壊し愛（統合版）

4．🛏🛀💊

もう私の中に、彼への想いを阻むものなんて、なくなった。

しばらくベッドの上で二人で寝転び、お互いを抱き寄せ合っていた。

今、何時だろうか。

あのビルを出て来た頃には既に日は沈み切っていたから、もうすっかり夜になっていることだろう。

「あかね」

「なに？」

「お風呂、入ろっか」

「……」

なんだろうか、この違和感は。

入ろっか……？

入っておいででも、入ってくるでもなく。

はいろっか……？？

「なんて？」

「だから、お風呂入ろうよ」

入ろうよ？？？

「なんで誘ってきてる風なの？一緒になんて入らないからね？」

笑顔のまま凍りついた顔に、なぜ急にそんなことを考えたのか、しかも微塵も断られると思わなかったかのようなその反応に、眉間のシワが寄っていく。

「なんで？」

「いや、なんでもなにもないでしょ。女の子の事情ってもんもあるし、そもそもまだ早い」

「……じ、じょう」

「なんでそう、たまに阿呆になるの」

本気で断られないと思っていたんだろうか、そもそもまだ私は全裸を見せられる段階じゃない。

順番てものがそもそもおかしいんだ、なんで付き合ってもいない頃からキスしまくってんだこの男。

「優藍って距離感おかしいよね」

ふと口をついて出た言葉。

けれど言葉に出してからハッとする。

私は別に責める意味でそう言った訳じゃない、本当に近いのか遠いのかわからなくなるから、口から出ただけで。

「ごめん、変な意味じゃ……」

「距離感のことはよく言われるけど、まだ嫌なら嫌でいいよ、俺がもっと近付きたかっただけ」

すんなりと、それはもうなんとも思っていないかのように、「それがどうしたの？」とでも言うように、そう返す優藍。

「あかね、悪いことしたわけじゃないのに謝らないで」

「……え、だって……気にしてないの？」

「よく言われるし、自分でも距離感掴めてないことは理解してる。でもそこでおしまいだよ」

……やはり、優藍は普通とはどこかズレがある。

「よく言われることって、気にするもんじゃないの……」

「気にしたところで直るものじゃないなら、相手にその距離感を委ねれば解決することでしょう？」

優藍の中では、考えるに値しないことらしい。

強いのか？

それとも感情が鈍いのか？

優藍の謎はまた深まる。

嫌な気持ちに、ならないの？

「まぁあかねと離れるのは寂しくはあるけど」

「いや、そこ？」

やはり、優藍は掴めない。

私の知らない感覚の中で生きているようだ。

「そんなことよりも、あかねが謝ったことの方が俺は気になるよ」

そう言って顔を合わせる彼と、視線が絡む。

「もしかして、思い込みで謝る癖まで持ってる？」

思い込みで、謝る癖。

思い込み……そうか、今のは私が経験的に謝るべきだと感じたポイントだっただけ。

悪く言われたとは、優藍は受け取っていない。

そうなると本来は必要のない言葉だったということ……なのか？

この判断をするには、罪悪感が強いけれど。

「あかねは優しすぎるからね」

「そういうんじゃないけど……でも確かに、よく下に見られてた気は、する」

優藍には強気でいないとって思ってたから、謝らないようにしていただけで。

かつて彼氏だったアイツには、一体どれだけ謝っていたことだろうか。

痛いことに謝るのは勿論のこと、優しい言葉をかけられても謝っていたし、仕事帰りに送ってくれることすらも謝っていた。

申し訳なかったから、罪悪感から。

それは、何一つ私が本当の意味で『悪いこと』をした訳ではなかったのに。

なんだか謝る雰囲気だと、なんとなく受け取っていたような気がする。

「あまり人を選ばずに簡単に謝っていると、それを自分より下の人間だと思い込む愚か者の餌食になるよ」

「愚か者って……」

「謝るのは必要な時に、大事な関係の人に適切に、効果的に。必要以上はトラブルの元にもなる」

なかなか難しいことを言う。

でもきっと、それが出来ないからホイホイと口をついて謝罪の言葉が出て来てしまうんだろう。

「難しい」

「相手がみんな、歪んだ受け取り方をする人ばかりじゃなければ、こうはならないのにね」

「……そっか」

自分だけじゃない、相手もまた歪んだ思考を持っている。

責めてない言葉で責めたように感じ、責められていない事でも責められたように感じる。

それは社会や大人が歪めたものだろうか。

歪まないことの方が難しい。

「罪悪感ていうのは、そこになんの罪がなくても作り出せるんだよ」

ごろりと仰向けになった優藍が、私の頭を自分の肩に誘導する。

これは……腕枕、か。

「作り出せる？」

「例えば……俺が自分を傷付けたとする。苦しいから自分の腕を切ったとして」

聴いてるだけで痛いんだけど。

「それを、今日あかねがこの家を出ていったせいだと言ったら、あかねはどう思う？」

「え……」

ヒヤッと、実際に起きていないことなのに、背中がひんやりとして怖くなった。

「それだよ、罪悪感」

「……は」

「あかねが家を出て行ったことと、俺が体を傷付けたこと。これは別物なの」

一瞬ヒヤッとする出来事のように感じたけれど、確かにそうだ、私が直接傷を付けた訳では無い。

けれどこういったパターンはよくあるように感じる。

誰もが簡単に人のせいにする。

それが本当に悪か、悪じゃないか、考える暇もなく罪悪感が湧く。

「基本的に、その原因で100％相手が悪いっていうのは、無差別に選ばれていない限りほぼ有り得ない。どちらも原因があって、その割合が多いか少ないかって考えると、一方的に相手を責められる立場の人ってほとんどいないはずなんだよ」

割合、で、考える。

それってどちらにも原因があって……でもどちらが『悪い』のかと『原因』はまた別の話なんだろうか。

原因は、割合。

だからどちらにも、原因は多かれ少なかれあるという話になる。

「さっきの話で言うと、自分を傷付けるに至った原因は俺にもあかねにもある。作り話だけど。俺があかねを好きすぎたこと、その相手のあかねが家を出て行ったことは原因であってそれ以上にはならない」

「うん」

「けど、それで俺が自分を傷付けることについては、結果的に悪いのは俺自身。あかねは全く手を出していない」

結果は、原因とはまた別物。

「その、原因と結果を一括りにまとめて、お前が悪いって一方的に言ってくる人がいる。そしたら相手に罪悪感を植え付けられるっていう、そういう手法」

「手法……」

「頭の悪い人ほど、口で上手く言いくるめられないから、こういう卑怯な手で責任転嫁してくるものだよ」

ふわりとしたいい笑顔でそう言った優藍は私に近付き、頬に口付ける。

そう、このキスのタイミングもよくわからん、掴めない。

それに、優藍は悪口言う時によくいい笑顔をするような気がする。

けれどどちらも、嫌だとは感じない。

「頭の悪い人が勢いで押してくるだけってこと？」

「そ。相手の立場を落としたいだけ。繰り返してれば信用を失うことすらも気付けない可哀想な人たち」

「それは残念だね」

そうか、そういう人たちの餌食に、今までの自分がなっていたのか。

頭の悪い人っていうのはたぶん……あの前に聞いたことのある、IQが落ちやすいって話とも関係しているのだろうか。

そうなるともう、頭の善し悪しって人によっての判断が難しく感じる。

その人の周りの環境でも、変わってしまうから。

「まぁ、俺の考え方がこうなだけで、こういう加害者だ被害者だっていう話に絶対の正解はない。この話で納得する人もいれば、反論を持つ人もいるだろう。でもそれはそれでいい」

「いいの？」

「自分の頭で考えた意見なら、それを持つことを否定する権利は誰にもないよ。そこに正解はないんだから」

優藍の考え方は、どちらかといえば論理的で、容赦のない考え方なのだろう。

感情でモノを考える人ではない。

だからこそ、人の感情に引きずられた判断は下さないし、どんな悪人の思想でもきっと、彼は否定しない。

人の持つ意見を否定する権利は誰にもない。

そう考えているから、私の愚行も受け入れてくれた。

だからこそ彼は、どこか冷たいのに、完全に冷めきっているようには感じられないのだ。

「優藍は、他の人にも距離感が近いとか、言われるの？」

私には近いけど……他の人はどちらかと言うと前に話したように、避けてるように見えるから。

なんだかよく言われるって言うのが若干の違和感。

他の女の人にもそんな距離感でいないよね……？

「あぁ俺、普通に話してたと思ったら急に冷めて、そのまま音信不通になったりするから」

「……は？」

「その時家まで派遣されてくるのが佐渡……っていうか組織内じゃ佐渡と専属運転手しかこの家を知らないから、必然的に佐渡」

「……アンタの脳内どうなってんの？」

音信不通が問題行動だという自覚は……一応あるっぽい、のだろうか？

でも気にしてはいないようで。

「仕事はするし、普通に誰とでも話す。でも好意を寄せられる雰囲気を出されると、冷める」

「……私は？」

「あかねは大歓迎だよ。足りない、もっと」

「なぜなのか」

こんな優藍を見ていて、私でも思う。

確かにこれなら、自分を知るために心の勉強をするのも頷ける。

というかよくその状況で佐渡さん、友達していられるな、強いな。

彼も彼で普通ではなさそうだから、気が合うのかな……。

彼らの友情はよくわからない。

「優藍……よく生きてこれたね」

「たまに人を泣かせるくらいで、あんまり不便ないよ」

「泣かせてんじゃん」

この人、他人のこと泣かせてもなんとも思わないのだろうか、逆にすごいな。

本当に、人の感情に引きずられない人なんだな。

でも、そうか。

そんな人が私の事となると、慌てたり、焦ったり、怒ったり、感情を剥き出しにして振り回されてくれる。

この先もずっとそうでいてくれるとは、限らないかもしれない。

私も急に冷められることが……いつかあるかもしれない。

それでも、私は優藍を信じて寄り添っていたいし、彼はこの先のこともずっと考えてくれているのだから、私が不安になっていても仕方がない。

全力で、この幸せを二人で楽しむまでだ。

「優藍」

「ん？」

「……私はきっと、いつまでもアンタのことが好き」

それは、ふと伝えたくなった言葉。

今なら言えると、今言いたいと思った言葉。

会えなくなってから後悔するのなんて、嫌だから。

ゆったりと、向けられる視線。

彼の肩口に頭を置いている私も、視線だけ彼に合わせる。

「……好き？」

「え？……あ」

あれ、私……優藍に好きって言ったこと、あったっけ？

いや、でも確か、浮かれた拍子に『愛してる』、とは、言った気が……。

思わず口先を抑えていた指に絡みつくように、彼の手が重ねられる。

醸し出される雰囲気に、ドクドク、ドクドク、心臓が主張し始める。

「あかねからの『好き』も、『愛してる』も、どっちも貰えた」

ふっと笑って幸せそうに、私の手を誘導して手の甲に口付ける。

それはたしか……『敬愛』。

「……こ、小っ恥ずかしいこと、言わないで」

「俺しか聞いてないんだから、いいでしょ」

「よ、よくなっ…………くなくなく、も、ない」

「ふはっ、どっち」

素直と恥ずかしさの中で揺れ動く感情がもう、自分でも訳のわからない言葉を生み出す。

けれど優藍が笑ってくれたなら……まぁ、いいか。

むぅ、と下を向いてむくれていると、人差し指が生暖かい感触に包まれて、一瞬思考が停止する。

すると、ぬるりという感触と共に、今度は中指も一緒にその生暖かい中へと……。

ばっと優藍を見上げれば、私の指を咥えている優藍の視線とぶつかる。

待て、何してるんだオマエ。

「アンタなにして……ひゃっ」

指の間を舌がなぞると、思いの外その刺激が強く感じる。

そんな所、今までゾワゾワしたことなんて、ないのに。

ちゅぷり、と吸い付きながら音を立てて離された指は、空気の冷たさを一気に伝えてくる。

「指の内側もね、結構皮膚薄いんだよ」

「ば、ば、ば、」

馬鹿じゃないの！？と言いたい心と、この程度でそんな暴言吐いていたらこの先進まないなんていう気持ちがごちゃごちゃと混ざりあって、言葉にならない。

そんなパニックに陥っている間にも、人差し指、中指、薬指へと順に爪の先にキスをしていく優藍。

まって、何がしたいの？辱めたいの？？

「ダメだ、歯止めが効かなくなりそう」

「それはちょっと、まだ困るんだけど」

私の顔をじ……っと見た彼は、大きくため息をつく。

ごめん、でもまだ私、準備出来てないから。

ベッドから体を起こした彼は、首の裏に手を置いてこちらを見下ろす。

薄く開かれた瞳が不満を表しているけれど、準備の時間くらい優藍ならくれるだろう。

瞳を逸らして、そう心の中で呟く。

「佐渡の部屋であれだけ眠れたなら、体力はまだ大丈夫そうか……」

「……なんの心配をしてるのかよくわからないけど、体は大丈夫」

「そう。じゃあお湯張ってる間に荷物を片付けていて」

耳元に唇を近付けてくる彼は、甘い囁きを残していく。

「お楽しみは、その後でね」

私の……私たちの夜は、まだ明けそうにない。

アパートから持ってきた荷物を広げ、クローゼットの中に服を入れていく。

クローゼットに入っていたお姉さんから借りていた服は、とても可愛らしくて綺麗なワンピースなどが多かった。

部屋着なのに、何故そんなに可愛らしいのか。

私が着ていいものなんだろうかと複雑な心持ちの中、服を身に纏（まと）っていた。

部屋から出ないなら、優藍にしか、そんな姿も見られないし。

私がアパートに住んでいた頃は、あまり目立つようなものは着ていなかった。

Tシャツジーパン、妊娠に気付いた頃からは少しずつ緩やかな服に慣れていこうとして、ワンピースを数着。

それでもシンプルで控えめなデザインだった。

優藍は、こんな服を着る私でも、好きでいてくれるだろうか。

少し、不安にもなる。

肌ケア用のグッズや化粧品も机の上に置き、ひとまずカバンの中身の整理は終わらせた。

けれど、こんなほんの少しの片付けでも疲れてしまった私は、床に座り込んで一息つく。

体力が……本当にない。

筋力の問題かと思いきやそうとも限らなくて、頭や体を使った後から、倦怠感が増してくるのだ。

なにこれ、燃え尽き症候群？無気力症候群？

抑うつというやつなんだろうか、よく知らないけれど。

急激に、ベッドに入る力すら消え失せた私は、その場で体を横に倒す。

寒い、のに、疲れが強くて。

コンコン、とノック音が響けば、思考の働かなくなってきた頭で『優藍、だ』とだけ、意識が向く。

彼の名前を呼びたいのに、口が開かない……いや、開くことすら億劫で。

声を出す為に必要な分の呼気が、足らない。

声が、出ない。

「……あかね？入るよ」

ドアを開いて「お風呂沸いたから先に──」とまで話した優藍の声が、止まる。

視線だけを優藍に向けようとするけれど、足元しか姿を映せなかった。

「あぁ……やっぱり疲れさせ過ぎちゃったかな」

近付いてきた優藍が背中と膝裏に腕を入れ、持ち上げる。

寒さに少し震えていたけれど、ベッドに横にしてもらった事で寒さは和らいだ。

床に寝転んでいたせいで芯まで冷えきってはいるけれど。

「今日特に寒い中で、たくさん感情に振り回されたもんね。よく夜までもったね」

額を緩やかに撫でてくれる指先に、私はゆっくり目を閉じる。

優しい、優藍の手。

「寒い？」

こくり、私は頷く。

倒れる前に、座り込む前に、ベッドまで移動しておけばよかった。

「じゃあ、お風呂入ろっか」

そう、明るく爽やかで楽しそうな声が聞こえると、私パチリと目を開いて彼に視線を向ける。

……………………は？

「とりあえず温まらないとだね」

なんて言うその男に視線だけで抗議する。

私が動けないのに、それを提案するということは……この男、諦めてなんていなかったということだ。

何考えてんだこの変態が、私が動けないの見てわかるだろうが、この──。

そこまで抗議していた視線も、迫り来る優藍の顔にギュッと目を瞑ってしまい、続けられなくなる。

柔らかなキスにとくん、と、こんな中でも心臓が反応してしまうなんて。

彼のキスは、好きだ。

たっぷりと溢れだしてしまうくらいの蜂蜜のような甘い甘い愛が込められていて、溺れてしまいそう。

ずっとこの微睡みの中で浸っていたくなるような、とろりとろりとした、優しさ。

「あかねが嫌なら、暗くするし」

キスの合間、優しい声をかけながら、髪に指先を絡めてくる。

「隅々まで洗われるのが嫌なら、明日改めて入ってもいいし。とにかく体を温めて頭を休めよう」

頬に、額に、鼻先に、瞼に、落ちてくるキス。

また彼に流されそうになっているのを感じる。

「それとも」

髪から降りてきて腹部の上に乗せられたその重みが、緩やかに左右に撫でてくる。

それはまた、いっぱいいっぱいになっている私へと向けられた『選択肢』。

「こうやってあったまる方がいい？」

触れられた場所に、ピクリと反応する体。

「……や」

かすれ切った声が、なんとか反抗を口にする。

けれどこんなもんじゃ、彼には届かなくて。

「じゃあ、お風呂なら人差し指、このまま続きしていいなら中指を動かして」

絡められた指先、二つしかない選択肢の中、迷わず人差し指に力を入れる。

バスタオルを巻くとか、なんか対処があるならそれで、とりあえずいいだろう。

家の中だし、それくらい許してくれ。

暗くしてくれるというなら、まぁ仕方ない……。

結局私は優藍の思惑通り、お風呂場へと導かれて行った。

暗がりの中、スルスルと服を脱がされてバスタオルに体を包まれたまま、私は優藍に抱えられてお風呂に浸かる。

まさか本気で彼まで服を脱いで一緒に入ることになるとは思わず、目を開けられないまま好きなようにされている。

背中に当たる胸筋、顎を乗せられている頭、絡みつく伸びた足……サイズが足りなくて窮屈そうだ。

窮屈そうなのに、なぜ一緒に入ったのか……私には理解出来ない。

鼻から蒸気を吸い込めば、なんだか寒くて凍えていた体の緊張が緩まってきたような……彼のせいで別の緊張にシフトしたような……。

「どう？すぐ芯まで温まったでしょう？」

倒れて（？）から時間が経ったからなのか、お湯に浸かってリラックスしてきたからなのか、口を開けて声を出すと、か細くもちゃんとした声が出て来た。

「へん、たい」

「愛情表現だよ」

「……つか、れ、た」

そう呟いて、彼の背中にめいいっぱい、体重をかける。

またひとつ、深く呼吸する。

なんだか頭が休まってきたのか、さっきよりは楽になってきた。

このままいけば自分で洗えるかもしれない。

「そういえば」

ふと横から顔を出してきた優藍が、小首を傾げて問う。

「今日ちゃんと薬、飲んだの？」

それに私は、目を見開いて、動揺で体がガタッと湯の中で弾んだ。

……そういえば、今日は朝から急いでいたから、薬を手に持って動いてはいたけれど、飲んでいなかった。

もちろん、ご飯だって食べていない。

ココアと、佐渡さんの部屋で少しミネラルウォーターを頂いただけだ。

「……飲んで、ない」

「よく一日中動けてたね。じゃあ離脱症状もあるか」

「なる、ほど」

薬を飲んでない中であんなに動き回って感情に振り回されまくっていたんじゃ、そりゃキャパオーバーにもなるのかもしれない。

薬を飲んでからこの家を出たことがなかったから、どれだけの変化があるか、今どれだけ動けるのかを知らなかった。

疲れのせいかと思っていた脳のムズムズ、お前は離脱症状だったのか。

なんだか一気に解決策が見えてきたような気がする。

まず上がったら食べ物入れてから薬を飲まないといけない。

食べられるかは、わからないけれど。

「今日は何食べたい？梨とみかんと、キウイもあったかな」

「……梨」

「じゃあ一緒に食べようね」

私が果物を食べられるようになって来てから、優藍も同じものを食べるようになった。

私が食べ切れない量の物でも、優藍が一緒に食べてくれるから、遠慮せずに美味しく食べられる。

残してしまったら、なんだか悪い気がして……。

だから優藍も一緒に食べてくれるのは、とても有難い。

するりと指先に絡んでくる、骨ばった大きな指先。

よく暗い中で私の手が見えたな、と思う。

その指がするすると腕を伝って上ってくると、ピクリと肩が緊張する。

まって、ここでその触れ方は……。

「二の腕ってさ」

「っや、」

「胸の柔らかさと近いって、どこかで聞いた気がするんだけど」

ふにふにと揉まれ、もう片方の腕で止めようとするけれど、脇の方からつーっと腕の内側をなぞられる。

くすぐったい、ばか、こんなところで何考えてんの。

「今の、気付いた？やっぱり響くね」

「ば……ばかっ」

「うん、声出てきたね。よかった」

どこがよかったというのか。

首筋に当てられた唇が、きゅっとそこを吸い上げる。

脇、腰を伝ってくる指先が、脚を撫でる。

はっはっ、と、上がってくる息、ゾクゾクと背筋を伝ってくる期待感。

まって、なに、期待してるの、まだダメだから、まだ流されちゃダメだから。

「そういえば、朝付けた跡、付いてるかまだ見ていなかったね」

私もすっかり忘れていたけれど、そういえばあの時、付けられていたんだった。

独占欲の証。

付いていたとしても丸一日じゃ消えないだろうから、まだ残っている可能性は高い。

「あとで確認してみようかな」

「や、め……ちょ、どこ触って……！」

するすると指が這いながら鎖骨に爪を立てる。

痛くはない、けれど、つーっとそのラインが胸元に落ちてくれば、そこにあるのはバスタオルに覆われた胸。

「どうしようか」

「や……」

「本当に、嫌？」

──嫌、なんかじゃないに、決まっている。

だからこそ困っているんだ、まだなんの手入れも出来ていないんだから。

本当は見せられる体なんかじゃない、もっとすべすべにして臨みたかった、色気なんて……ないし。

胸、だって……やせ細った体じゃ、満足させられるような体なんてしてない。

ほとんど食べていないのだから付ける脂肪がない。

そんなの優藍だって、わかってるくせに。

私が逃げ出す前に彼を欲しがったのは、最後のわがままみたいなものだった。

思い出にして、閉じ込めておく気でいた。

だから迷ってなんている暇なんてなかった。

けれど状況が変わってしまえば、話も変わる。

私の体で優藍が満足できるようには思えない。

欲しいとは言ってくれるけれど……ガッカリさせてしまうんじゃないかって……。

「……わた、し」

「うん？」

「………………小さい、の」

そりゃあ毎日のように顔を合わせているんだから、小さいことなんて今更なのかもしれない。

でも、でもそれで私は残念がられたくない。

「……まぁ、あかねは俺よりは確かに小さいけど」

「ちがっ……！！……む、胸……が」

脂肪という脂肪が消え失せている胸元。

しかも、私には妊娠で止まった生理が未だ戻っていない、つまり生理前の胸の張りすらも叶うことがないのだ。

男の家にいる間に生理が来なかったのは幸いだと思っていたのに、こんな時に恨めしく感じるなんて、誰が予想出来ていたことだろうか。

「あぁ、胸？かわいいよ」

そうじゃ、ない！！

可愛いとかそういう問題じゃなくて！！

なんと言っていいのか困った私は顔をがっくりと水面のある下へと向ける。

「気にしてるの？」

「しないわけ、ない、じゃん」

はぁ、とため息が出てしまう。

でもこの様子じゃ、優藍は気にしていないのか……気にさせないように隠しているのか……。

だって男の人って胸のサイズとか気にするものなんじゃないかと思って……。

そう思っていた。

「あぁ、サイズにこだわる人は大体生活に飢えてる人だと思っていいよ。低所得な人ほど巨乳を好むから。俺は飢えてないし拘らないけどね」

「……どゆこと？」

また知らない私の世界が、優藍から飛び出てきた。

「満たされていないと、本能に忠実で単純になるってことかな。ある程度稼げていて余裕があると聡明な人を選ぶようになるから、バストのサイズに拘らなくなるんだよね」

「……なにそれ」

「余裕がない人は他人の中身を見ないで、見た目で判断してるってこと」

説明の隙にするりと脚の内側に入り込んだ指が、ももの内側を撫でる。

それにキュッと脚に力を入れて閉じようとするけれど、もう遅い。

ゆるゆると脚の付け根をなぞる指に、腰が浮く。

「俺は、あかねがあかねだから好きだし、こういうことしたいんだよ」

「わ……！待っ、だ、ダメ、ちょっ」

「俺は、あかねだけを見てるんだから」

胸元で留めていたバスタオルが、外される。

ゆるりと隙間から入り込んできた指が肌を撫で、やわやわと小さな膨らみを楽しむように、そのラインをなぞる。

優藍が私のことを、私だけのことを見てくれてるのはわかった！

わかったから！！

「ちゃんと、わかってもらわないと、ね」

ほんと、だめ。

ちゅ、と音を立てて頬に口付けられると、そのまま耳に移り、ぱくりと食まれる。

暖かく水蒸気の満ちたこの空間は、嫌という程音が響く。

上がる熱なんてこれ以上ないだろうに、湯の中で高ぶる熱、のぼせてしまいそう。

「わか、た、から……」

「わかってくれた？」

こくこく、必死になって頷く。

息が上がり、さっきまでとはまた違う脱力感に襲われる。

それなのに、わかったと言ったのに、優藍の唇は肩を撫で、首筋を伝い、また耳の近くでリップ音を響かせる。

「ひゃっ」

「はぁ……可愛い。やっぱり響いた声の方が堪能出来ていいね」

「ま、さか……その為に……！？」

コイツまさか最初からそういう目的で私のこと誘ってたの……！？

「いや、体も動かない中でいじるのもちょっと可哀想かな、とは思ってたんだよ？最初は」

最初は？

「でもほら」

脚の付け根を撫でていた手がその内側にたどり着くと、触れるか触れないか程度の力でそこを撫でる。

ぬるり、やけに滑るそこに、腰がビクついた。

「これは、期待じゃない？」

自分の隠しきれない欲望が暴かれたようで、両手で勢いよく顔を隠した。

胸元にある優藍の腕も、腕の内側に巻き込んで、ばしゃっと顔に水がかかる。

恥ずか、死ぬ！！

「本当に嫌なら、上がろう？」

ドクドク、ドクドク、心臓が暴れ出す。

巻き込んでしまっている腕を伝って、ドキドキしているのがバレてしまうかもしれない。

バレてしまう、かもしれないのに。

本当はやめて欲しくないという、欲望に、逆らえない。

呼吸が浅くなり、理性と欲望の間で揺れる。

ドクドクと波打つ鼓動に合わせて、髪すらも揺れている。

「あかね、すごいね」

「……」

「ここ、すごくドキドキしてる」

ダメだ、伝わってしまう。

暗がりの中、視覚が役に立たない分、他の感覚が敏感になっていて、いつもなら気にならないくらいのことにも気付かれてしまう。

優藍の手が顔を覆っている私の手を離させ、頬に手を置く。

導かれるように吸い付かれて重ねられた口付けは、私の心を宥めるように、何度も何度も触れてくる。

そうしているうちにどんどんと脳が溶けてしまうかように、どろどろとした彼の愛に包まれ、飲み込まれ、思考が奪われていく。

「ちょっとだけ味見、させて？」

味見なんて程度、とっくに越えているかのようにも思えるのに。

もう溶けかけていた頭じゃ、待つだなんて、私の方が耐えられなくなっていた。

「少し、だけ、なら」

少しなんて曖昧な返し、どうなんだ。

なんて思うけれど、理性が欲望に負けた私のギリギリな返事がコレだ。

「よかった。じゃあ、意識飛ばさないでね」

「…………え？」

そう言うと優藍の指先がするりと胸を包み込み、もう片方の手が下腹部を撫でる。

ゆるゆると撫でていたかと思うと流れるように局部へとたどり着いた指先が、遊ぶようにそこを撫でていく。

大きくビクついた体を抱え込んで逃がさないかのように、胸元を刺激し、同時に下も全体を緩やかに回すようにして撫で込まれる。

耳元には舌先が入り込み、脳全体を犯すように舐められ、食まれ、音で攻め立てられる。

反響する水音と吐息混じりの自分の声が、余裕のない私の耳の奥まで響き渡り、羞恥でまた体が熱くなる。

「もっと時間をかけたかったけど、それだと逆上せちゃうもんね」

腹部から背中にかけてゾワゾワとした感覚が、それを予感させる。

きそう、だめ、きちゃう、くる、慣れない怖さと欲の中で、私の指先が彼の指先に絡み付いて爪を立てる。

より一層声が上がり、合わせるようにして指の動きと速度が変わっていく。

「いいよ、全身で俺を感じて、俺を受け止めて」

「ひゃっ、だ、だめ、だめだめ、っ……」

ビクッと大きく背が反って、体が緊張する。

快感が腰から頭まで全体を支配するような、彼から受けた二度目の感覚。

直後にはもう、ふわりと浮くような、まどろみの中にいるような心地良さに包まれていて。

「あぁ、だから飛ばさないでって言ったのに……」

急激に襲われる眠気に抗うことが出来ず、そのまま私の意識は沈んでいった。

頭が揺らされ目が覚めると、真上から優藍の声が降ってきた。

「あ、目が覚めた？」

なおも揺らされる頭、マッサージするように頭皮を撫でる指。

鼻から香る、ソープの香り。

先程までと変わらず響く声。

磨りガラスの奥にある洗面台からの光が漏れて、微かに彼の顔を照らしている。

水も滴る……なんて彼の顔を眺めながら考えたところで、だんだんと状況を思い出してきた。

私また、意識を飛ばしたのか。

揺らされる頭、肩を支える彼の脚、きちんと巻き付いたままのバスタオル。

「……なにしてんの」

「あかねの艶やかで長い亜麻色の髪の毛を、愛でながら洗ってる」

「……頭だけ？」

「さっき洗い始めたところだから。大丈夫、体は見てないよ。ていうか声出るようになったね」

本当だ、声、掠れてはいるけど出しやすくなっている。

さっきは喉元やお腹の筋肉の力が抜けていて、全然出なかったのに。

「かゆいところはないですか？」

「……ない」

「残念」

残念なのか……？

優藍の思考回路は本当、予測がつかない。

あの頭の中はいつも一体何を考えているんだ。

たっぷりと泡立った髪がシャワーで流されると、トリートメントまで付けてくれてしまう優藍。

なんだか愛されているのが髪の方のようで……いや、おかしいでしょ自分の髪に嫉妬するのは、さすがに。

いや、私だし、愛されてるのは本体の私の方だから。

トリートメントも流されてトゥルンとした毛先に口付ける優藍を、眉をひそめて眺める。

そんなに髪が好きか。

「どうしたの？不満そうな顔しちゃって」

「べつに」

その毛先で自分の頬をさわさわと撫でる優藍にまた、ムッとする。

「いつまで触ってんの」

「あれ、嫌だった？」

「髪、じゃ……」

口を滑らせそうになる所を指で抑える。

このモヤモヤを……どうやって伝えればいいのか、変な嫉妬にバレずに口に出せるか、少し考える。

「……優藍が、遠い」

けれど、嫉妬なんてしなくても、私の欲しいものはシンプルなものだった。

私は、単純に欲しかっただけなのだ。

もっと近くで、もっと直接、彼をこの身に。

「遠い？」

「遠い。もっと近く、来て」

「可愛いおねだりだね」

ゆっくりと近付く彼に、瞼を下ろす。

心地の良い温かさが唇から広がっていく。

この時間が、この瞬間が、私はたまらなく好きなのかもしれない。

彼が離れてから、私は口を開く。

「あと、もう洗えるから。出てって」

「え」

「部屋で待ってて」

私はこれ以上をまだ彼に見せる気は無い。

整えた姿で見せたいから、なんて乙女心は口に出さないけれど。

眉を下げた彼に私から口付ける。

これでもう暫く待っていて欲しい。