拾弐:一線
「ようこそおいでくださいました! ラブラドル君、ラブラドル博士を紹介してくれて本当に本当にありがとう!」
翌日、博物館に着くなり、ニクスは
「こりゃ、閉館時間までずっと話し込んでるだろうな……」
昨夜も徹夜したのだろう。
ニクスの目は相変わらず充血しているが、嬉しそうにとても輝いている。
「なぁ、あのひとがシャンバラの専門家のひと?」
「そうですよ、笹野さん。従兄弟のニクス・ラブラドルです」
「めちゃくちゃイケメンじゃん……」
「本人にその自覚は皆無ですけどね」
四月朔日に会うということで、いつもよりは身だしなみに気を使っているようだが、持って生まれた容姿を活かしきれてはいない。
そういうところがニクスらしいとも言えなくもないが。
「じゃぁ、館内の巡回始めますね」
「おう」
エレクトラムは私物をロッカーに収めると、いつも通り仕事を始めた。
順番に展示室を巡って行く。
すると、呪物の展示室の中に、解像度の低い人影が佇んでいた。
「……ん?」
見慣れない残像。
魂が重なっている。消えかけの儚い魂と、怒りで闇を孕む魂。
見覚えのある仄暗い光と、その姿。
「
男はゆっくりと振り返った。
その顔は、
「……何があったんですか」
艶兎はゆっくりとこちらを向いた。
「……亡くなったんですね」
「ああ。飲酒運転のトラックに追突されて、この男もろとも、彼女は死んだ」
艶兎が憑依している男性の右半身は、不自然な折れ曲がり方をしている。
「この男は最期まで彼女を護り、その身体で衝撃を和らげようと頑張ったようだ。でも、無駄だった」
ただ、左手から滴る血は、乾いていない。
「あなたは……、僕に殺されに来たんですか」
「そう見えるか」
「その左手の血は、あなたの愛する女性のでも、その旦那さんのでもありませんよね」
艶兎は口元をゆがめ、嗤いながら博物館の出入り口へと向かっていった。
幸い、まだ来館者は一人もいない。
エレクトラムはその後ろについて行った。
途中、何人かの学芸員が心配そうに怯えた瞳でエレクトラムを見ていたが、近寄ってくるのをそっと手で制した。
外は雪がちらつきはじめていた。
「もう少し離れたほうがいいか?」
「そうですね。ここでは、チケット売り場から凄惨な光景が見えてしまいますから」
「ふふ。そうか」
夜の公園へ入って行く。奥へ、奥へ。
「トラックの運転手さんは、あなたに殺される間際、何か言いましたか?」
「ああ。だが、覚えていない。命乞いを聞くつもりもなかったからな」
「でしょうね」
「なぜ殺したのか、とは聞かないのか」
「ええ。明らかですから」
一歩、一歩とお互い間合いを取る。
「泣いているんですか」
「ああ。この身体の主がな」
エレクトラムはすぐに嘘だとわかった。
数分前に、すでに身体からは魂が抜けきっていたからだ。
「一人分の血じゃないですよね、それ」
初めは事故の時の血が身体の全面を覆っているのだと思った。
でも、身を挺して女性を護ったのなら、身体前面がそこまで血には染まらないだろう。
「誰が一人だけだと言った?」
「……どうしてっ!」
返り血の中に幼い命の欠片を感じ、血が熱く震えた。
「彼女は妊娠していたんだ。だから、同じように、奪うことにしただけだ」
「そんな……」
艶兎は運転手だけでなく、その家族も殺めたのだ。
「さぁ、
エレクトラムは耐えがたい苦しさと悲しみに痛みを感じながら、
「兵器としての力、見せてみろ!」
男性の身体を触媒に出現したのは、美しい銀色の体毛に覆われた青い瞳の人型をした兎の妖怪、
「砕いてやる! 何もかも!」
瞬きの間にはるか上空へ跳躍するその脚力。
彗星のごとく落下してくる強烈な蹴り。
エレクトラムは後方へと跳ね退いた。
避けた先にまでその衝撃波が飛んでくる。
「おお、おお。その可愛らしい顔に傷が出来てしまうなぁ、小僧よ」
砕けた遊歩道の一部が頬をかすめ、一筋の血が流れる。
攻勢に出ようと隙を窺うが、そうもいかない。
間髪入れず繰り出される強烈な足技。
杖に張った防御壁で弾くので精一杯だ。
「魔女族の力はそんなものなのか⁉」
後方へ宙返りした艶兎は、着地した瞬間の衝撃を使い、エレクトラムの身体中央めがけて右足を叩き込んできた。
「うっ!」
防御壁ごと吹っ飛ばされたエレクトラムは、体勢を崩さないよう杖を地面に突きたてた。
「同情心で鈍るほどの殺意など、何の救いにもならないぞ!」
「誰が同情などするか!」
エレクトラムはそう叫ぶと、杖から幾つもの直剣を召喚し、艶兎に攻撃を仕掛けた。
「そうだ、そうだ小僧! 殺せ! その力のままに!」
水流を操り、まるで鋭い矢のように艶兎めがけて放つ。
風を起こし、針葉樹の葉を巻き上げ、身体を引き裂いていく。
艶兎は笑いながら攻撃を躱し、それでも傷ついていく身体と、手遅れの心を抱えながら、つぶやいた。
「やっと終われる……」
弾けるように、血が舞い散った。
艶兎の心臓を、直剣が貫いたのだ。
薄く積もり始めた雪の上に、まるで薔薇の花弁のように、血が滴り落ちていく。
地面に足を付けた艶兎はゆらゆらと歩きながら、両膝をつき、光に消えゆく魔法の剣に自嘲した。
その時、遠く、声が聞こえてきた。
まるで、狼の遠吠えのような、強く、悲しい響き。
「あなたの仲間ですか」
「ああ……。安心、しろ。誰も、お前を、襲ったり、しない」
「わかってます」
「はは……、だろう、な」
雪の上に大の字に転がった艶兎は、雲間からのぞく月を見つめながら笑った。
「本当に、あ、愛して、たんだ」
青い瞳からあふれる涙が、雪に広がる血に混ざって行く。
「護る、と、誓った、の、に」
涙が頬を伝った。
艶兎が感じている喪失感と、それを癒すために必要な途方もない時間は、天秤にはかけられない。
「なぜ、小僧、も、泣く」
「死にたくなる気持ちは、痛いほど、理解できるから……」
「そう、か」
艶兎は一度大きく血を吐き出すと、そのまま動かなくなった。
何もなかったかのように雪は降り続ける。
痛くてたまらない心とは裏腹に、多くの魔法を放ったおかげで体調は憎らしいほどに良い。
「これで兵器じゃないって、わたしですら納得がいかないのに……」
エレクトラムは自身の手を見て動揺した。
目の前で今まさに命を奪ったのに、ただただ、きれいなままだからだ。
返り血すら、浴びることなく。
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