講師

第20話 一族の技

 夜が明け始める頃、珍しく目が覚めた。体は疲れていたのに妙に頭が冴えてよく眠れなかったせいもあるが、それ以上に日付が変わっても行われた爺さんたちの宴会が眠りを妨げたのだ。


 寝床から這うように起き上がり居間を覗く。いびきをかく老人二人が気持ち良さそうに寝ていた。

 祖父の国主はふんどし一枚でつまみの小鉢が散乱する机の上で大の字になり、天狼さんは畳の上で全身を縮ませて眠っている。


「……よっぽど楽しかったんだな」


 ため息交じりで片付けを始め、しばらくすると天狼さんが先に起きた。遅刻しない時間まで片付けをしようとしていただけにありがたかった。


「おはようございます」


 手をついての挨拶に面食らったようだけど、彼もそこに居直り、平伏した。

 朝の挨拶を、俺からしたからとはいえ、これだけ大仰に、しかもはるか年下にするとは恐れ入る。


「おはようございます。こんなに早くから偉いね」


 頭をあげると、彼は机上の空き缶を振って中身を確認した。まだ入っていたようで、それを飲み干した。


「いいえ。これくらいは。それより、祖父に付き合ってくださって、なんだか申し訳ないです」


 国主の肩を揺すぶってもいびきが増すばかりだ。無意識だろうか、手で払われた。


「私が押しかけたんだ。国主は悪くないよ」


 微笑みが板についている。やはり軍人だったとは思えない。


「何か食べるかい? 昨日の残りで悪いけど、寿司があるよ」

「いただきます」


 間髪入れずにマグロをつまむ。乾いていたが、文句などあるはずもない。

 余っていた天ぷらも食った。天狼さんはまるで本当の孫を見るように絶えずニコニコしていた。


「君は国主よりお父さんに似ているね」


 箸を持つ手が止まった。彼、いや、若松一族はどうしてこうも俺の心の柔らかい部分を突くのだろう。


「あまり記憶にないもので。似ていますか?」

「彼も、秀真くんもご飯をたくさん食べる人だった。たくさん食べなければ軍人ではないって言っていたよ」


 そうした格言のような、秀真流の心構えは日記にもあった。俺を構成するものの一つにはその日記が含まれているから、父に似るのは当然かもしれない。

 我が家に仏壇はなく、遺影が飾ってあるだけだ。仏頂面の父と、その隣に飾られる母。

 母は扶桑ふそうという。彼女についての記憶もほとんどないが、厳格よりは奔放な人だった気がする。日記の父は常に自分に厳しい人物だったが、いたるところに母のことが書いてあった。


「彼女は今日も弁当を作った。あんな重箱が鞄に入るものか」


 ページの隅には重箱と鞄の対比が汚い絵で表現されていて、どうやらそれは三段がさねの重箱弁当だったらしい。それ以外にも二人で一緒の布団に寝ると狭いとか、基地まで遊びに来るとか、のろけのような小言が多くある。挿絵のように母の写真を貼るなど、相思相愛ではあったようだ。

 写真の彼女にはのんびりとした印象を受ける。垂れた目尻と小さな口、長い髪。しかし身長は父の半分よりも少し上というくらいで、幼い俺と並ぶ写真を見るとまるで姉弟のようだった。

 天狼はその微笑みを悲しみで曇らせる。


「素晴らしい人たちだった。性格も、腕もね」


 彼は続ける。俺にその語りの中身を重ねながら。


「顔は扶桑さんに似ているけど、腕と性格は秀真くんだね。あ、でも目元はお父さんそっくりだけど」

「俺はまだパイロットとして、父にははるかに及ばないでしょう。その背中すら見えていないはずです」


 その足跡だって時間という風雨が吹き飛ばし、輪郭をおぼろに残すだけだ。俺には日記を追うということしかできず、父の背中など伝聞でしか知らない。その伝聞は全てが父を賞賛するものであり、日本一の騎手だったとか、そうした死者に対する神格化のようなものも混じり、信ぴょう性は薄いだろう。


「自信を持ちなさい。井伊くんも褒めていたよ」

「先生とお知り合いなんですか」


 やはり軍にはそういう情報網があるのだろうか。


「実はね、しばらく会津に滞在するんだ。それで井伊くんに挨拶に行ったんだ」


 虎帯ちゃんも一緒ですか。危うく飛び出しそうになった恥ずかしいセリフは喉で滅した。


「聞くところによると、大和くんは成績優秀らしいじゃないか」

「まさか。そんなはずはありません」


 演習が終わるたびに、先生は難しい顔をして俺に改善点を告げる。もちろんそれは教師として当たり前のことだろうし、悪いのは俺だ。

 でもあの人は褒めるところは褒める。現に東風なんかはべた褒めされたことがあるらしい。つまり俺には悪いところしかなく、褒めるところがないのだ。これで優秀など、他の優秀な奴らに失礼だ。


「そうかい? 井伊くんも人が悪い。私がきみを知っていると伝えたから、いたずらをしたんだろうね」

「あの、すいません。なんだか恥をかかせたみたいで」


 知り合いにアホがいればいい気分ではないだろう。だが彼の目の前にいるのはそんなアホなのだ。居場所がなくなったみたいに俺は転がる茶碗を片付ける。


「そんなことはないよ。普段のきみでいてくれ。繕わない方がいい。その方が私も楽だ」


 さて。そう言って天狼さんは国主の顔面にコップの水をかけた。暴力的なのは血筋なのだろうか、そんなことよりも水が垂れて濡れた畳の方が気になる。


「おわ! 何事だ! ……ああ、寝ちまっていたのか」


 跳ね起きてすぐに状況を察するあたり、この人も整備士とはいえ元軍人だったと思い出す。こんなことで思い出したくはなかったけど。


「いい朝ですよ。国主」


 天狼さんは優雅にそう言って、国主を洗面所まで連れていった。


『やかましいったらなかった』


 目を覚ましたコノミコが昨晩のことを憎々しげに吐き捨てる。うるさいといっても会話が途切れ途切れに聞こえてきたり、ものが倒れる音がするくらいだ。寝ようとする身には耐え難いが、今思うとそこまでではなかった。

 国主が戻ってきた。その友人は体が大きく、あとから襖の天井をくぐる。


「お前、そろそろ学校に行けよ」

 

 自室に引っ込んで着替える。学生服は戦闘にも対応できるように耐久を重視され、少し重い。

 いってきます。平伏すると、天狼が手を振ってくれたのが妙に気になった。


「はい。いってらっしゃい」

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