第26話 氷の積み木

「あの講師、若そうだったね。もしかしたらあんた勝っちゃうかもよ」

「そうだな。まあ、これだけあればみんなに飲み物くらいは振る舞えるよ」


 貯金箱は振ると軽いが娯楽の重みを感じる。俺の言葉に教室は一層盛り上がった。


「さすがだ」

「そうじゃないと困る」

「当たり前のことを言うな」


 最後のは誰だ。歓声に紛れて適当なことを言いやがって。

 そんなふうに騒がしくしていると、先生が半身になって教室を覗きにきた。


「おーい。個人評価するぞ。まずは田中から」


 水を差されて大人しくなり、それぞれ席に戻る。熱気から解放されると蓄積された疲れがまぶたを攻め立て、夕暮れの気配を強くする空に意識が溶けそうだ。

 横目で東風を見ると目があった。彼女は机に頬杖をついて片目だけでこっちを見ていた。俺と同じように疲れていた。

 彼女は声を出さずにお休みと言って目をつぶる。


『こんなのが前線じゃ永遠に続くよ。終わりは死ぬか殺すか二つに一つ。今からでも爺さんみたいに整備士を目指すか? 超危険からまあまあ危険にランクダウンだ』


 コノミコがこういうことを言うときは、声のトーンをあげる。冗談であることを暗に示しているのだ。

 ただ、これは俺を案じてくれているのだと思う。自惚れだろうか。


「優しいな」

『そうだろう』


 ほら。こんな調子で俺の疲れを慰めるのだ。まったく俺は世話を焼かれている。

 まどろみにしばらく浸っていると、鈴木が俺を呼んだ。説教の時間だ。


「機嫌どうだった」


 何の気なしに鈴木に訪ねた。こいつは相手の援護班だった。それについて何かを言われたかどうか聞きたかった。先生のご機嫌次第では雷か叱言かに分かれる。どちらもきついのだが、できればネチネチと責められるよりはスカッとぶん殴られでもした方が楽だ。


「行けばわかるよ」

「そりゃそうだ」


 適当な答えに俺も適当に返事を返し、教室を出た。

 先生の城は今日も汚く、物が散乱している。書類や食い終わった菓子パンの袋が散らばる机も、脱ぎ捨てられたジャージや、崩れた雑誌とで、足の踏み場を作る必要のある床も変わらない。その中央、椅子にどっしり鎮座する我らの担任もその光景の一つだ。ただ、一つだけ違うことがある。


「失礼します。氷澄三等陸兵です」


 いつもより元気に名乗ったのはその違和感に負けないようにするためだ。


「おう。座れ」


 勧められたのは小さな丸椅子。「さて、それじゃあ始めるか」と彼女は俺が座るのを待ってから言った。


「あの、そちらの方が、もしかして」


 俺はこらえきれなかった。評価なんてどうでもいいから、なぜ彼女がここにいるのかを確かめたかった。


「紹介するよ。彼女は」


 井伊先生を制して、隣に座った少女は大きく息を吸い込んだ。


「名乗ろう。私は若松わかまつ虎帯こたい。日本陸軍所属で、階級は中尉だ。今回は戦友であり、友人の井伊さんの頼みできみたちを見学しに来た。よろしく」


 虎帯ちゃんは昨日とはまるで別人だった。顔面に無機質な愛想笑いを貼り付け、初対面として挨拶をしたのだ。

 その瞬間に悟った。ここにいるのは夢に出る彼女ではない。あの夏の日に、俺を殺すと言った彼女ではない。瓜二つの誰か別人、双子であるとすら思う。


「よろしく。氷澄くん」


 差し伸べられた握手を俺は数瞬遅れで握り返す。彼女の方から手を離し、評価付けが始まる。始まる前から俺は弱っていた。表には出さないが、衰弱していた。今までの友人関係が終わり、上下関係になったことに動揺していたのだ。

 築き上げたと思っていた積み木が、実は氷で、時間が経つと無くなってしまうと知らされた気分だ。彼女との築いてきた関係性はなんだったのだという虚無感の太い針が俺をこの空間に縫い止めている。動けば倒れてしまう気がする体を支えているのは、その針だ。

 存在しなかったことにされた時間ではあるが、俺には重要な記憶である。それが依代となって卒倒しそうな意識をつないでいた。

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