第3話 たたかう

「師匠が帰ってこない?」

「はい。昨晩遅くに屋敷へ到着されたのですが、その後すぐに出かけてから戻られていません」


 起き抜けのマリスの報告に、寝巻きからドレスに着替えさせてもらっているシアが首を傾げる。


『また狩りに夢中になってるのかね』

「だとしても初日に遅刻は珍しいわ。冒険者たるもの契約は絶対守るものだ。ってのが師匠の口癖だし」


 シアの家庭教師はレヴェンシアニス侯爵家が冒険者ギルドを通して依頼した正式なものなので、初日に遅刻は契約違反となる。

 まあ初日以降はシアに課題を与えて、ちょくちょく狩りに出掛けてしまう師匠なのだが。


「まさか師匠が狩りに失敗したとか?」


「あの〈流星〉の二つ名を持つ御方がそうそう後れを取るとも思いません。ここティタニエ周辺に生息する魔獣も弱いと聞いています」


「近くに迷宮も無いみたいだしねえ」


 シアが養生先として滞在しているのは、レヴァニア王国内にあるティタニエという街だ。

 王都エルセルからは馬車で二日ほどとそれなりに近いため、騎士団の巡回が頻繁にあり治安が良い。


 そして穏やかな気候と豊かな自然が有名なこともあり別荘地として人気のある街だ。

 アキ曰くカルイザワみたいなんだそうだが、シアには何を言ってるか分からなかった。


 レヴェンシアニス侯爵家の領地は王国の北西に分布していて、その一部であるティタニエは当主エルドの弟夫妻が管理している。

 ティタニエ以外の領地の大半は穀倉地帯で、王国の食料庫を一手に担っていた。

 それらから得られる収益は膨大で、レヴェンシアニス侯爵家は国内貴族屈指の金持ちである。


「授業は午後からの予定だよね?契約、というかお金にがめつい師匠だから、絶対間に合わせてくるわ」


 シアの予想は的中して、昼頃になると屋敷の外が騒がしくなる。

 屋敷の警備兵たちが慌ただしく庭に集結していた。


『あーあ師匠、領都のノリでやっちまったな』

「そうね。せめて先に連絡しておけばいいのに……無視して持ってくるから変わらないか」


 警備兵たちと一緒になってシアが空を見上げた。

 そこには巨体が浮かんでいる。

 全長三メートルはあろうかという巨大猪だ。


 もちろん猪が空を飛ぶわけがないので、浮かしている存在がいる。

 猪はぐったりと四肢を弛緩させていて動く様子はない。

 そのままゆっくりと着陸する直前で、猪を放り投げるようにして腹の下から小柄な人物が姿を現した。


「いやー待たせたね。なかなか手頃な獲物が見つからなくてさ」


 その人物は十四、五歳くらいの少女だ。

 新緑のような深緑の長い髪を腰まで伸ばし、瞳の色は翡翠のように透き通っている。

 服装は冒険者然とした年季の入った旅装束で、手には真っ赤な拳大の宝石が先端に付いた短杖を持っていた。


 目鼻立ちも整っていて、全体的に丸みを帯びた造形は美人というよりも可憐という言葉が似合う。

 そして顔の左右からピンと伸びた長い耳が、彼女が森人エルフであることを示していた。


「師匠。私は今養生中なので手加減してください」

「うん、そう思って前回の岩鉄蜥蜴がんてつとかげと同等程度の猪突牙獣ちょとつがじゅうを用意したよ」


『お、ランクアップしなかっただけ有情だな』

「いや下げてよ……てか無しにしてよ……」


 シアがげんなりとした表情で呟く。

 放り投げられ仰向けに転がされた猪の腹は上下に動いていた。

 つまり生きているのだ。


「〈流星〉殿、これは一体どういうことだ!?」

「どうもこうもないよ。これからシアルフィーネ様との授業を始めるから部外者は下がっててね」


 厳つい顔の警備兵に怒鳴られてもどこ吹く風で、師匠はしっしと手を振って警備兵たちを下がらせる。

 そして短い詠唱と共に短杖を掲げると、半透明のドーム状の幕のようなものが展開された。


 その内部にいるのは師匠とシアと猪だけで、師匠が短杖を振ると猪の閉じられていた目がぱちりと開く。

 猪は起き上がり周囲を見回した後、一番近くにいたシアに目標を定めると怒りの咆哮を上げた。

 これに慌てたのは警備兵たちで、抜刀して猪に近付こうとするがドーム状の幕に阻まれる。


「はいはい結界の外側は安全だから邪魔しないでね。シア、いつも通り加護とは使ってもいいけどはギリギリまで無しだよ。あ、あと極力綺麗な状態で始末すること。猪突牙獣の肉は美味しいらしいから」


『へー、そうなのか。牡丹鍋にして食ってみたいなあ』

「結局普段より注文が多くて難しくなってるんだけどっ」

「いったい何の騒ぎだ!ここをレヴェンシアニス侯爵家の屋敷と知っての―――」


 騒ぎを聞きつけたアンドレイが庭にやってきたのと、猪がシア目掛けて突進したのは同時だった。

 彼我の距離は五メートルほどあったが一瞬にしてゼロになる。

 下顎から伸びた鋭い牙を突き出すようにして、シアへと巨大質量が迫った。


「ぎゃっ」


 短く悲鳴を上げたのはアンドレイだ。

 丁度シアの背後付近から庭へやってきたので、猪の突進の軌道と重なっていたのだ。

 猪の突進を止めたのは師匠の張ったドーム状の結界である。


 格子状の構造故に隙間から通過した大量の土埃と風圧がアンドレイを襲ったが、猪本体は結界に激突して止まっていた。

 巨大猪を目の前にして、土まみれのアンドレイが恐怖の表情を浮かべたまま腰を抜かして尻もちをついている。


 彼の目にはシアが猪と結界の間に押し潰されたように見えたが、錯覚だったようだ。

 視線を上げると、そこには突進を飛んで躱したシアの姿があった。


 ちなみにシアの服装は授業用に用意した、師匠に似せた冒険者風の訓練服である。

 シアは空中で体を捻って猪の背後へ華麗に着地すると、短く息を吐いてから腰に差していた短刀を抜いて逆手に構えた。


「アキ、いつも通りバレない程度に力を貸して」

『りょーかい』

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