第31話 無垢な約束

「氷澄、来い。若松も待たせてある」


 教卓に座る井伊先生が急ぎ足で出ていった。後に続いて行くと、胃から何かがせりあがってくる気もした。


『らしくないな』


 コノミコは不真面目を少しだけ抑えそう言った。返す言葉もおざなりに、再び幼馴染と対面する。

 彼女はよく腕を組む。胸が強調されるその仕草にも今は無感動だった。


「昔、お前に言っただろう。来るべき決戦、そのためにお前は生きる、と」


 夢で見たあれだ。彼女の狂言が蘇る。


「覚えているよ」


 井伊先生は目を伏せた、ように見える。もしかしたら足を机に乗せたタイミングで、たまたまそう見えただけかもしれないが、もしそうだとしたら、彼女は悲しい顔をしていた。


「我々には大いなる計画がある。この戦争を終わらせることができる計画がな」


 虎帯ちゃんの決意の眼差しは揺らがない。そして先生の悲しげな顔もそのままだ。


「私がここにきたのは学兵の中に転がる宝石を探すためだ。敵を倒すための力がある者を見つけにきたのだ」


 演説家のような口ぶりで騒ぐ。どこかでカラスが鳴く。夕暮れにはまだ早いが、ぼんやりとした月が窓の外から見えた。

 差し込む日差しはまだ熱を持ち、制服の内側に若干の汗をかく。


「その計画って、どんな」

「機密だ」


 そう瞬時に答え、


「だが、お前が参加するのであれば話そう」


 と微笑みを忘れ言う。


「スカウトしにきたんじゃないの?」

「もちろん。しかし本人の意志というものもある。本来は強制的でも構わないのだが、私とお前の仲だ。自由意志を尊重するし、断ったからといって、私たちの関係にいささかの亀裂も入らないことを約束しよう」


 時間をやる。そう言って席を立った。


「三日やる。迎えをやるから、その時までに決めろ」


 振り返りもせず颯爽と部屋を出る彼女の背中に、おびただしいまでの何かがあった。あくまでも俺の感覚だけがそれを捉えたが、あれは彼女の背負う重荷、奪ってきた命なのかもしれない。


「お前も帰れ。飯食って、風呂に入って、寝てしまえ」


 井伊先生は優しく言葉でもって背中を押す。俺は計画の話を聞く前の時間のように、重苦しい気分で家に帰った。祖父の作った暖かい食事。沸いていた熱い風呂。それなりに掃除された寝室。


 自分の空間であるにもかかわらず、どうにも息苦しい。こんな時こそ役に立つはずの父の日記にも触りもしなかった。

 虎帯ちゃんのこと。ただそれだけが頭のなかで渦巻いている。あの時、彼女が背にしていたものはなんなのか。どうしてあれほどまでに、俺が感じた何かを背負えるのか。決して生半可なことでは纏うことのできない雰囲気が、今の今まで思考の分断と縫合を繰り返させた。


 彼女にへばりつくあの靄は救うはずの、奪うはずの命か。それとも救い、奪った命か。そんなものがかたちを変え怨霊となって取り付いているのかもしれない。

 それとも決戦とやらへの覚悟だろうか。即答しなかった俺への怒気なのか。

 ただどうであれ、彼女は弱気をひしぎ、覚悟の炎を燃やしていた。それはわかった。俺に見せた笑顔をすて、他人行儀なことまでして正々堂々と評価をしにきたのだ。

 それは氷澄大和という人物が決戦の舞台にふさわしいかどうかを見極めるためだ。


『面倒なことは考えず、もっとシンプルにいこうよ』

「そんなことはできない。虎帯ちゃんは真剣だった」


 計画。それは口に出すのもはばかられる、神のお告げのような気がした。


『やるか。やらないか。どっちかしかないぜ。そもそも、どうしてお前がやらないといけない? 日本が人手不足なのは知っているけど、それにしたって変だ』


 コノミコは少しだけ憤慨していた。


『お前らの縁なんて関係ない。別に放っておいてもいいだろう』


 このまま演習と授業を繰り返し、時期が来れば基地に配属され、退役まで無事ならば余生を過ごす。それも悪くはない。祖父のような生き方ができるのならば、それは素晴らしいことだと思う。


 だけど。


「俺の全ては虎帯ちゃんに捧げる。幼くて、無垢で、言葉の意味も知らない子どもの頃の約束だ。守ろうにも忘れていたっておかしくないさ。コノミコ、お前の言う通り、無視したっていい。でも、こうしてまた出会って、思い出して」


 若松虎帯がいて、氷澄大和がいる。俺たちには約束があり、約束は守らなければならない。


「答えはもうあるんだ。俺はやる気になっている」

『じゃあグダグダと何を考えてんのさ』


 疲れが足から腰に広がり、全身を包む。心地の良い気だるさがそのまま眠りへと誘う。


「恥ずかしいから言わない。おやすみ」

『は? なんだよそれ』


 暗かったのも、気分が落ち込んでいたのも原因は一つなのだ。そのせいで考えがまとまらなかった。

 虎帯ちゃんが俺を嫌ったのかと思った。これだけのことで、俺はヘコんでいたのだ。

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