第39話 共に

「だいぶ早く来てしまった」

『それくらいわかるだろう』


 小鳥のさえずり。風のざわめき。クラシックとコーヒーがあれば、俺のイメージする陳腐な金持ちだ。だがほのかに香る火薬の匂いはハンガーにかけられた軍服から、虎帯ちゃんの枕元にあるのは飲みかけの水のペットボトルとむき出しのナイフ。金持ちの家ではあるが優雅さは感じられない。


「ううん」


 艶かしい寝息でもぞもぞと寝返りを打つ。タンクトップの肩紐がずれて、背中が大きく見えた。

 落ち着け。まずは呼吸を整えてから、彼女を起こそう。そう決めたはいいが、この光景をずっと見ていたい気もする。彼女が写真に興味を持ったのは、こんな光景を見たからだろうか。神々しさを切り取りたい気持ちが初めてわかった。

 煩悩が俺を支配する。これを打ち払えるかどうかで俺の、いや男の価値は決まる。


『難しく考えるな。バカなんだから』

「おはよう、虎帯ちゃん」


 弱々しくそう呟いた。ここに俺の価値は決まった。決まったはいいが、欲望に打ち勝った勇者か、甘い誘惑に溺れぬ愚者か。そのどちらでもない。


『言い訳する気満々の半端者だ』


 彼女は起き上がる。目をこすり大きくあくび、ゆっくり水を飲んでからようやくこちらを向いた。


「あれ? 大和か。どうしてここにいる。お前の家で寝た記憶はないが」


 寝ぼけているのか。よく見ればまたクマができていた。


「ここは虎帯ちゃんの家だ。時間は早いけど、遊びに、というか、虎帯ちゃんが週末に来いって言うからさ。でも、ちょっと急ぎすぎたね」


 彼女は片目だけを開けてクローゼットをあさる。くたびれたジーンズと紺色のシャツに着替え始めた。俺の目の前で、だ。

 もちろん見ようとすればパンツの色もわかる。だがそれはいけない。こういうのに浪漫や美を感じるものもいるだろうが、俺は着替えをまじまじと眺める行為がひどく気に入らなかった。

 くるりと椅子を回し、机にうつ伏せになる。衣擦れすらも聞いてはいけない気がして、耳を塞いだ。

 そして頭の上に柔らかい感触。置かれた手が着替えの終わった合図だった。


「律儀だな。別に見たって構わないのに」

「そんなわけにはいかないよ」

「お前じゃなければ人前で着替えなどしない。この意味がわかるか?」

「信頼しているってこと?」


 自分で言うのもおかしいが、彼女の問いには答えなければいけない。特に屋敷の惨劇を見て来たばかりなのだから。


「そうではないが、まあ似たようなものだ」


 彼女は「顔を洗ってくる」と言って部屋を出た。十分もしないうちに戻ってくると、椅子に座る俺の前に立ち、座布団を指差す。


「私の部屋だぞ」


 微笑んではいたがその目は全く笑っていなかったから、おとなしく従った。


「遊びに来てくれたのは嬉しいな。たとえ軍絡みであったとしても」


 純粋に顔を見たかったのもある。そんなことは言えないけれど。


「もう少しゆっくり眠っていたかったけど、まあいい。お前との時間は睡眠よりも価値がある」

「大袈裟だ」

「大袈裟なものか。そうだ、離れている間に変な虫はくっつかなかったか? 差し出がましいが、結構心配していたんだ」

「変な虫?」


 なんだそれは。部屋にいつの間にかいる蚊とか蜘蛛とかのことか。


「ああ。気にするな。勝手に調べるから」

「わからないけど、そうしてくれ。別に虫なんてどこにでもいるし。でもそんなに心配してくれるなら、手紙くらいはくれたっていいじゃないか」


 俺たちは離れている間、一切の交流がなかった。手紙も電話も、もちろん顔も合わせていない。


「それは流石の私でも恥ずかしい」

『また妙なことを言い出すね。こんなスプラッタな屋敷に人を呼んで恥ずかしくないってか』

「……俺もしようとはしたけど、住所もわからなくて」

「あの時は御用があって、我々の居場所は内密なものになっていたんだ。会津には、まあ今回も似たようなものだけど」


 さて。虎帯ちゃんはそう言って手を打った。


「前回、お前は答えを出した。しかし、私はお前を引き下がらせたな」


 同意するのも違うような気がして、小さく頷くにとどめた。彼女は両ひざに手をつき、


「謝ろう。偉そうなことを言っておきながら、私は覚悟ができていなかった」


 頭は下げない、声のトーンも変わらない。少しだけ目を閉じたことが彼女の俺に対する謝罪の態度だった。


「お前は参加しない。そう思ったし、そうであって欲しかった。一方で参加してもらいたいとも願った。お前に死んでほしくないのか、死んで欲しいのか、それすら曖昧な状態で、どちらかといえば共に戦場にいたいと、殺したいと、そのくらいの甘い考えでいた」


 だから。と、虎帯ちゃんは言葉を選びながら続ける。


「お前が答えを出した時、私は予想が当たり、外れ、嬉しくて、悲しくて、身体中の肌が粟立った。お前の顔もまともに見れなくなって、あのままでいたらなにをしでかすか自分でもわからなくなって、それでつい追い返してしまったんだ」


 それで。俺は言った。


「覚悟はできたの?」

「無論」


 彼女は涙を一筋だけこぼした。


「お前はもう戻れない。のさばる世界中央を叩き潰そうじゃないか」


 涙の理由はわからない。だが彼女は力強くそう言った。

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イノセント・ダイブ しえり @hyaru

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