卑怯な人

増田朋美

卑怯な人

だいぶ秋らしい気候になってきた。確かに台風がよく発生する季節でもあるが、涼しくなって、穏やかに過ごせるようになる季節でもある。それは多分きっと、過ごしやすくなるので、人間が奢ってしまわないようにするための、自然のチカラなのかもしれない。そういうふうに、人間が何でも作ってしまわないで、そのままでいてほしいと思っているのが、自然というものでもあるのかもしれない。

その日、杉ちゃんはいつもどおり製鉄所の食堂で、そばを茹でていた。水穂さんに食べさせるための、そばだった。パンも食べられない彼には、そばが何よりのごちそうだった。幸い、水穂さんにそばアレルギーのないのが、不幸中の幸いだと思った。杉ちゃんは、そばをザルに開けて、水につけて冷やし、器に盛り付けて、そばつゆを小さな器に入れた。そして、箸を戸棚から出して、お盆に載せて、車椅子のトレーのうえに置いた。

杉ちゃんがそんな事をしていたのと同時に四畳半では。水穂さんが、布団に座っていたが、またえらく咳き込んでいた。その日は、休日だったので、由紀子が手伝いに来てくれていた。由紀子は、水穂さんの背中を擦って楽にしてやろうと思ったが、水穂さんは咳き込んで居るばかりだった。

「さあ食べろ食べろ。今日は、そばだよ。たっぷり食べろ。」

と、杉ちゃんが四畳半にやってきたところ、水穂さんは咳き込んだままだった。

「ああ、またやったのねえ。今年は、夏が暑かったけど、良く持ちこたえたなと思ったら、秋になって急に発作が多くなったな。なんか、秋になって台風が静岡によく来るのと同じような気がする。」

杉ちゃんはとりあえずそばをサイドテーブルに置いた。水穂さんは咳き込んでいて、それに気が付かないようだった。由紀子が、枕元にあった水のみを取って、

「ほら、これ飲んで、これ!」

と、水穂さんにわたしたのと同時に、口元から赤い液体が漏れ出したので、由紀子は、水穂さんの口に無理やり水のみを突っ込んで中身を飲ませた。水穂さんはしばらく咳き込んでいたが、薬を飲んで少し楽になってきたのだろうか、だんだん咳き込むのも小さくなっていき、数分後に止まってくれた。薬には眠気をもたらす成分があるのか、それとも意図的に眠らせてしまう様にできているのかは知らないが、水穂さんは、静かに眠り始めてしまった。

「あーあ、日が立つごとに、涼しくなるというけれど、発作も多くなるね。まあそれも宿命か。ま、仕方ないな。」

杉ちゃんは、大きなため息を着いた。

「これで、昼飯も食べなくなってしまうな、夕方まで目を覚まさないからな。」

「そうね。止まってくれるのはありがたいんだけど、それしか対処法が無いというのが、悲しいところよね。お医者さんも、なんとか、もっと楽にしてくれる方法とか、思いつかないのかな。」

由紀子は、ちょっとじれったそうに言った。

「まあねえ。そういう事は無理だなあ。まあ、由紀子さんにしてみれば、大事な人をなんとかしてほしいと思うんだろうが、基本的に、水穂さんのような人は、医療を受けさせてもらうなんて、できないことだよ。多分、大きな病院に連れて行っても、こんな人間に診察はできないって、門前払いになるんじゃないかな。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうね。例えば、杉ちゃんの得意な黒大島で病院行ったらどうかしら?変装すれば、出身地がバレなくて済むかも?」

由紀子は突拍子もない話を始めた。

「馬鹿。そんな事できるわけ無いでしょうが。どうせ、病院の問診票に、伝法の坂本出身と書けば、おんなじことじゃないか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも、出身がバレないで、医療を受けることだって、できるかもしれないわよね?」

と、由紀子は言った。

「ああ、無理無理。仮に受けられたとしても、途中で身分がバレたらどうするの?そうしたら、病院側に、身分詐称で訴えられちまうぞ。下手をすれば、詐欺行為とか、そういう事を言われちまうかもしれない。だから、しょうがないんだよ。せっかく、柳沢先生だって来てくれているんだらさ、それを続けていくしか無いんじゃないの?」

「でも、柳沢先生は、呼吸器の専門というわけじゃないでしょ。」

「そうだねえ。」

由紀子がそう言うと、杉ちゃんは直ぐ肯定した。

「でもさ、専門外でもああして来てくれるんだから、それはいいことじゃないか。一生懸命やってくれるだから。そもそも、水穂さんのような身分の人を、見てくれる先生が居るってことに感謝しなくちゃ。それはちゃんと、僕達が態度で示さないとね。」

「感謝ね、、、。あたしから見たら、かっぱみたいなハゲ頭の先生にしか見えないけどな。それより、もっと水穂さんの事を治してあげようっていう態度をしめしてくれるような人がいたら。」

由紀子は思わず本音を言ってしまった。

「まあ、そうだけど、そういう事を望むんだったら国を変えるしか無いでしょ。同和問題なんて無関係な国家に行かなきゃできないよ。そうすると、また海外の人のところで気を使わなきゃいけなくなるし、水穂さんが余計に気遣いして、辛くなってしまうと思うよ。」

と、杉ちゃんが言う通りでもあった。

「まあ、そういうことで、水穂さんは、どこに行っても、解決することは無いよ。柳沢先生が、ミャンマーのロヒンギャと一緒だって言ってたけど、それと一緒だよ。だから、水穂さんは、同和問題を理解してくれた人の中でしか、生きていかれないってことだよ。」

「それもそうね、、、。」

由紀子は、どうにもならないという感じの顔でそういった。

「まあ、どっかでヒーローみたいなやつが出て、今の政府をやっつけてくれるようなやつがいてくれれば話は別だが、そういう事は、多分ありえないから、まあ、そういう事は、まず無いから、今の現状維持しかできないんじゃないかな。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は、悔しかった。なんでこういう事になってしまうのかな。誰でも医療というのは、受けさせてもらうことのできる権利ではないの?

「まあ、無理だね。仕方ない、諦めることだな。」

と、杉ちゃんは、水穂さんの布団をかけ直してあげながら、大きなため息をついた。由紀子はとてもつらい気持ちがした。だって、明治とか大正ではあるまいし、今ではちゃんと治療法だって確立しているはずなのに、それが受けられないなんて。こんな悲しいことはない。

「諦めろって、今は、抗生物質とかそういうものがちゃんとあるじゃない。明治時代は死因のトップだったと言うけど、そんなの100年近く前の話よ。それとは今は全然時代が違うのよ。それなのに、なんで諦めなくちゃいけないのよ。悪性腫瘍とか、そういうものじゃあるまいし、治る可能性だって、十二分にあるんじゃないの?」

「だからあ、無理なものは無理なんだ。いくら、良い世の中になったって言っても、必ずそう思えない人が出てくるの!スマートフォンだって使えない人は永久に使えないよ。それと一緒何だ。それに、日本の社会ではできない人を、なんとかしようという法律も何もどこにもありませんよ!」

由紀子に杉ちゃんは、そう諭したが、由紀子は、それでも納得行かない様子であった。

「まあ体験して初めて身につくんだな。」

と、杉ちゃんはでかい声でそう言うが、由紀子の表情は変わらなかった。

そのころ。蘭は、ある女性の背中に鳳凰を彫っていた。

「受験戦争、ですか?」

と、蘭は彼女、石野つえ子さんの背中に針を刺しながら言った。刺青を入れてもらうお客さんは、みんな何かを喋るのである。黙っているお客さんは今まで見たことがなかった。特に女性のお客さんは、喋っているお客さんが多い。その女性、石野つえ子さんもそうだった。蘭が背中に針を刺している間、ずっと今までの過去のこととか、生い立ちの事を喋った。

「ええ、そうなんです。始めは隣の家の方の話を聞いただけだったんですけどね。いつの間にか、どうしても受験させないとだめじゃないかと思うようになってしまったの。」

お客さんは、敬語を使わない人も多いが、蘭はそんな事を気にしなかった。

「はあ、あなたの年代から言うと、高校受験のお子さんがいたのですか?」

蘭がそう言うと、

「はい。そうなんです。」

とつえ子さんは答える。

「そうですか。それでは私立の学校に?」

蘭がそうきくと、

「はい。そうなんです。隣の家のお子さんが、県内の公立学校には行かないで、大学の付属学校に言った方がいいとかそういう事を言うものですから、それで、わたしもつい、そうさせようと思ってしまって。でも、結果は最悪でした。試験の前日に、娘が熱を出しましてね。それで、結局試験を受けられなくて。」

そうつえ子さんは言った。

「そうなんですか。それでは、娘さんは、現在はどちらの学校に?」

蘭がそうきくと、つえ子さんはこういうのだ。

「いえ、もうこの世にはいないのよ。試験を受けられなくて、電車に飛び込んで自殺したわ。なんか、」

「こんな結果になるとは思ってもいなかった。ですか?」

蘭は彼女に言った。

「そうね。何かの間違いであってほしいことは、どうしても抜けられないんだけど、もう、娘はここにはいないわ。あたしが、殺しちゃったようなものだと思ってる。」

「そうですか。それなのになんで、こんな田舎の刺青師を訪ねてきたんですか?刺青師は、東京にもたくさんいますし、もっと有名で、実績のある刺青師さんだって、居るじゃありませんか?」

蘭が急いでそうきくと、

「ええ。東京の先生を訪ねても、あたしに入れてくれるとは限らないでしょ。それに、東京は広いようで狭い世界よ。だから、その中にいたあたしが、刺青師の先生を訪ねたなんて言ったら、どんな事になっちゃうか。もしかしたら、不倫と間違われちゃうかもしれないでしょ、彫たつ先生。」

と、つえ子さんは、そういった。

「そうですか、でも和彫りは、一番彫るのが難しいし、時間もかかるのに、なんでわざわざ、東京から新幹線を使って来られたのか、不思議でしたよ。もし、こちらに来るのが大変だったら、都内の彫り師を紹介しましょうか?」

蘭は彼女のことを思って、そういったつもりだった。和彫りというのは確かに彫るのに手間がかかる。それに、東京からわざわざ静岡に来るのだって、交通費もかなりかかってしまうだろう。それなら、できるだけ費用をかけないほうがいいと思ったのだ。

「いやねえ先生。さっきも言ったじゃないの。近いところにはできるだけいないほうがいいのよ。あたしは、他のママ仲間からも締め出されたし、それなら、こういうところに来たほうがずっといいの。これからも料金はちゃんと払うし、絶対半端彫りにはしないから、先生、あたしのことちゃんと見てよ。」

「はあ、そうですか。手彫りですからね。機械で彫ることができないので、機械で彫った場合の3倍近く時間はかかりますよ。それでもいいのですか?」

蘭が改めてそう聞くと、

「先生。あたし、絶対半端彫りはしませんから、先生、私の事ちゃんと見て。先生、見て!」

懇願するように、つえ子さんは言った。そんなに強い意思があるのなら、それを子供さんの受験ではなくて、もっと他のことに使ってくれればいいのではないかと思うのであったが、今はそれもできないんだろうなと蘭は思った。

「わかりました。わかりましたよ。それでは、彫りますから、鳳凰が完成するまで、ちゃんと来てくださいね。」

蘭は、針を刺しながら、つえ子さんに言った。それと同時に、机の上に置いた砂時計の最後の粒が落ちた。蘭はデジタル時計が嫌いなので、刺青の施術時間は、砂時計で測るようにしている。そのほうが、時間がゆっくり流れてくれるような気がするからだ。

「じゃあ、これで施術時間は終了です。今日は二時間突きましたから、2万で大丈夫ですよ。」

蘭は針を抜いて、つえ子さんに言った。つえ子さんはテーブルの上から起きて、急いで服を着て、カバンを取り、財布から2万円をだして蘭に渡した。

「今、領収書書きますから、少しお待ち下さい。」

蘭はそれを受け取って、領収書を書いた。

「ありがとうございました。これで、あたしも、娘のことを忘れずに生きていけます。」

それを受け取って、つえ子さんは言った。

「そうですか。でも、それにしがみついて生きるだけではなくて、新しい事を始めるのも、また、娘さんは喜んでくれるのではないでしょうか。あまり、なくなった方を思いすぎて生きていると、良くないと言う話も聞いたことがありました。」

蘭は、彼女にアドバイスするつもりでそういった。

「そうね。でもあたしは、もう行くところも何も無いわよ。主人とも離縁されちゃったし、今はかろうじて、掃除のアルバイトやって、やっと生きてる状態なのよ。」

と、彼女は言った。それなら蘭は余計にここまで来るのは大変なのではといいたかったが、それは隠しておいて、

「もし、行くところが無いんだったら、全然知らない土地に行って暮らすのも悪いことじゃないですよ。本当に、なくなった娘さんも、いつまでも思っていたんじゃ、すごい負担になるのではないでしょうか?」

と、だけ言った。

「先生は優しいね。なんか、昔好きだった、高校時代の同級生みたい。なんでも話を聞いてくれて、何でも教えてくれた。好きだったんだ、高校のとき。あたしのこと、ちゃんと見てくれた人だった。今覚えばあたしは、あのとき遊びすぎてたのよね。だから、娘には、そんな事させたくないって思って、受験に夢中になってしまったのかも。」

「そうですか。余計に過去にしがみついてはだめですよ。それより、新しい事を始めてください。それが、あなたが立ち直るきっかけになってくれると思います。」

そう後悔している彼女に、蘭はにこやかに笑っていった。彼女は、そうねえと言って、また何か考え込む。

「そうかあ。先生ありがとう。なんか勇気出た。先生がそう言ってくれたから、あたし、もう一回人生やり直してみる。」

そう言ってくれて蘭は、良かったとほっと胸をなでおろした。

それから数日後。製鉄所に奇妙な女中がやってきた。もともと、製鉄所では、ずっと女中さん募集中と、インターネットなどで表示しているのであるが、大体の女中さんは、水穂さんに音を上げて、長くても数週間、短くて数日で出ていってしまう場合が多い。これも定説になってしまっている。なので杉ちゃんたちは、その女中さん、つまり石野つえ子さんはきっと数日でやめていくだろうと思っていた。

ところが、彼女はきちんと働いてくれる。しっかり水穂さんの世話もしてくれるし、掃除も洗濯もちゃんとやってくれた。杉ちゃんと一緒に食事の支度も手伝うし、申し分のなく働いてくれる女中さんだった。杉ちゃんたちは、良く働いてくれる女中ほど訳ありだといった。時々製鉄所へやってくる由紀子も、それは認めていた。よく働いてくれる女中さんを雇ったけど、由紀子は、なにかちょっと、嫌というかなんというか、自分の大事なところを邪魔されているような、そんな気がしてしまうのだった。

その日も、水穂さんはまた咳き込んでしまった。それをすぐに見つけたつえ子さんは、甲斐甲斐しく水穂さんの背中を撫でてあげたりしている。由紀子が、すぐに四畳半に駆けつけると、すでにつえ子さんが、水穂さんに薬を飲ませていた。由紀子は、もしかして、彼女は、単に女中さんとして雇われているだけではなく、誰かが、彼女をスパイとしてここにつれて来たのではないか、と思ってしまった。そう思っても、つえ子さんに直接聞くわけにもいかない。由紀子は、掃除をしている彼女を眺めながら、多分、こういう事をしでかす人物は、誰なのかすぐに分かってしまった気がした。

由紀子は、その日、製鉄所を出て、蘭の家に車を走らせた。そして、急いでインターフォンを押した。一回目では返事をしなかったが、二回目に押したときに、蘭が、はいどうぞという声がした。

「あの、すみません。由紀子です。」

由紀子は出てきた蘭に言った。

「由紀子さんどうしたんですか?」

蘭が、由紀子に聞くと、

「蘭さん、あなた、石野つえ子さんという女性を、私達のところに送ってよこしませんでしたか?」

と、急いで蘭に聞いた。蘭は、

「そのとおりです。」

と言った。

「ごめんなさい。どうしても、水穂のことが気になりまして。それに、つえ子さんが、ずっとなくなった娘さんのことを思い続けているようでしたので、それをやめさせて、新しい事をさせたほうがいいと思ったんです。」

「蘭さんは卑怯ね。」

と由紀子は言った。

「なんで自分が現れないで、そうやって人ばかり使うの?歩けないことは確かかもしれないけど、蘭さんも、水穂さんのことを思っているんでしょう?だったら、自分で製鉄所に来てくれればいいのに。」

「そうですが、水穂にあって直接謝るのは、行けないような気がしまして。水穂にはこれからも、みんなに好かれる存在であって欲しいし、ずっと生きていてほしいんです。だけど、僕には何もしてやれない。だから、彼女に行ってもらったんですよ。」

蘭は、小さい声で言った。

「そういうことなら、直接会いにいったほうがいいのでは無いですか?なんで、蘭さんも、杉ちゃんも、水穂さんのことを思っていると言っておきながら、そうやって、卑怯なことばかりするんですか。あたしは、どうしてもそういうところがわからないです。なんで直接会いに行かないのか、良くわからないですよ。」

由紀子は、思わずそう言うと、

「変えることのできることとできないこととありますからね。本当は、僕も直接会いに行きたいのですが、水穂には、誰も味方になってくれる人もいないから、それに、僕が会いに行ったら、他の人が黙ってはいないでしょうし。」

と、蘭は答えた。確かにそうかも知れない。蘭の家は、大規模な会社をしている実業家だと聞いている。それでは、たしかに、水穂さんのことを、公にはできないだろうなと思う。

「それでは、結局、私達にできることは、何も無いんですね。」

由紀子は、吐き捨てるように言った。それが、現実なのかもしれなかった。杉ちゃんにも、蘭にも由紀子にも。



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卑怯な人 増田朋美 @masubuchi4996

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