第16話 言葉の印刷
これは自惚れではない。祖父たちのヒントはあったし、昔馴染み、少なくとも知り合い程度の関係じゃないか。ここまできて恥ずかしいなどと言っていられるか。
「俺――とか」
すると、ようやくか、と虎帯ちゃんはあっさりと言って肩を落とした。心底疲れたように、前面に向けた背もたれへと体重を預け、眉根を揉んだ。
「そうだ。お前に会いに来た。なぜこんな簡単なことにさっさと気が付かないのだ」
彼女は緩慢に椅子から降りて、俺の分のはずの座布団に座った。俺はやっと上半身を持ち上げ、絨毯にあぐらをかく。
「気が付くも何も、虎帯ちゃんが」
話を聞いてくれなかったし、理不尽な問いを出題するからこうなっているのではないか。
「私がなんだ」
「いや。それより俺に会いに来たって本当?」
強引な方向転換。彼女は「ふむ」と鼻を鳴らしただけで、特に追求はしてこなかった。
そして沈黙する。俺は聞いた側だから、黙っていてもおかしくはない。聞かれた側だって、その質問に答えないといけないわけではないし、考えている途中の場合もある。
だが、この空間にある静けさはそれとは全く違う。かなり不思議な要素が組み込まれている。
虎帯ちゃんはあぐらのまま、自分の太ももを撫でながら、口をへの字に曲げている。大きな目を細く鋭くして、瞳は活発に俺と虚空とを行き来しているが、なぜか不機嫌さを感じない。
不思議な要素とはこれだ。俺は彼女を激しい人間と認識しているし、多分間違いじゃない。
それが今、中途半端な態度をとっているのだ。打てば響くように答えるのが若松虎帯であり、気に入らなければ殴るのもまた若松虎帯だ。その彼女が、開口を渋るように、時折俺の様子を覗うような素ぶりさえ見せている。
これはおかしい。俺はこんな静寂を知らない。こんな彼女を知らない。壁掛け時計は俺たちを無視して正確に時間を刻む。俺が踏まれている時にも針は進んでいて、夜はその勢力を空いっぱいに広げていた。かろうじて地平の彼方にうっすらと太陽の残滓がある程度で、正直なところ急いで欲しかった。腹がへっていた。
様子は一向に変わらない。それは一言も発さないというところだけで、彼女の動作は、俺が窓から見える月に少しだけ興味を示した瞬間に、大幅な進路変更がされた。
さっきまでは目が合うとふっと視線を外していたが、今はあっちからガン見している。
口元は白い歯を少しだけ見せ、しかし微笑みではなく、動物の威嚇のようである。
「どうかした?」
『なーんか怒っている気がするね』
そうらしい。目をそらせば負ける。そんな自分ルールが俺を縛る。
「虎帯ちゃん?」
もう一度、さっきよりもよほど弱々しくそう聞いた。彼女は返事もしない。返事の代わりに、
「私は自分の気持ちがわからない」
と言った。彼女の表情は変わらず、威嚇を続けている。
口を挟む前に、またすぐ続ける。
「お前がここに来てから、ずっとだ。最初は鼓動の高鳴りと興奮を抑えられることができなかった。お前がおかしなことを言うと、何も見えなくなって、お前の声と姿しか頭に入ってこない。今は」
不意におとなしくなった。目のつり上りも、威嚇の歯も、勢いも鎮火した。
「お前に会いに来た。それは本当だ。だが、うまく伝えられない。私はこんなにもお前を想っていたのに、こんなにもお前を考えていたのに、それが何故だろう、空回りしてしまうとでもいうのかな。殴ったり蹴ったり、そんなことをするために部屋まで招いたのではないんだ。私はお前と、例えば会えなかった時間のこととか、近況とか、なんでもいいから話がしたかったんだ。空白の時間を埋めたくて……ただそれだけのはずだった」
さっき睨んでいたのは、どうやら俺が窓の外に気を取られたからだそうだ。
「それだけなのに」
悲痛ではない。嘆きでもない。それは自分の気持ちを言葉に変換する作業だった。機械のような正確さで、彼女は作業を行ったのだ。
これが若松虎帯の素直な気持ちなのだろう。だから、俺も素直にならなければいけない。
腹がへったとか、それはもうどうでもいい。彼女がしたいことを俺はさせたい。それが俺の素直な想いである。
彼女は機械的に感情の整理をしたが、それはあくまでも頭の中の動作であって、心中はきっと穏やかではないだろう。その証拠に、彼女の表情は暗い。眉を下げ、やや俯くと前髪が目にかかる。勲章もその威光を無くしたようにしょんぼりとしているようだった。
しこたま殴られ、踏まれても、俺は虎帯ちゃんがこんな顔をしていることが嫌だった。
彼女が思いつめるようなことがあってはならない。考えた通りに物事が動いて欲しい。こんな顔をする若松虎帯を見たくはない。
それは幼い頃に植え付けられた彼女に対する信仰のような感情が影響しているのかもしれない。でも神様がどうとか、供物がどうとか、そういったことじゃない。ただあの時の彼女が、俺には煌いて見えたのだ。だから、極端なはなし、好きなのだ。
知らないことなどないのではないかと思うほど知的で大人だった。ただそれだけで、俺が知らないことを知っていたからというだけで、神様に見えたのだ。
俺を構成しているものは、父の日記と祖父の教えと、紛れもなく彼女だった。
「虎帯ちゃん」
だったらするべきことがあるだろう。
『わかっていたけど、お前も変なやつだよ』
コノミコは呟いた。もう俺は止まれない。
彼女は俺の目ではなく、全体をぼんやりと見ている。そこには若干の戸惑いがある。自身の告白がそうさせているのだろう。
過去、会話をすることにこんなにも意気込んだことがあっただろうか。吐息は炎のごとく、思考はマグマのごとく猛っている。
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