漆:珈琲

「ふわあ、なんて明るいんだ……」

 真昼の太陽に照らされ、エレクトラムは目を細めた。

 今日は地区の芸術文化秋祭アートフェスティバルに参加するため、〈二十一時の博物館〉は珍しく昼から開館している。

 開催期間は土曜、日曜、祝日の三日間。

 シフトは万が一のことも考えて一日四交代制で、エレクトラムは自ら志願して昼間と深夜の二回シフトに入っている。

「ラブラドルは元気だなぁ」

「あ、笹野さん。お疲れ様です。この三日間は稼ぎ時ですよ!」

 エレクトラムには欲しいものがあるのだ。

 来月発売の新型スマホと国民的人気を誇るゲームの新作ソフト。

 スマホは分割での購入を予定しているので、そこまで大金が必要というわけでもないのだが、真冬に向けて新しい服や靴も欲しいので、お金はたくさんあるに越したことはないのだ。

 エレクトラムと同じ考えなのが、喫茶店のマスターの息子夫婦。

 三日間マスターの手伝いに来てくれている。

 なんでも、マスターの息子はオーストラリアのバリスタの大会で優勝経験があるらしく、日本でお店を構えるために今年帰国。

 開店資金を集めているところなのだとか。

「日本だとあんまりなじみのないチップをいれる瓶が満杯だ……。うらやましい……」

 来場客もフェスティバルということで、お財布の紐が緩いのかもしれない。

 それとも、住人の出身国が多彩な都会だからなのだろうか。

 とにかく、開店資金集めは順調のようだ。

 エレクトラムは館内と祭会場を何度も往復しながら来場者の案内や迷子の保護、困っている人々に声をかけ続けた。

 昼を過ぎ、十五時頃になると、会場も館内も最高潮に混んできた。

「あ、ラブラドルくん」

「あ、えっと……」

 声をかけてきたのは、幼い男の子を連れたマスターの息子のお嫁さんだった。

「シェリルさんでしたよね。どうなさったんですか?」

「この子が突然わたしのエプロンをひっぱって泣き出しちゃったの。たぶん、迷子だと思う」

「あらら。じゃぁ、僕が保護センターまで連れて行きますね」

「お願い……、あら」

 男の子はシェリルのエプロンから手を放さなかった。

「どうしよう」

「保護センターはすぐ近くなので、一緒に行きましょうか。君も、お姉さんと一緒に行きたいんだよね?」

 エレクトラムはしゃがみ、男の子と目線をあわせて訊ねた。

 すると、男の子は少し顔を赤らめながら、頷いた。

 瞳と鼻に残る赤みが、涙の痕と共にエレクトラムの心をぎゅっと締め付けた。

「シェリルさん、お手数ですが……」

「もちろん、一緒に行く」

 シェリルは優しく微笑み、男の子の手を取ってぎゅっと握った。

「私もね、迷子になっていた時期があるの。だから、この子の心細さはよくわかる」

「迷子になっていた時期、ですか」

「ええ。二十六歳の時、養父母が続けざまに亡くなって。私はそれに精神的に対処できなかったの」

 人混みとホワイトノイズの中、三人はゆっくりと歩き始めた。

「居場所と、私を心から愛してくれていた人たちをいっぺんに失った気がして、どうすることもできなくて。最悪の方法をとろうと考えたこともあったわ」

 少し傾き始めた太陽と、黄昏が見え隠れする空の色。

「私は最期の食事を、と思って、お気に入りのコーヒーショップに入ったの。そこで、夫、正晃まさあきと出会ったのよ」

 祭会場のあちこちから珈琲のいい香りがする。

「美味しかった。その日は彼のバリスタデビューの日だったらしくて。淹れてくれた珈琲は人生で一番美味しかったの。また何度でも飲みたいと思えるくらい」

 冷たい空気が人々の距離を近くする。

 暖かさと、温かさを求めて。

「私はその日から毎日通ったの。彼の珈琲に感動しなくなるまで。そうすれば、また両親に会えると思った。でも、そんな日は今も訪れてないの。毎日感動する。出会ってから五年。毎日よ」

 色とりどりの風船が空を舞う。

 子供たちは嬉しそうに宙に浮く色彩に触れようと手を伸ばす。

「いつからか、彼が私の家になった。珈琲の香りが導いてくれたの。だから私は今もこうして……」

 その時、人混みの中から声が聞こえてきた。

「ゆうと! ゆうと!」

 男の子は声のする方を向き、顔を輝かせた後、泣きながら駆け寄って行った。

「どこに行ってたの! ずっと探してたのよ!」

 母親の女性は瞳に涙を浮かべながら男の子を抱きしめた。

 そしてエレクトラムとシェリルに近づき、深く頭を下げた。

「すみませんでした。うちの息子を保護していただいて……。本当にありがとうございます!」

「頭を上げてください。僕は迷子の保護も仕事の一つなので。職務を果たしたまでですから」

 エレクトラムは腕につけた『案内係』と書いてある腕章を見せて微笑んだ。

「息子さん、とっても大人しくて……。良い子にしていましたよ」

「ありがとうございます。本当に、よかった……」

「ゆうとくん、お母さんの手を放しちゃだめよ」

 男の子は元気よく頷き、親子はゆっくりと人混みの中へと消えていった。

「見つかってよかったですね」

「そうね。私もそろそろ戻らないと……」

「シェリル!」

 声がした。エレクトラムはその光景に、両親の姿が浮かんだ。

「マサ! どうしたの?」

「迷子をラブラドルくんにお願いしてくるって行ってから、なかなか帰ってこないから心配で……」

 シェリルの瞳が一瞬潤み、すぐに笑顔になった。

「男の子のために、一緒に保護センターへ向かうことにしたんだけど、途中で親御さんに会って、今終わったところよ」

「そうか。よかったよかった。ラブラドルくんもありがとう」

「いえいえ。お仕事ですから」

「珈琲奢るからあとで寄ってね」

「ありがとうございます」

「あ、でも、マサ。お店は……?」

「親父が代わりに立ってくれてるんだ。ついでだから、ちょっと休憩でもしようか」

「それなら……」

 シェリルはいたずらっ子のような笑みを浮かべ、エレクトラムにチラリと微笑みかけた。

「マサの珈琲が飲みたいわ」

「ふふ。わかったよ。じゃぁ、一緒に戻ろう」

「ええ。喜んで」

 エレクトラムは人混みの中を、手を繋いで戻って行く二人の背を見ながら、胸のあたりが温かくなるのを感じた。

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