

「言っておくけど、下級生の知り合いはいないよ」

「いるじゃないか、妹が。君の妹が、彼女の隣にいたんだ」

 今度は私が苦い顔になった。妹というワード。それは私の頭痛を更に悪化させるトリガーだ。痛みを抑えようとすればするほど、微笑みながら見下ろす幼い頃の妹が頭の隅でちらついた。


 彼女の指が、私の腕を抓る。やめさせれば良かったのに、お姉ちゃんぶりたかった私は揶揄いの延長線だと我慢してしまった。

弱い子供に力でじわじわと、ずっと、ずっと掴まれているうちに、皮膚が赤黒く変化して――、


 ……いかんいかん、気を強く持つんだ私。

 ケンは、面倒くさがりではあるが、良いヤツなのだ。じゃないと私が彼と友人なんてやっているわけがない。恋、青春。良いワードじゃないか。年下の女の子に、あんなに意地らしくなっているケンは初めて見た。ここは友人として一肌脱ごうじゃないか。

「妹と一緒に登校していたという事は、ハナちゃんね。あの子、何時もハナちゃんと一緒にいるから」

「ハナ。そうか、ハナっていうのか」

 ……ごめんハナちゃん。不審人物に個人情報教えちまったわ。

 本人から教えてもらったわけでもない名前を呟いて照れるアホに、果たしてクラスを教えるべきなのだろうかと思い悩む。

 が、こいつは一度進むと決めたら地の果てまで進むヤツだ。下手したらストーカーになりかねないので、私の知っている事を、プライバシーの侵害にならない程度に教えるのだった。

「…………その大量のパン、どうする気」

「どれを喜んでくれるのか分からないから、目についたものを一通り買った。昨日のパンの代わりに何か返そうと思って」

 零れそうなぐらいの購買のパンを抱えたケンにまた頭痛を覚えつつ、彼がハナちゃんのクラスに行こうとするのを阻止する。

「待ちなさい、その量は多過ぎ。ハナちゃんの胃袋は一般人レベルだよ。大食漢の貴方を基準にするんじゃない」

 量の多い惣菜パンを候補から外し、更に小さめの菓子パンを選別して、どうにか四個に絞らせてからケンを送り出す。

 そして、昼休みが終わる頃に教室に戻って来た彼は、心配になるぐらい浮かれた様子だった。ほとんどのものに無関心な普段とはかけ離れた、あまり見慣れない光景に頭痛が酷くなった。恋は何とやらというが、此処まで変化するといっそ恐ろしい。

「喜んでもらえたみたいだね」

「あぁ。偶然、好みのものばかりだったみたいだ」

 なんと。選別に参加した私も大きさ以外は割と適当に選んだのに。勘が良いというか、運がいいというか。

「君のお陰だ」

 微笑みながら、ボリューム重視のメンチカツサンドを渡してくるケン。それによって、つい口角が上がる。

「もうお昼食べちゃったよ」

「そうなのか? それにしては、顔色が悪いと思ったんだが」

 最近、体調が悪そうで心配なんだと戸惑う友人に、その気遣いはハナちゃんに向けてやれと笑い返した。


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