季節が人を変える
第12話 訪問者
「氷澄。これ覚えないと、死ぬぞ」
田中はすっかりいつもの調子で、俺に資料を投げた。東風もそれに噛み付くこともない。
日常がどれほど大切かということを、ここにいる全員は知っている。だからこそ、関係を断ち切ることはしないのだ。
そして放課後、東風に寄り添われながら校門の前で呼び止められた。
「氷澄さまですね。お待ちしておりました」
身なりの整った老人だ。ストライプのスーツは長身である彼の身長をより高く見せ、白い手袋とつば広の帽子がよく似合う。白髪に品のいい口髭を携えているのも気品を高めるのに一役買っている。深く一礼すると、近くの黒光りする車のドアを開けた。これがリムジンか。でかいな。
「どうぞこちらへ。我が主人が首を長くしています」
この人物にそういったところはないが、状況はかなりの不審で、その奇妙さがなんらかの危険信号として肌に刺さる。
「失礼ですが、お名前は」
東風はそうした不審さを前面に押し出し、しかしわずかに俺を盾にしてそう聞いた。
老人は礼を失したことに慌てるも、その慌て方も丁寧だった。オオと声を漏らし自らの、ささいなこととはいえ失態に申し訳なさそうに深く頭を下げた。
「申し訳有りません。私は
顔を上げると、視線は俺に向かい、
「じっくりとこうなった経緯をご説明させて頂きたいところではありますが、なにぶん急を要していまして。氷澄さま、車にお乗りください」
有無を言わせぬ迫力があった。彼はおそらく軍人だ。退役したのか、現役かまでは伺えないが、彼には井伊先生のような凄みがある。
「東風、先に帰っていてくれ」
「……やめた方がいいと思う」
彼女もこの老人に俺と同じくただならぬ気配を感じたのだろう、先ほどまでの強い否定ではなくなっている。だが、制服の袖をひく手はきつく握られ、東風にしてみれば、あの戦場で俺を引きとめなかったことが記憶に新しく、それを追体験している気分になっているかもしれない。
「平気さ。あのおじいさんは優しそうだから」
こんなものは表面上そう見えるだけで、何の説得力もない。しかし東風は静かに頷いた。
「東風、いいか。俺は大丈夫だから。今日は早く寝ろ。お前、作戦覚えのとき、眠そうだったぞ」
これは嘘である。彼女はどんなことにも全力だし、作戦や演習に関わることで手を抜きはしない。渋々ながらわかったと袖から手が離れた。
「本日もお疲れ様でした。氷澄三等陸兵」
「お疲れ様。東風三等陸兵」
長い付き合いだけあって、どうも俺の心配を読み取ったらしい。いつもの挨拶で東風は振り返らずに帰り道を走っていった。
「では、こちらへ」
石畳は恭しく、ドアに手を差し向ける。
失礼します。革張りの座席が、俺にそんなことを言わせた。
彼は穏やかに運転席へ乗り込み、静かにアクセルを踏んだ。エンジンの音もほとんどしない。傍らには氷の詰まった銀色の小さなバケツにオレンジジュースの瓶が三本突っ込まれていた。後部座席はものすごい広さだったが、俺はこの待遇に恐縮し、運転席からほど近い場所に縮こまって座った。
「こんな形でお会いすることになり、重ねてお詫びします。私も以前から、あなたに会うべきだとは思っておりましたが」
彼はバックミラー越しに俺を見た。細い目が何とも涼やかで、車内の静けさとあいまって、最近にないほど平和な時間だった。
「俺なんかに?」
「そうです。初対面ですが、私はあなたをうんと知っていますよ」
「どうして」
その言葉には不気味な影がある。自分の知らないところで他人が自分を知っているというのは薄気味悪いものだ。
「失礼、余計なことは喋るなと言いつけられていました。ご勘弁を」
「誰にですか」
「それも内密に、と。我が主人は、少々激しいお方なので」
「ああ。それは大変ですね。気苦労も多いでしょう」
俺の周りもそんなのばかりだ。今朝の田中と東風の喧嘩を見ればわかる。あんなことが多ければ週に二回はあるのだ。対立の原因はほぼ同じ。俺のしでかしたことを田中が詰り、それを東風がかばってくれる。まさに今朝の争いが、クラスの日常の一部になっていた。
石畳さんはそれを聞いて微笑む。青春だと言わんばかりに細い目を一層細め、
「それはいい。気性にしろ行動にしろ、激しさとは一瞬ですが、喧騒を忘れられる」
「喧騒をばらまいていますけどね」
「そう。喧騒の中にいることが大切なのです。それこそが喧騒から離れる術なのですから」
つまりと続ける。
「騒げるうちに騒いだ方がいい。後になって、それは太陽のごとくあなたを照らすでしょう」
と言った。どこか寂しさがある。あなたにもそんな経験が、とは聞けなかった。
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