第8話 藤森あやめは出向する⑦
実岡陽一郎は畑で一人、ぼんやりと佇んでいた。
藤森あやめから聞かされたことはおよそ受け入れがたい事実であったが、しかし受け入れなければどうしようもない事だった。アジーレのウェブサイトには短く自己破産した胸が記載されており、それ以上の情報は出てこない。
産地偽装と、脱税と、倒産。
その三つが確固とした出来事であり、それ以上でもそれ以下でもない。
「はは……」
最初からおかしな話だったんだ。
実績がほとんどない実岡の農園へ、うちの野菜を食べたこともない社長がやって来て専属契約を結びたいと言い出した所から、全て。
少し考えれば気づけたかもしれない。けれど切羽詰まっていた実岡は、社長の言葉を鵜呑みにして契約を結んでしまった。
その結果がこれである。
たわわに実った野菜たちは行き場を失い、これから販路を開拓しようにも売りさばける自信はない。
藤森さんの声は今までに聞いたことがないほどに固く、彼女がどれほどショック受けているのかがわかった。
自分だって深刻だが藤森さんはもっと深刻だろう。何せ知らないうちに無職になっていたのだから。
それに比べたら、実岡の受けたダメージなどまだ浅いと言えるかもしれない。土地が取り上げられたわけでもなく、家だってある。作物の販路さえ見つかれば収入を得られるし、そもそもこの野菜たちを食べれば飢える心配は当面無い。
実岡は空を仰ぎ見て藤森のことを思い出す。
脱サラしてから丸六年。思えばこの半年が一番楽しかった。お洒落な都会OLだった藤森さんはすっかり作業着の似合う農業系女子に転身しており、そんな彼女と他愛もない話をしながら作業に明け暮れる日々はやりがいに満ちていた。
お昼のお弁当は美味しいし、言うことなしのパートナーだった。
やっと野菜たちも実り、さあこれからという時にーーーこの有様だ。
「もう、戻ってこないかもなぁ」
無職になってしまったんだから職探しのために東京に戻るだろう。挨拶くらいはしに来てくれるだろうが、それでおしまい。この楽しい日々に終止符が打たれる。
おかしいことだが、一人で誰とも関わらずに農業に明け暮れたくてここに来たはずなのに、今となっては一人に戻るのが嫌だった。
黙々と作物を育てるより、藤森さんと一緒に毎日の作業をした方が断然楽しい。
下の方を見ると一つ、トマトが赤く熟れていることに気がついた。
そっと掴んで、ヘタの上をハサミで切る。
真っ赤に色づいたトマトは見るからに美味しそうだ。
ため息をつき、手のひらでトマトを転がした。
これを出荷する先がないと思うと、やはり気が沈む。好きなことをしたいと思って脱サラして農業を始めたのに、結局どこに行っても悩みは尽きない。
いくら味に自信があったって、食べてくれる人がいないと意味がないのだ。
「美味しそうですね」
「え」
ふと、後ろから声をかけられた。
振り向くとそこには、今朝飛び出していった藤森さんが立っていた。農作業着のまま、少し疲れたような笑顔を浮かべて。
+++
採れたてのトマトを実岡がナイフで二つに割る。そのうちの一つをあやめにくれた。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
実岡の自宅の縁側で並んで座って、二人でかじる。
柔らかい皮、ジュワッと溢れ出るトマトの果汁。
「ん、甘い!」
あやめは驚いた。
「スーパーで売ってるやつは大体が青いまま収穫して倉庫で追熟させるんだ。畑で熟したトマトって、全然味が違うだろ?」
「はい……!」
本当に味が違う。全体的に柔らかく、そしてじっくりと栄養を吸って育ったその味は驚くほどに、甘い。嫌なえぐみも酸っぱさもなく、優しい味わいだった。
目の前に見える畑では、こんなトマトがこれから先どんどんと実っていくのだ。なのに、それを届ける先がない。
「実岡さん、これからどうするつもりなんですか?」
「とにかく販路を開拓するよ」
「ですよねぇ」
それしかないだろう。作った以上は収穫しなければならず、収穫したからには売らなければならない。そういう商売だ。
「藤森さんは東京に戻るのかい?」
「……」
実岡は片手で持ったトマトをかじりながら聞いてくる。
「散々だよな、こんな農家に出向させられた挙句に会社が倒産してるなんて」
「……」
「でも藤森さんはよく仕事ができるから、すぐに再就職先が決まるって」
「……」
「決まったら、教えるくらいはしてくれると嬉しいな。ほら、半年間一緒に働いた仲としてさ」
あやめはいつになく饒舌に喋る実岡の話を聞きつつ、何も答えなかった。残ったトマトを口に入れ、そのジューシーな果肉を味わう。初めて携わった農業で初めて収穫した自分たちのトマト。その味は想像以上に美味しくて、幸せな味がした。
あやめは帰る道すがら考えていたことを口にする。
「実岡さん」
「うん?」
「一緒に、お野菜売る手伝いをしてもいいですか?」
「へ?」
「私、ここで実岡さんの手伝いがしたいです」
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