壊し愛（統合版）

3．🚪🔒💣

真っ暗闇の部屋、かと思いきや、壁に暖色の小さな明かりが灯されている。

廊下も暗いと思っていたけれど、この部屋の暗さに比べればまだ、明るかった。

数歩、私が部屋の中に足を進めると、後ろから二人も入ってきて、扉が閉められる音が響く。

暗がりにだんだんと目が慣れてくると、そこにいる人物にようやく視点が合った。

──知らない、人。

壁際で、この寒さの中薄着で震えている男が、座ったままこちらに顔を上げる。

手足に枷を付けられているのか、微かに金属の音が響く。

「手と足を背中側で繋げているから、ここでは立てもしないよ、大丈夫」

「……」

そう、平然と説明する優藍に、ごくりと喉が鳴った。

そうだ、この男は私が何度も殺しにかかっていても平然としていたような男だ、これくらいじゃ本当に、なんとも思っていないのだろう。

枷をつけられている男と、視線が合っているはずなのに、男は声を出さない。

いや、唇はブツブツと動いているのに、そこから音が出ていない。

……なんだ、これ。

「あなた、私を歩道橋から突き落とした人？」

違和感を持ったまま、けれど聞けることは聞きたくて。

そう、私は問いかける。

すると、男が急に目を見開いて、私をまじまじと見詰め返して、大きく口を開く。

口の動きだけ、しかその男は表現出来ないかのように。

O、E、NN、A、A、I……ごめんなさい、か？

読唇術なんて持っていない私、けれど必死に、何度も何度も口をパクパクと開いて、私に伝えようとする。

「……優藍」

「なぁに？」

「この人、声、出ないの？」

会話が出来る状態じゃない。

それは、私にとってはまだいい事だったのかもしれない。

だって『加害者』の声なんて聴いたらきっと、こんな冷静でいられないから。

「あぁ、喉潰しちゃったから」

「喉……」

「でもまだ意思表示出来る余裕は、残ってるんだね」

エグい、なぁ。

でもそんな所も許せてしまうんだから、恋って怖いのかもしれない。

私はその男の前に座り込む。

よく見ると目の上が腫れ上がってるじゃないか、これは最近殴られでもしたのかな。

なおも私に向かって声なき声をかけてくる男に、私は握りこぶしを見せつける。

「殴っていい？」

「どうぞ、あかねのお好きなように」

女の、しかも拒食で筋肉もない私の拳で男を殴るだなんて、ほぼ意味の無い事のように思われるだろう。

しかし、それでも私は男のその腹を目掛けて一撃食らわせてから、拳をねじった。

一撃を入れたこの拳は、痛かった。

けれど、私は男を痛めつけたい訳では無い。

小さく息を吐いて拳を受け止めたその男は、視線を落としてから私に再び目を合わせる。

「……耳は聴こえてる？」

「聴こえてるはずだよ」

「そう」

殴った痛みでジンジンする拳を、もう片方の手で撫でる。

「これは、私の子の分。これだけはどうしても、許せなかったから」

いや、どれもこれも許せてなんていないけれど、この男に関しては、私が幸せを見せつけたところできっと、なんの意味もない。

だから、お前が殺した子供の意味を知ればいい。

「男にとっては、実感とかないのかもしれない。産まれる前なら人として見れてないかもしれない」

「……」

「アンタが……この子のことを知ってて突き落としたのか、知らないで突き落としたのかはわからない。さっき謝ってたのだって、心の底からこの子に向けたものでは無いだろうし」

まだぺちゃんこだったお腹の中、それならば知らないで突き落とされた可能性も否定出来ない。

それでも人一人の命を奪ったことに、変わりはないのだけど。

「アンタ、産まれる前の子供に、謝れる？」

『ごめんなさい』

その言葉はきっと、私に向けられたもの。

私に許されて、この場から解放されるための言葉。

そこに、本当にこの件について後悔する気持ちなんて、きっとないだろう。

我が身がかわいい、そりゃそうだ、誰だって自分の身が一番大事で、それが本能なのだから。

けれど、その本能だけ背負って他人の大事なものを奪っていい理由になんて、決してならない。

「アンタが奪ったのは、私の大事に大事に育てて来ていた子供だったの。一番の被害者は、生まれることすら叶わなかった子供。小さな小さな子供の命。でもね、命に大きいも小さいもないの」

「……」

「命の重みは平等よ。子供だからなんて戯言（たわごと）、許さないから」

私の言葉に、小さく、その瞳が揺れる。

私に力なんてない、権力だって、財力だって、なにもない。

そんな私が、人の大事なものを何も想像出来ない可哀想な男に投げかけられるのは、そんな言葉の重みだけ。

「産まれてくる前の子供にだってね、骨も肉も付いてるの」

「……」

「ちゃんと火葬できるのよ。大人と同じように。死産届だって出すの」

「……」

「見えてなくてもね、ここでちゃんと、生きてたの」

ゆるりと撫でるお腹、また悔しさが募ってくる。

「アイツのオモチャでもなければ、私だけのものでも無い。この子はこの子自身のものだったの。この子だけの命だったの。誰かの気分で奪っていいものなんかじゃなかった」

ポロポロ、また涙が溢れだしてくる。

だめだ今日は、涙腺崩壊してばっかりだ。

隣に座って、私の肩を抱き寄せてくれる、優藍。

大丈夫だよ、私はもう悲しみや憎しみに引きずられなんてしない。

この子の為にも、しっかりしていないといけないから。

「なんの罪もない命を、軽く扱うな」

「……」

「以上、おわり。次行くよ、優藍」

奥歯を噛み締めて、立ち上がる。

この男への復讐は、終わりだ。

この子の分、殴って、話を聞かせた。

ちゃんとその意味が届いているかなんて、わからない。

この後、この男がどうなるかなんてことも、わからない。

わからないけれど、私に出来ることなんて、ここまでだ。

背を向けた、後ろで金属音が鳴る。

けれど立てもしなければ声も出せない男、私が振り返らなければ何も伝える術を持たない、男。

カツン、カツン、その枷を床に叩きつける音がする。

一瞬だけ視線を男に向けると、男は額を床に付けていた。

──その行為の指す意味を知ることはもう、ないだろう。

「ほんと、惚れ惚れするね」

「私はただ、奪った命の重みを知れって思っただけ」

「それでも、あの言葉には痺れたよ」

気分の良さそうな優藍に、なぜアンタが気分良くなってるのかと、少し笑ってしまう。

はぁ、少しスッキリした。

でも本番は、これからなのだけど。

部屋を出て隣の部屋、佐渡さんが鍵を開けたのはすぐだった。

もう、覚悟は決まっている。

どんな姿でも、きっと、優藍は危害を加えられるような状態にはしていないはずだから、私の身の保証はされているはず。

大丈夫、大丈夫。

優藍がいるから、大丈夫。

佐渡さんによって開かれた扉の中、そこから微かな声が聞こえてくる。

ぶつぶつ、ぶつぶつ、何かを呟いているような。

音が上がったり下がったりして……歌っているような、かと思えば一定音で呟かれる。

言葉の形を保っていないその声に、独特な不気味さが湧く。

あの頃とはまた違った不気味さ。

「あれ、さっきまで黙ってたと思ってたんだけどなぁ」

そう言って佐渡さんが部屋を覗き込むけれど、誰もその中へと入ろうとはしない。

……私が入るのを、待っているの、だろうか。

「この声、出してるのって」

「アイツ」

「……やっぱり」

というか、その人しかきっと、そこにはいない。

優藍に手をふわりと持ち上げられると、その手の中に柔らかいものを入れられて、握られた。

「なにこれ」

「耳栓、一応ね。あいつの方黙らせたいなら口封じるけど」

「……いや、話すかもしれないからとりあえず、いい」

……こんなにぶつぶつ、呟いている人と話せるのだろうか？という問題はあるけれど。

というか耳栓を渡されるとは一体、どういうことなのか。

その暗がりの中に入ると、小さな明かりに灯された男の影が見えてくる。

しかし、さっきの人とは違い、男は部屋の端に横になって、地べたに顔を付けていた。

やはりその手足には枷が付いているようだ。

「あ、やっべ、さっき蹴り上げてそのままだった」

「あかね、大丈夫？気持ち悪くなったらすぐ出て。後は処分しておくからね」

「いや、大丈夫だから。っていうか蹴られてあんな所にいたのか」

ぶつぶつ、ぶつぶつ、呟いていた声がピタリと止まる。

その瞳が、ギョロりとこちらを捉えると、私の肩がピクリと跳ねた。

大丈夫、怖くない……と思いたかったけど、無理、普通に怖い、なんだその目は、私を呪い殺す気か。

先程同様に、佐渡さんも入った後に閉められた扉。

私の隣にはずっと優藍がいて、手を握ってくれている。

その男はニタリと瞳が細くなったと思ったら、口を開く。

「迎えに来てくれた……」

………………は？

なにを、言ってるんだ、この男？

迎え？私のこと？

「天使さん……ぐふっ、うへへ」

「なにアンタ、キモ」

思わず口から出て来てしまった言葉。

けれど男は目の焦点を宙に向けて、惚れ惚れしたように顔を綻ばせる。

「まだちょっと幻覚でも見ているようだね」

「幻覚！？」

ぎょっとして優藍に振り向くと、「言ったでしょう？」と返してくる。

『精神がね。どっか行っちゃってると思うんだ』

あ、れ、か！！

どっか行っちゃってるって、幻覚のこと！？

「幻聴も聴こえてるかもね」

「なに、薬でも盛ったの？」

「いや、盛ってない。ドーパミンだよ。脳内のホルモンバランスが崩れて、今はドーパミン過剰な状態なんだと思う」

「……ホルモンバランスって……私と似たような？」

「あかねの場合は全体的に脳内物質が減った状態で、時々、攻撃性（アドレナリン）が出てたよね。それがこの男の場合の、幻覚に当たる」

なるほど……私が攻撃したくてコントロール出来なかった状態と近い、別のことが、この男の中で起きているのか。

ということは、ずっとこの状態ってわけでもないのだろうか。

一時的なもの？

「それにしても天使って……」

一体この男には何が見えているんだろうか。

こんな状態な男に、復讐心も殺意も削がれてしまったじゃないか。

恐怖感だけは拭えないけれど。

笑っていた、かと思いきやまた私に視線が向けられると、今度はそれが叫び声となる。

耳をキンキンとつんざくような高い声、お前のどっからそんな声が出て来るんだよ！？とパニックを起こしながらも、先程優藍に握らされた耳栓を装着する。

二人も耳栓をしたようだ。

「……うっさ、何今の」

「ちょっとしばらく感覚遮断させてたら、情緒不安定になっちゃったんだよね」

「……は？」

音がこもって聞こえるけれど、さっきのような被害にあいたくなくて、耳栓のまま会話を続ける。

「感覚をね、封じたまま何十時間も閉じ込めちゃうの。最初は平気でも、だんだん刺激がないことに耐えられなくなってきてね、自分で刺激を作ろうとするんだ」

「刺激を、つくる」

「ぶつぶつ呟いてたでしょう？」

あれ、か。

感覚……といっても、今は耳も目も口も自由なのなら、それは今行われている訳では無いのだろう。

そもそも、私たちが入ってきた時点でそれは刺激になる。

とすると、その感覚を戻した状態にしても、完全には戻っていないということなんだろうか。

「そうでなくても、過剰なストレスを受ければ幻覚が出ることもあるからね。今の叫びは急激に恐怖心が襲ってきたんじゃないかな」

さっきまで、天使とか言ってきてた、くせに……？

感情の落差が激しい。

恐らく今度は、寒さとは別の震えで、ガタガタガタガタ、その男は歯を鳴らしながら体を縮め、額を床に擦り付けている。

これが、今の……元カレ。

「……人ってこんなになるんだね」

「ここまで行ったら戻るのにも相当苦労するか、そのまま死にに走るかもね」

「……」

「同情する？」

その質問に、私は「しない」と即答する。

私はこの男を助けに来たわけじゃない。

過去を切り離して進む為に、私はここにいる。

私の話が……この男に聞こえるのか、不明だけれど。

試すだけ試してみよう。

「……ねぇ」

震える男に、私は声をかける。

「一瞬でもいいから、人の話聞きなさいよ」

なおもガタガタと震える男は、それでも少し、震えが治まってきただろうか。

「アンタが殺した子供、その目でちゃんと見なさい」

視線が向くかはわからない。

愛されてなんて居なかった、私とこの子を置いて逃げやがった。

それでも、紛れもない父親でしょう？

「その目で、認識してから死になさいよ」

小さな骨壺を手に取る。

この薄暗い中で、見えるだろうか。

「アンタの子供でもある」

「……」

「逃げ出すなんて許さないから」

その視界の中に、この子が入るように、顔の前に手を持っていく。

もう、姿形は子供のままじゃない、そこに肉体はない。

それでも、無理だったとしてもいいから、認識してほしい。

アンタが犯した罪を。

ピタリと震えが止まると、視線が揺れる。

捉えてるのか捉えてないのかわからないくらい揺れる、その瞳には、確実に骨壺が映っているはずで。

「アンタの子供。骨壺。ほね、わかる？アンタ意識ある？」

「……」

「ていうか私が誰なのか、わかってる？」

揺れる瞳が、私の方へと向けられる。

聞こえている、反応はしている、意識はある。

認識出来ているのかは、わからないけれど。

「……か、ね」

「金じゃねぇわ」

いけない、思わず突っ込んでしまった。

いや、でもきっと今のは……私の名前を呟こうとした。

それなら、大丈夫。

この男は、私を認識している。

「優藍、来て」

骨壺を大事にバッグに仕舞い、優藍を隣に座らせる。

男を見て顔をしかめる優藍。

私は、このクズ男の視線が私にちゃんと向けられているのを確認してから、優藍に顔を近付け、目の前でキスをする。

佐渡さん、ごめんなさい、こんな見苦しい姿を見せてしまって。

口付けながらふっと笑った優藍は、その口付けを深く、深くしていく。

大事にしてくれているように優しく、見せ付けるように静かに激しく。

耳栓のせいで水音が響いてしまうけれど、そのせいで周りが見えなくなって、夢中になれる。

私の幸せな姿を見なさい。

こんなに愛する人が出来たことを、知りなさい。

アンタには到底、こんな幸せは手に入れられないでしょう？

だってクズなんだもの、子供を見捨てた父親なんだから、幸せになんてなれっこない。

「あ、あ、ね、あ、」

呂律の回っていないような、掠れた声が聞こえる。

そうよ、金じゃないわよ、私はあかねよ、頭にちゃんとその『あ』を付けやがれ。

「あかね」

対抗するように優藍が名前を呼んでくれて、再びキスに飲み込まれる。

まったく、この状態の男にすら嫉妬しているんじゃないだろうか。

優藍の愛はきっと重いことだろう。

けれど私も十分に重い、一度受け入れてしまえばもう離せない。

優藍の首に腕を回して、音を鳴らして離れた唇の端からは、混ざりあった唾液が垂れる。

それを舐めとった優藍は私をギュッと抱きしめ、その心地いい声を響かせた。

「お前、俺のあかねをもう許可なく呼ばないでくれる？」

「……」

「今、俺とあかねは幸せの絶頂なの。いや、この後もずっと上っていくしかないだろうけど」

「ばかじゃないの？」

「いいの？そんなツン見せて」

……幸せな所を見せつけるんでしょう？と、その後に続く言葉が分かってしまう。

そう、だけど、確かに見せつけるために来たんだけど……。

一度深呼吸をしてから、その地面に転がってこちらを凝視している男に目を向けて、笑う。

「アンタが逃げてくれたおかげで、極上の相手に捕まっちゃった」

「……」

「アリガトウ。せいぜいお幸せになって？」

クズ男がそれを、どう受け取ったのかはわからない。

けれど、悔しくて悔しくて、自分の仕出かしたことをどこまでも後悔すればいいと思う。

解放なんてさせてやらない。

許してなんてやるもんか。

例えアンタが死んだって、私は自分のした事を後悔なんてしてやらない。

アンタが自分で選んで、自分で進む道だから。

アンタが逃げた時点で、私の人生にアンタの未来なんて関係ないものになっているのだから。

「優しい優しい天使なあかねは、今日のことを後悔するのかな？」

「しない」

「本当に？」

わからない。

ていうか天使言うな。

実際これからアイツの元にどんな運命が待っているのかなんてわからないのだから、その時後悔しているかなんてものも本当はわからない。

「もしそうなっても、私は私がしたことだけを受け止めるだけ」

起きたこと、事実としてあったことだけを、そのまま受け入れるだけ。

「あかねは飲み込みが早いね」

「どうも。でも優藍が私の歪んだ思考を正したかったのって、こういうことでしょう？」

「……」

「私が、後悔する人生を歩まないように」

あの部屋を出て、薄暗い廊下を歩く、三人。

私は優藍にアイツの前でお姫様抱っこされたまま、そのまま連れて廊下を歩かれている。

「あかねって実は、頭がいい方なんじゃない？」

「何言ってんの？優藍の説明が意味わかんないくらいわかりやすいだけ」

「理解しただけじゃ実行しない人の方が多いんだよ？」

「実行せざるを得ない状況だっただけ」

なぜ私はお姫様抱っこされている状態で言い合いをしているのか、どんな状況だ。

「ていうかもう降ろしてくれていいから」

「なんで？」

「アイツに見せつける為にこんなことしてるんでしょう？もうアイツに見えてないから終わり」

「何言ってるの？1階の奴らにまだ見せてないじゃない」

「……は！！？」

こ、この男、1階までも姫抱きで歩くつもりなのか！？

「なんで！？」

「気分」

「降ろせこの変態！ド変態！！」

「あかねに言われるとちょっと反応しちゃうな」

「ドドドドド変態！！！！」

ぶはっという笑い声が、優藍の後ろを歩いている佐渡さんから聞こえる。

「佐渡さん笑ってないで助けて！」

「いや、だってこんな楽しそうなゆー見ることもなかなか無いからさぁ」

ははっと嬉しそうに笑う声を聞いてしまうと、なんだか本当に優藍のこんな姿を見れて嬉しいんだろうなと、思えてしまう。

それほど優藍は、他人の前ではこんな楽しそうな姿を見せないのだろうか。

「あかね、12回目」

突然言われた数字に、私は眉をひそめて優藍を見上げる。

「なに、その数字」

「あかねが今日佐渡を呼んだ回数」

「は！？」

数えてたの！？気持ち悪っ！

ていうかまだそんなこと気にしてたのか、すっかり流されてくれていると思ってたのに！

「12回分、俺の事を満たしてね」

「なに言って……」

「さぁ帰ろうか、あかね。幸せな時間をこれ以上減らしたくない」

「まって、その満面の笑みは一体何企んでる気なの？」

マスクで目元しか見えなくとも、とめどなく溢れ出すフェロモンは仕舞えていない。

嫌な予感しかしなくて逃れようにも、もう既に掴まってしまっている。

エレベーターを上がり、1階を抜けて外へと出れば、すぐ目の前に真っ黒な車が着き、後部座席のドアが開かれる。

「後日また罪人の処分についてお知らせいたします。本日はお越しいただきありがとうございました」

なんてニコリと笑う佐渡さんは、完全に外モードである。

忘れていたけれどこの人、1階ではいい顔してるんだった。

「さわっ……」

まって、今佐渡さんを呼んだら12回が13回になってしまうんじゃないだろうか？

佐渡さんに助けを求めようにも、呼べない！！

そんな間にも奥の席へと詰め込まれる私、隣に座る優藍はまた私を抱き締めて、緩やかに押し倒してくる。

まてこの変態！まだ車、動いてすらいないのに！！

私の心の叫びは、マスクを取った優藍の口の中へとまた、消えていった。

あぁ、もう

今度こそドロドロに愛されて、満たされてしまう。

────私だって、もう、我慢できない。

車が走り出し、静かな車内でそれは続けられる。

運転手さんはこれをなんとも思わないの？止めてくれないの？

ていうかなんで優藍はそんなに止める気ないの？？

「ゆ……んむっ」

「声、聞かせたいの？俺はいいけど」

「ち、が……」

髪を指に絡ませて後頭部から押さえ付けるように、逃がさないかのように、何度も何度も口付けが降ってくる。

静かな車内が妙に恥ずかしくて、もはや隠す気もないらしい優藍は、なにか吹っ切れたように私を求めてくる。

ごめんなさい、運転手さん、ただひたすらにごめんなさい。

それはまた、優藍のマンションに着くまで、終わらなかった。

『家に帰ってから、存分に俺に愛でられながら壊れて？』

優藍のあの言葉が本気なのならば……私は……今度こそ心の準備をしなければいけない。

ていうかムダ毛処理と……はっ！下着も！

服は？着替えた方がいい？

ていうか私、優藍好みの服とか持ってたっけ……。

というか優藍好みって何？どれ？

私、優藍のこと何も知らないんだけど！！

久しぶりすぎて準備が必要な事なんて、すっかり頭からこぼれ落ちていた。

今朝はそんな余裕とかなかったし、必死で気にもしていなかったし、暗くて見えない中ならいいだろとか思ってたけど……必ずしも見えないまま進めてくれるとは限らない。

今朝とは……つまり私が優藍を襲った時のことである。

私が住んでいたアパートから持ち運んだ大きなバッグを持ってくれる優藍に続いて、私もマンションに入る。

まさかまたこの家に戻ってこられるとは、思いもしなかった。

エレベーターを上がって13階。

鍵を開けてドアが開かれれば、見慣れた広々とした玄関が広がり、優藍がドアを開けたまま待ってくれている。

「おかえり、あかね」

「……た、だいま？」

「うん」

ただ、いま。

そういった挨拶も、これまでしてこなかった。

おかえり、そう優藍に声をかけることもなかった。

私たちの関係性が変わったことを、実感する。

「入って」

「あ、うん」

帰ってきた、この家に。

もう、出て行くか出て行かないかで、迷わなくていい。

私用の鍵は、このショルダーバッグの中に入っている。

もう……復讐は、終わったんだ……。

優藍に刃を向けなくていい、好意を我慢しなくてもいい、過去に囚われて泣き叫ばなくてもいい、逃げることも考えなくていい。

二人の幸せだけ、考えられれば、それでいい。

大きなバッグを部屋に入れてくれた優藍は、額にキスを落としてからソファーに座った。

初めて『支払い』の話をした時の、ソファー。

初めて、口付けをされた時の、ソファー……。

机の上には、出ていった時に置いたままの電子書籍の端末。

『支払い』の終わっていない、端末。

そこに……一緒に置いておいた手紙は、なくて。

「優藍」

「ん？」

「ここにあった手紙、読まずに処分してくれる？ていうか返して」

「もう読んだし、金庫に入れてあるから」

「なんで金庫！？」

わからない、優藍の行動は心が通じあってもなお、わからない。

「え、じゃあお姉さんへの手紙は……」

「渡すわけないでしょう」

にっこりとそう笑う優藍は、じゃあその手紙を一体どうしたというのか。

「あかね、帰ってきたんだから、その口から話してよ」

「……え」

「手紙と同じこと、あかねの口から聞きたい」

それは、どんな羞恥プレイですか。

手紙って、口では言えないようなことを伝えたいから書くものじゃないの？

え、それを口から？

なんの罰ゲーム？

「ゆ、優藍」

「ん？」

「馬鹿じゃないの」

その言葉に微かに目を細めた彼は、立ち上がって私の元へと近付く。

机に片手を付いていた私を囲むように、その両手を机について上から見下ろしてくる優藍に、心臓がドクドクと嫌な音を立てる。

なんだ、なにしてるんだ、壁ドンならぬ机ドンか……？

ドンじゃないな、机トン……？

どこまでも柔らかな動きの中、その視線は微かに冷たさを孕んでいる。

「君が逃げることはわかっていたし、俺もそう仕向けた側だから、それは当然起こり得ることだった」

「……」

「でもね、わかってはいても、愛している人に自分より別のことを優先されて、もう帰って来れない条件を受け入れた上で出て行かれる。それって、どれだけ心が締め付けられるようなことか、わかる？」

「……そ、れは」

「感じたことがないくらい、肝が冷えて、血の気が引いていくようだったよ。わかっていたことなのに、怒りすら湧き出す始末」

優藍、が、怒っていた……？

再会した時はそんな感じ、なかったのに……。

また唇に落ちる熱に、胸がふわっと熱くなる。

胸の奥が締め付けられる、感情的な彼は珍しいから。

「わかってはいても、こんなにあかねのことで自分が振り回されるなんて、知らなかったよ」

「……ご、ごめん」

「そこにあの手紙だよ」

そんな、振り回されている感情の中で、あの手紙を読んだらしい。

それは、ちょっと……私も残酷なことをしたかもしれない。

いや、優藍も優藍でなぜそのタイミングで読んでしまったのか、って言う所もあるけれど。

そのメッセージを置いていったのは、私だから。

「あかね、お願い」

「……」

顎を掴まれて、上を向かされると、強引に視線が絡む。

彼の切ない顔が、また胸の奥に痛みを与えた。

私は、ゆっくりと口を開く。

「……優藍、に」

手紙を書いていた時の自分を、思い出す。

何を伝えたいか、どう書けばいいのか、すごく、すごく悩んだ。

けれど、伝えたいことは、シンプルなことで。

「優藍に、会えて……幸せ、だった……」

優藍がこの家でくれたものは、たくさんありすぎて。

そのひとつひとつなんて、書き切れないくらいあって。

私の気持ちだって、あの時はまだ伝えられていなくて。

だから感謝と、私のこの想いと、伝えきれない程の思い出を一言に凝縮して。

ただ、私はこの家に来て幸せであったと。

あなたと過ごした時間は、憎くもあったけれど、その優しい嘘や真実を知ってしまえば、そんな憎しみなんて欠片も残っていない。

ただただ、私はあなたと居られる時間が、幸せだと感じられるようになった。

『この子』のことを考えていたそれ以外の時間で、初めて人を愛した。

怖かった。

幸せになることも、幸せから逃げ出すことも、怖かった。

けれど、もう綾愛さんと約束したから。

『もう幸せから逃げない』

私はもう、幸せから逃げたくない。

怖くても、幸せを、受け入れたい。

優藍の喉が、小さく上下する。

「過去形で『幸せだった』って言われたのが、苦しかった」

優藍の顔が、哀しみに歪む。

それでも私は、その顔すらも愛しい。

「いつでも、いつまでも、これからも幸せだって思わせてやるって……。『幸せだった』？何言ってんだ、これからだろ……って」

「……優藍」

「あかねは、今も、これからも、俺と幸せな復讐を続けていくでしょう……？」

ぎゅっと抱き締められ、体重をかけられれば、背中が机に付いてしまう。

本当に耐えられなかったように、本当に苦しくて仕方がなかったように、子供のように私を求めて止まない優藍。

彼が愛しくて、守りたくて、支えたくて、同じ時間をこれからも一緒に、歩んでいきたくて。

「優藍に会えて、幸せだよ」

「……」

「今も、これまでも、これからもきっとずっと、幸せ。ごめん、もう逃げないから」

彼の頭に、頬ずりをする。

私からしたことなんて、あったかな。

彼はいつもその大きい体に似合わず、こうして、甘えてくる。

それが優藍らしくて、私はそんな所もとても好きなの。

私の復讐は、終わりを迎えた。

これからは、私たちの復讐を、始めよう。

「優藍と一緒に、ずっと復讐し続けていくよ」

体を起こした近い距離、私が目を閉じれば降ってくる彼の熱。

ほら、もうこんなにも簡単に、幸せを感じてしまう。

頬に触れる彼の手に上から触れて重ねれば、また彼の愛は、深く深く、私を包み込んでいった。