第15話 亀

 答えた途端に椅子から立ち上がり、俺の胸ぐらを掴んだ。言い訳も抵抗も許さないほど機敏だった。


「とぼけるな!」


 顎に直撃する鉄拳。脳が揺れ、その場に倒れ伏した。


「最後の別れは八年と十五日前だろうが」

「そ、それってほとんど正解じゃ」


 おそるおそる見上げると、ドスンと腹を踏みつけられた。どうでもいいことだが、彼女の軍服にはいくつかの勲章が付いていた。


「お前にとって、私と離れていた時間はどうでもいいものなのか。お前の答えと真実の間には十五日間の隔たりがあるだろうが!」


 ひっくり返った亀の腹を踏みつけながら、そんなことを吐き捨てる人間がいるだろうか。信じたくはないが、俺は亀で、彼女はその不条理な人間なのだ。

 昔はこんなふうに暴力を振るわなかったと思う。忘れているだけなのか、猫をかぶっていたのかはわからないが、俺には彼女が知的な存在として見えていた。そのイメージは完全に、彼女によって砕かれた。


「さみしいとか、会いたいとか、私に対する感情を抱かなかったのか」


 彼女と会わなくなってからしばらくはそうも思った。だが時間は悲しみを薄れさせ、出会いはそれを思い出にする。


 しかし、そんなことをいえば彼女の不条理はその度合いを超え、もしかしたら戦場とは関係のないところで俺は命を落とすのではないか。


「もちろん寂しかったし、会いたかった」

「嘘をつくな。もし本当なら、さっきの問いを間違えるはずがない」

『痺れるね。船は大破。沈んじまった』


 コノミコは口笛を吹いた。こんな無責任さも魅力ではあるし、どう転んでも納得できたが、今度ばかりはそうはいかない。命がけの問題だったんだぞ。


「間違えたことは謝る」

「私のことも気がつかなかったじゃないか!」

「ごめん。あまりにも見た目が変わっていたから」

「当然だ! この長い歳月、どうして」


 踏みつけられる足に力が込められた。わざわざみぞおちに場所を変更させてまで、グリグリと痛めつける。


「どうして平気でいられたのだ!」


 ともかくなだめなければいけない。腹を踏まれるためでも、殴られるためでもなく、まずは俺がここに連れてこられた理由を知らなければいけない。


「起き上がりたいから、踏むのをやめてくれない?」

「こうなっている原因はお前だ!」


 胃液がせりあがるくらいには、俺の腹は床にくっついていた。これはもう会話ができる状態ではないが、どうすることもできないように思う。一応乗っている足をどかそうとしてみたが、


「まだ終わっていないだろう」


 と、かかとでひねりを加えた圧が、俺の抵抗を破壊した。


「俺、門限があるんだけど」


 夕日は地平線に隠れようとしている。遠くの街灯の光がこんなにも恋しいのは初めてだ。


「お前のお爺さまには許可をもらっている」

「え?」

「我が祖父とお前のお爺さまは旧知の仲だ。今頃はどこかで酒でも飲んでいるはずだ」


 聞いてないぞ。もしかして、あの天狼とかいう名前のひとか。じゃあ、その孫が虎帯ちゃんで、こっちに来た理由って、確か――。


『友人に会いに来たって言っていたな』

「あ、ああ! そうだ。虎帯ちゃんが会津に来た理由。それを当ててみせるから!」


 なりふりかまっていられない。ここはなにがなんでも、とにかくまずは床から立ち上がらなくちゃ。


『……やるだけやってみたら?』


 彼女は俺の言葉に未だ不機嫌だが、足を腹から退けて椅子にもたれた。尊大に腕組みをして、倒れた俺を見下す。その状態から動くことはできなかった。蛇に睨まれた蛙のように、寝そべったまま目だけを彼女に向けた。


「言ってみろ。ただし」


 間違えたら殺す。とは言わないが、瞳の暗い炎がそう言っている。

 それに気圧されたのではない。俺が口ごもったのは、何が彼女にそこまでの激情を引き起こさせているのかということだ。それもこれも、とにかく今を切り抜けよう。


「……友達に会いに来た、とか?」


 彼女の太い眉が大げさなほどに動いた。片方だけ釣り上げ、


「友達だと? 一体誰だ」

『釣れた、かな』


 やるだけやってみよう。正解は彼女だけしか知らないのだから。

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