陸:かさぶた
ソフトボールほどの大きさがある琥珀が脈打っている。
まるで再び生まれようとでもしているかのように。
「なぁ、エリー。この琥珀の中の大妖怪ってどんな奴なの?」
休憩中の月島が巡回中のエレクトラムを見つけて話しかけてきた。
エレクトラムは琥珀に手をかざし、中の様子を確かめた。
「兎ですね。
「う、兎? なんていうか、想像していたのとは違うなぁ……。兎って、そんなに強いイメージないけど」
「
「厄介な妖術ってどんなの?」
「一言で言えば〈魅了〉とか〈誘惑〉ですかね」
「ああ……、そういう感じね。強い奴を仲間に引き入れて従わせる力があるのか」
「その通りです。
「なるほどねぇ。友達にはなりたくないな」
「あはは。そういう見方もありますね」
月島は「教えてくれてありがと」と言って休憩室へと戻って行った。
エレクトラムはその後姿を見送りながら、また琥珀へと視線を移した。
「化石の展示室に置いたら他の生体起源の化石と共鳴して悪さしようとしていたから、呪物の展示室に置きなおしたけど……。何かしようとしてるでしょ」
琥珀はまた脈打った。
「ほら、梅乃ちゃんたちがものすごく嫌そうな顔をしてるじゃないか」
それでも、この琥珀がただただ脈打つだけにとどまっているのは、塩を混ぜて精錬した鉄の檻の中に展示し、何重もの結界を張ってあるから。
「やんちゃしようとするなら、琥珀ごと消滅させるからね」
脈打っていた琥珀がゆっくりと静かになっていった。
「大人しくしててよね」
エレクトラムは溜息をつきながら展示室から出ていった。
琥珀が騒ぎ出すたびに梅乃ちゃんやその他の呪物から、「どうにかして!」とスマホにメッセージが届く。
妖怪にも冬眠という概念が多少存在するため、本格的な冬になる前に
まったくもって迷惑な話だ。
「今日はお客さん少ないなぁ」
それもそのはず。
冷たい今年最後の秋雨が朝から降り続いているので、皆足早に家路へと着いているのだろう。
「雨の博物館って素敵なんだけどなぁ……」
静謐な雰囲気の中で聞こえてくる雨音。
目の前には物言わぬ色彩や造詣。
心に語り掛けてくる言葉に酔い浸るには最高の環境だ。
「……
常連客はこういう雨の日は博物館が空いていることを知っている。
それに今日は精神科医の七五三がボランティアで来てくれる日。
喫茶店の中だけは、いつも通り賑わっている。
暇なのはエレクトラムとチケット売り場くらいだ。
「おおい、ラブラドル君」
「あ、オーナー。どうしました?」
「
「ああ……。今のところはまだ弱っているみたいなので、その……」
「……そうか。いつもありがとう。やっぱり、どんな母親でも、それはそれで心配でね」
「わかってます。気を付けて見ておきます」
「助かるよ。じゃぁ、またあとで」
四月朔日はほっとしたように微笑みながら、学芸員たちの元へと戻って行った。
エレクトラムはその後姿を見ながら、少し切なくなった。
四月朔日の母親は、現在呪物の展示室に安置してある、呪物なのだ。
呪物名は『
本来なら腐ることなどめったにないはずの貴金属である〈金〉が、四月朔日の母親の怨念が強すぎて腐敗してしまっているのだ。
母親の名前はエディンバラ ステラ=エリシア。
英国人の貴族で侯爵家の一人娘だったエリシアは、日本人留学生だった
しかし、幸せで順風満帆な結婚生活は二年と続かなかった。
子供が生まれてすぐ、楓がパーキンソン病に罹患。
不慣れな異国で日に日に衰えていく夫を前に、エリシアは精神が崩壊。
少女時代によく通っていた英国の占いの館に心酔するようになっていった。
そして、占い師から「あなた様の息子が旦那様の生気を吸い取ってしまっているからこんなことになったのです。あなた様の息子は悪魔の子です」と言われ、エリシアはそれを信じてしまった。
「満月の夜に清めた金の刃で息子を殺せば、旦那様はすぐに快復いたします」と助言されたエリシアは、その通りに実行しようと決心する。
条件の一つに「旦那様の目の前でやらなければなりません。息子の中に吸い取られていた生気をすぐに旦那様にお戻ししなくてはなりませんから」というものがあったため、エリシアは楓と息子に「今日は久しぶりに家族みんなでご飯を食べましょう」と提案し、介護士なども部屋から出して夫の寝室に食卓を用意した。
そして全員が席に着いた瞬間、エリシアは嫁入り道具として持参した裁縫セットの純金の鋏を取り出し、息子に襲い掛かったのだった。
グサリという鈍い感触と食器が床に落ちていく激しい音。
エリシアの目の前で血を流しているのは、夫だった。
「き、君の様子が、ひ、日に日に、おかしく、な、なっていくから……、でも、ま、まさか、ジョージを、こ、殺そうと、するなんて……」と、心臓から血を流しながら電動ベッドから滑り落ちていく夫の姿に、エリシアは悲鳴を上げて髪をかきむしり始めた。
耳をつんざくような声。楓の指示で外に控えていた介護士と執事、メイドたちが部屋に流れ込み、ジョージをかばうように保護。
エリシアは拘束されたが、一瞬の隙を突いて鋏で喉を切り裂き、自害してしまった。
その後は四月朔日もほとんど覚えていないのだという。
気付いた時には母方の祖父母がそばにいて、父親の葬儀に参列し、住んでいた家は売りに出されてしまっていた。
それから成人するまで、祖父母が新たに買い与えてくれた家と、雇ってくれた執事たちと暮らし、今に至るのだという。
何不自由ない暮らしに、優しく愛情豊かな祖父母。
四月朔日が歪まず育ってこられたのは、祖父母と、自分でつかみ取ってきた生活環境のおかげだ。
父親の顔は満足に思い出せず、母親の顔は目に、脳に、心に焼き付いてしまっているとしても。
(だからオーナーは人の心を大切にするんだよね。そして、それと同じくらい、呪物も……)
エレクトラムがこの〈二十一時の博物館〉で働き始めた時に、四月朔日が話してくれた。
――「もしあのとき、私が三歳ではなく十五歳だったら、母のことも救えたかもしれないね」
エレクトラムは、その時は何と言っていいかわからなかった。
でも、今ならわかる気がするのだ。
きっと、答えなどいくらでもあって、そのどれもが間違っているのだと。
「ふぅ。今日は冷えるなぁ」
雨音が一段と激しくなってきた。
足音も、笑い声も、涙の音も隠してしまうほどに。
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