壊し愛（統合版）

6．🚗👠🍼

迎えの車が既に外にいるらしく、私たちは人気のないモール内を三人で歩いていた。

先を進むのは綾愛さん。

その後ろで自然とユラに繋がれた手に、指先を絡めるようにして手を引かれる私。

──そういえば、私たちは揃って外に出たことが無かったのだと、ここで初めて気付き、また顔に熱が集まる。

隣を歩く彼は私の歩幅に合わせて歩いてくれているようで、ゆったりとした歩みで足を進めてくれていた。

まるでデートみたいだ……なんて気分を少し味わうけれど、私たちは付き合ってはいない。

あれ、でも付き合ってないのにこうして指を絡ませて歩くものなのだろうか？

私の常識とユラの行為の食い違いに、顎に指を当てて考える。

「どうかした？」

「……なんで手繋いでるのかと、思って」

よくある迷子防止なんて理由も、こんなに人気の少ない中じゃ無意味に等しい。

握られた指にギュッと力を入れられると、絡められた手の感覚が強調されるようで、なんだかムズムズとした気持ちになった。

「俺があかねと手を繋いで歩きたいから」

「……なにそれ」

「あかねも離さないんだから、いいってことでしょう？」

…………それを言われてしまうと、なにも返す言葉がない。

実際、勝手にデート気分なんてものを味わってしまっているのだから。

「ほんと、ばかじゃないの」

そう口では反抗したものの、私も指先に力を込めて、握り返していた。

外へと出ると、タイミングを合わせたかのように黒い車が私たちの前にとまり、なんの躊躇いもなく綾愛さんが助手席へと乗り込む。

運転手さんがご丁寧にも後部座席の扉を開けてくれて、ユラが私をそこへと先に誘導する。

ガチガチに緊張しつつ後部座席へと乗り込んだ私は思っていた。

なぜ一度目、同じような車に乗った時、あんなに堂々と座っていられたのか？？

え、なにこれ、だって運転手さんスーツにサングラスかけてるし、フルスモークの真っ黒の高そうな車だし、そもそもその運転手さんは一体何者？？

ユラの家に向かう時に一度乗ったけれど、なぜあの時はこんな違和感にすら気付けなかったの？？

座り心地のいいその座席の隣にユラも乗り込み、運転手さんがまたご丁寧に扉を閉めてくれる。

ほどなくして動き出した車の中は、とても静かだった。

「……あかね」

「……な、なに」

「そんなにガチガチにならなくてもいいよ。俺がいるでしょう？」

車の中でもゆるりと自然と繋がれた手に、私は別の意味でまた緊張が蘇る。

車にも緊張するし、ユラにも緊張する。

状況は初めて車に一緒に乗った時と同じはずなのに、心持ちが全然違ければ、緊張の度合いも全く違う。

綾愛さんもこの車に慣れているのだろうか、平然と助手席でスマホをいじっているようだった。

私も気まずいくらいならケータイをいじっていたかったけれど、そのケータイはまさに今向かっている先の家にある。

たぶん絶対充電は無くなっていることだろう。

「あかね」

「え？ちょっ……！？」

突然顔を近付けてきたユラに驚いて頭を引くと、窓にゴンとぶつかってしまった。

痛いより、車にぶつけてしまってごめんなさいという気持ちの方が勝ったけれど、それでも距離を離そうとしないユラに声が出ない。

しー、と人差し指を口元に付けるユラに、いや絶対ここでしたら見られるでしょ！？車って鏡あるの知らないの！？なんて頭の中で反抗するも、考えるより先に目が閉じていた。

あぁ、『支払い』の癖が抜けていないのか。

唇に感じる柔らかな彼の感触を受けながら、頭の中ではそんな風に納得すらしてしまっていた。

というか、私たち、付き合ってないんだけど。

いいのかこれは？

いや、よくはないだろうけど。

私の中の倫理観までもが、彼に呑み込まれてしまいそうだ。

「ユラ先輩、お気持ちはわかりますけどもう少し辛抱してくださいねぇ？」

察したのか鏡で見えたのかはわからないけれど、そんな綾愛さんの言葉が飛んできて、反射的に手を振りかざす。

彼の頬にビンタをしようとするけれど、当たり前のように手を取られて失敗に終わる攻防。

この男、本当に周りの人の目を気にしないのか？

この先の私の心労を想像しただけでゲッソリとしてしまいそうだ。

いや、この先も一緒に居られるとも限らないのだけれど。

少しの不安に、胸の奥がチクリと痛む。

「色々終わらせないと、満足にあかねを堪能することも出来ないか」

「なに言ってんの？」

「ほんと、口だけは反抗的なんだから」

不意打ちでもう一度唇に軽く触れられると、ようやく彼は元の位置に座り直した。

心臓に悪いから、時と場所と状況を考えて欲しい。

静かな車内から見慣れた街の景色が見えてくる。

私とユラの始まりの場所である歩道橋の下を車で通り過ぎると、ふと視線を向けたユラと目が合う。

彼も思い出していたのだろうか、私を助けた時のことを。

それから時間も経たないうちに道路脇に止まった車。

ユラに手を引かれて降りると、そこは以前と変わらない姿のアパートがあった。

私が、私たちが住んでいた、安いアパート。

階段を登っていくユラを追いかけるように後をついて行くと、すぐに着いたその扉の前で鍵を手渡される。

特にお気に入りでもなんでもない懐かしいキーホルダーに触れてから、鍵穴にその鍵を差し込み、回す。

聞き慣れた解錠音が響くと、ようやく私は実感してきた。

この家に、帰ってきたのだと。

ユラに部屋を見られることに、少し抵抗感があった。

けれどこの鍵を持っていたということは、そんな抵抗感は無意味であることを指していた。

だってもうこの部屋の悲惨な姿は、とっくに見られているのだろうから。

それなら、いっそ。

ガッと勢いよくドアノブを握りしめて引くと、ユラに向き合う。

彼は表情を無くした顔で、私の行動を見つめていた。

「……入って、ユラ」

「…………え？」

私の言動が想定外だったのか、彼はぽかんと私を見つめる。

「もう中、見られてんでしょ？それに……ここには私の過ごした時間が、あるから」

「……」

「ユラになら、知って欲しいと、思った、から」

たどたどしい口調でそう言ってから、私が先に玄関に足を踏み入れる。

パチンと音を立てて付けた明かりが部屋を灯すと、電気は生きてるのかと、意外と冷静な頭で考えていた。

短い廊下の脇にキッチンがあり、その先に付いている扉を開けば、最後の記憶となんら変わらない悲惨な部屋が広がっていて、口の端が引きつった。

いや、記憶していた頃よりも酷く感じる気さえする。

この惨状の中にいて、三ヶ月前までの私は何も感じていなかったのか、そうか、怖いわ。

倒れた机、片脚の折れた椅子、豪快にひっくり返された小物たち、ハサミやカッターでズタズタに切り裂いた壁紙に、一切手の付けられていないベビーグッズたち。

いや、育児本は少し読んでいたけれど。

冷蔵庫の中は空っぽ。

食べ物をほぼ買っていなかったおかげで、幸い腐るようなものはなかったようだ。

この時ほど拒食だったことを良かったと思ったことは無いだろうし、多分今後もない。

そんな危機はこれ一回きりにしたい。

鍵はたしか、タンスの上に置いていて、さすがにタンスはひっくり返せなかったのでそこは無事だったようだ。

よく窓ガラスを割らずに済んでたな、と思ったけれど、部屋の片隅には割れたジャムの空き瓶が落ちていたので結局ガラスは割れているようだ。

うわぁ、素足で入りたくない。

むしろユラには靴で入ってもらおうかと思い、後ろを振り向けば、彼はカバンから底のしっかりとしたスリッパを二足出していて、片方に足を入れていた。

一度この惨状を見た事のある人の用意の仕方だった。

「……用意良すぎ」

「ほら、あかねも履いて。危ないから」

「あんた最初から入る気満々だったのね」

ユラがスリッパを持って私の足元に片膝をついてしゃがみ込むと、ふくらはぎの下に彼の指先が回ってきて嫌な予感がする。

「え、ちょっ……と！？」

まって、それスリッパだから。

ガラスの靴と勘違いしてない？

靴底の少し高くなっているシンプルな白いスリッパが、ユラの手によって履かされる。

足を入れれば履けるというのに、ユラは私の足先にご丁寧にスリッパをはめ込んでから、手を取った。

なにこの状況？

「うん、かわいい」

「スリッパ履かせてなに満足してんの気持ち悪……」

「ほらあかね、はやく案内して？」

満足そうな笑みを向けるユラに、頭を抱えたくなる。

案内も何も、この先部屋はこの荒れ放題な居間と寝室しかない。

恐る恐る部屋にユラを入れると、端から端までこの惨状を眺められて、居た堪れない気持ちになる。

「前も思ったけど、ベビーグッズは綺麗なままだよね」

「……さすがにそこまで、理性は崩壊してなかったんじゃない？」

小さなベッドの中には、子供服や育児本、おむつの袋などがまとめて入れてあって、その一角に被害はない。

いや、被害って……やったのは私なんだけど……。

まだ知らぬ育児に張り切りすぎて早く買いすぎたことは反省している。

「あかねの、そういうところ」

倒れた机を戻そうとするユラに、反対側を支えようとすると、そう声が落ちてきた。

「そういうところ？」

「子供のことで、我を無くすくらい感情的になったり……それでも子供を想って、完全には捨て切れない自制心だったり」

「…………なに」

起き上がった机は、そこまで酷く汚れているわけではなかった。

こっちはまだ使えるかな？なんて考えていると。

「あかねのそういう愛情深いところに、興味を持ったんだよ」

机に向けていた視線が、彼に移る。

なんの、話しをされているのか。

一瞬、わからなかった。

「興味……？」

私に、興味を持った話……？

「まだあかねと会う前、様子を見てた頃。何にも執着しなかった自分が、暴れていたあかねに興味を持った」

「ねぇまって、暴れてるところに興味持たれても嬉しくないんだけど」

「だからさっき言った通り、その行動の奥にあった愛情に、興味を持ったってこと」

どうやらユラは、私を知った最初の頃のことを思い出しているらしい。

そりゃあ暴れる女なんてそうそういないだろうから、気になりはするだろうけど……。

「……それで？」

ドクドク、心臓が嫌な音を立て、生唾を飲み込む。

この鼓動は一体何に反応しているのか、わからないふりをして彼に先を促したけれど。

「部屋に連れ帰って観察したくなった」

「まってまってまって。私、珍獣かなにかだったの？」

衝撃的すぎるユラの暴露話に、少しでも期待した気持ちになっていた私の心がブロークン。

期待？いや期待とかないし、全然、ほんと全然、知らないし。

ていうか観察？私を？

え？保護ですらなくて？？

私の感謝の気持ちどうしたらいい？？？

これまでになかったほどの混乱を招く言葉に、他の人たちからのユラへの印象の意味が少しわかった気がした。

お姉さんや佐渡さんにも冷たく接していたユラ。

綾愛さんの言う『冷めてる』という話。

しかし私に対してだけはなぜか、いつも笑みを向けている。

「最初は、確かに興味だけで部屋に連れて来てた」

嘘でも保護とか、助ける為とかすら言わないんだな……と、馬鹿正直に話すユラに思う。

でもこんなことまで馬鹿正直に言うから……今までの発言もストレートな気持ちばかりだったのかな、と思えてしまう不思議。

それに、『最初は』ということは、過ごしているうちに気持ちの変化があったのだと……きっとそうだと思いたい自分がいる。

「君からの殺意を……というか、殺意の奥にある本物の愛情を観察していたくて、それで俺を恨むように仕向けた」

「あんた尋常じゃなく歪んでる思考してること気付いてる？」

「何にからでも刺激を受けられなければこうもなるよ」

刺激を……受けられない？

ユラの過去なんて、佐渡さんが話してくれたことくらいしか、知らない。

『アイツが人に執着しないのも、そんな自分をおかしく感じて心の勉強してたのも、それも利用して仕事にしてきてんのも、みーんな見て来たの、俺』

佐渡さんから聴いたあの話くらいだ。

「刺激を受けられないってどういうこと？」

「あかね、俺に興味持ってくれたの……？」

キラキラした瞳を向けてくるな、聞きにくくなるじゃないか。

ちょっと聞くの嫌だな……とも思いつつ、けれどやっぱりユラのこと、少しずつでいいから知りたかった。

「で、なに、どういうこと」

「俺、感情がうっすらぼんやりって感じで過ごしてて、強い感情って滅多に起こらないんだよ」

「……？」

いや、でもおかしくない？

確かに最初の頃は、貼り付けたような笑みばっかりで気持ち悪いとは思ってたけど……時々顔を歪めることだってあったじゃないか。

私が発作起こしたとき、とか。

プレゼントをくれた時、とかも。

「完全に感情が無いわけじゃなくて、無の時が基本で、ごくたまに感極まることがある、みたいなかんじかな。人への興味も、生きてようが死んでようが、基本俺は動じないよ」

人の生死にすら……感情に振り回されないということだろうか。

それは少し……自分なら嫌だなと思う。

もったいない、とも思う、けど。

それって私が思うに……。

「……感情の省エネ？」

「ふふっなにそれ。初めて言われたよ」

ユラはよく笑うと思う。

最初のような貼り付けた笑みじゃない、ついこぼれ落ちてしまっているかのような、自然な笑み。

きっとこの笑みは、嘘じゃないんだろう。

「でも確かに、省エネになってるかもね。だから、あかねに心が動いた時、そのチャンスを絶対に手放さないように、囲ったの」

言ってることは狂気的で、引くほど執着されているのが分かるのに……心の奥ではそれを嫌だと感じていない自分がいた。

ユラになら囲われたっていい。

ユラが手放すと言っても、私は元通り彼を知らなかった自分には戻れないだろう。

彼は私を手放すだろうか？

……いや、今はそういうことを考えてしまうのは良くない。

これは『推察』で、実際起きるとは限らないこと。

漠然と不安になっているだけだから、この不安は必要ないもの。

それに、彼自身をまだ貰えてないじゃないか。

『支払い』だって終わっていない。

だからきっとまだ、大丈夫。

……ということは、感情に対してそこまで執着をもっていた彼は、本気で私の殺意……の奥にあった母性愛みたいなものを感じるために、私を部屋にまで招き入れたのだろう。

殺されるような立場にいるのになんて不用心な人なんだ。

「殺せないことがわかればすぐに逃げるんだろうな、なんて思ってた。そこの縛りは無くしていたから、いつでも逃げられたでしょう？逃がす気はなかったけど」

それは今日のように、逃げても追いかけるつもりでいたということだろうか。

最初の頃の私が知っていたらホラーで全身震わせること間違いなしだ。

「……でも、私は逃げなかった」

「そう、逃げなかった。逃げずに毎日毎日刃を向けて来る君に、俺は毎晩心が震えていたよ」

「だからなんでちょいちょいキモイこと言ってくるの？」

胸元を抑えて恍惚とした眼差しを向けて来るこの男、本当にヤバいんじゃないだろうか。

ねぇ私、考え直して。

今逃げてもきっとまだ間に合……いや、結局ユラが飽きるまで逃げ道はないのか。

逃げたいような気もするし、逃がさないで欲しいという気持ちもあって、私の心はとても複雑だ。

「逃がす気はなかったけど、俺はメンヘラ製造をしたいわけでもなかったから、お返しとしてはなんだけど、ちゃんと自分で立ち直れるように教えて来たよね」

「それってユラの対応次第で私はメンヘラになる可能性すらあったってこと？」

「どちらかというとそっちの方が簡単だよ。落ちるのは簡単でも、正常に戻していくことは本人の強い意志が必要になる分、難しい」

本人……つまり私の強い意志……。

意志力なんて、騙されやすくて流されやすい私にはなかったはずなのに。

けれど、『あの子』に関することに限っては、確かに自分の意思がちゃんと機能していたかもしれない。

私しか、『あの子』を守れる人はいなかったから。

ユラは部屋の端に向かいながら、言葉を続ける。

「自分の心に向き合うより、自分や他人を否定して心を保つ方がずっと楽なんだよ」

ベビーグッズのある一角に座った彼が、柔らかい動きで育児本のひとつを手に持ち、もう片方の手で撫でる。

「大抵は自分の心を守るために、自分や他人を傷付ける方に流れる。心が弱っている時はIQも落ちているから、楽な考え方に流されやすくなるんだよ」

「……IQって落ちるの？」

「わかりやすいのが……お酒飲んでる時を想像してみて。べろべろに酔った人が事細かく計算や理性的な思考が出来てると思う？」

べろべろな人がそんな理性的になれているなら、この世の酒関連の犯罪があんなに起こるはずもないだろう。

つまり、それがIQの落ちている状態で、心が弱っている時はその思考回路に近くなっているということなんだろうか。

「そこまで酷くなくても、思い込みやストレスでIQなんてすぐ落ちて、判断能力も落ちる。人に流されたり、衝動買いしやすくなったり、依存しやすくなったり」

「私が、その状態だったってこと？」

「あかねもきっとまだ、完全に元通りには戻っていないよ」

IQなんて、測ったことがないからわからない。

けれど、一般的な人が100というのは知っているから、普通に暮らしてこれた私はきっと100前後ではあるんだろう。

いや、頭悪いから測ったらちょっと低いかもしれないけど。

「IQが高ければいい、低ければ悪いという単純な話でもない。幸福度とIQはまた別物だし、頭が良すぎても人と話しが合わなくなったりする」

「そう、なの」

「それに環境によって落ちやすくなるし、徹夜なんてしたら酔っ払いレベルで思考力が落ちる」

「嘘でしょ、普通に頭働いてたと思うけど」

「思考力が落ちてるから自分では気付かないんだよ」

学生時代に徹夜してた頃の記憶がふと蘇る。

まって酔っ払いって、嘘でしょ？

それ勉強出来てなかったってことじゃない？

それにずっと起きてると一周回ってハイテンションになって凄く頭の回転良くなってる気がしてたのは……？

……いやでもべろべろなおっさんたちもテンション高いな、テンションと頭の働きって別物なのかな。

「そんな思考力の落ちている中で、自分の意志で俺から離れて復讐の方向性すらも変えることを決めたあかねは、自分を誇っていい」

ユラは言う、『自分を誇っていい』と。

数々の間違えた道に踏み外してきただろう私。

ユラだってそんな私を見てきているはず。

それに家の物さえ壊したことが沢山あるのに。

お掃除ロボットとか、包丁とか、ハンガーとか……。

「それ、も……私をどこかに導く為の、言葉……？」

「ここまで暴露した俺が、今更なにを導くっていうの？」

だって、そんな素直に受け入れられないのに。

ユラだってそんな私の癖を知っているくせに、そんな事を言う。

育児本から視線を上げたユラの瞳が、私を捕らえる。

この部屋に来てからずっといつもの表情を隠していた顔が、緩やかに口端を上げて、私を優しい眼差しで、愛しそうに見つめる。

なんだか、錯覚してしまいそうだった。

あなたが大事な人を見つめるような瞳を向けてくるから。

ドクドクと、心臓の鼓動が早くなっていく。

「導かなくたって、あかねはもう自分でやっていけるよ」

自分でやっていける、とは、どういうことなのか。

突き放す意味を持つのか、それとも受け入れる意味を持つのか。

私には彼の心の奥が、全く読めない。

「……ずるい」

苦しくもなるのに、なのにその言葉は、私にとっては胸の奥が熱くなるくらい、優しすぎた。

それは、だってほら……ずるいじゃん。

散々、人に引かれるような話をしてきて。

散々キモイこと言って、散々計算高い罠に嵌（は）めてきたことを暴露して、それでも何ともないように話し続けて。

ずっと彼の心の奥底にあっただろう『人とは違う感情の感じ方』を話してくれて……。

そこまで話されたら、今の言葉だって嘘だって言えないじゃん。

受け入れることしか、選択肢が残されていない。

私はあなたにどれだけ迷惑をかけたのかわからないくらいなのに、なんでそんなに……甘やかすような言葉をかけてしまうの。

「私は……それをどう受け取ったらいいの」

「そのまま。俺が君を誇っている事実だけ、まっすぐに受け止めればいいよ」

「……導かなくてもって、どういうこと」

「ん？」

「私が一人でやって行けるなら、ユラは……離れていく、の……？」

離す気はないと言われてきても、それでも考えていることの中心は、その事から離れてはくれない。

一度は自分から離れたのに……いや、離れたからこそ、だ。

自分から名残惜しさを振り払ってまであの家を出てきたのに、寂しい気持ちを綾愛さんにぶつけたのに。

それなのにユラが、また私の所に来たから。

だからその事ばかり考えてしまう。

一度失いそうになったものが再び戻って来たら、今度こそ離したくないと思ってしまう。

怖い。

次はユラが離れていくんじゃないかって、私は酷くそれに怯えている。

もう、ここまで膨らんでしまった気持ちを、見ないふりなんて出来なかった。

私の想いは確実に、その一線を越えてしまっているものだ。

ずるくて、戦略的で、

気持ち悪くて、意地悪で、

たまに馬鹿で、変態で、でも名前の通りに優しくて、

私のなにもかもを、その藍色で包み込んでしまうような、その優しい瞳を向けてくる、ユラが──。

──優藍（ゆら）が

好きで

愛しすぎて

心臓が壊れてしまいそうだ。

胸の奥が熱く、ズキリと鈍く痛む。

感極まってしまって、涙の膜が目を覆って来るそれを我慢しようと、誤魔化そうと必死に頭の中でどうしようか考えるけれど、ぐちゃぐちゃとしていて、何も思いつかなくて。

ふと、本が本の上に重なる音がして、そちらに視線を向ける。

立ち上がる気配がした、その直後だった。

両手首を彼の手に取られて、机の上に押し倒されるように寝転ばされたのは。

痛くはない、けれど、決して弱くはない力。

心臓の音がが壊れたように主張して、彼の一挙手一投足に敏感になる。

なんだ、何が起きたのか、机に背中の骨が当たる、背中が反っている、手首が熱い。

好きだという実感が湧いてしまうと、もうこんなに真正面から向き合うなんてこと出来なくて、視線を逸らして微かに反抗する。

「あかねこそ、ずるいよね」

「……意味、わかんない」

「本当に、こっちがどれだけずっと我慢してるのか、ほんと、わかってない」

力を抜いて、手首の内側を撫でられるその指に、むず痒さが広がる。

強引そうに見えて、いつもそうだ。

痛みを伴う強さなんて、込められたことがない。

そんな優しさにまた、私の心が落ちていく。

「信じろなんて偉いこと、まだ言える立場じゃないけど」

剥き出しの首元に降ってくる唇が、軽くそこを食んで離れる。

この家を出ていったのが夏だったから、私の服は半袖にスキニーで上に借りた厚めの上着を羽織っただけのものだ。

装備が薄い、なんて、この男を前にしたら意味のない考えがぼんやりと頭の端に浮かぶ。

直視できないから、思考が逃げているのだけれど、そんなことは優藍を前にしたら意味が無くなることを、何度経験したら覚えるのだろう。

「俺はあかねを離すなんて、考えたこともないから」

そう、簡単に私の心を震わせて来る言葉に、言葉を返させる隙もなく、彼の唇が落ちてくる。

反論なんて認めないと言われているような、少し強引なキスは、長い間唇を覆っていた後、啄むようなものに変わる。

あぁ、私の不安はこんなことで、優藍に上書きされて満たされてしまうのか。

そうか、私を離すなんて、考えたこともなかったのか。

それじゃあ私の不安は、不要なものだったのね。

彼のキスを受け入れていると、ふいに顔をあげた彼が「あ。」と呟く。

「そういえばあかねのこの家での支払い、口座変えてあるから」

「…………………………は？」

唐突に、なんてことないように呟かれた言葉に、私の思考は真っ白になる。

なんて？どういうこと？

口座……なんて、私はひとつしか持っていなかったから、変えようが無い。

そういえば、放置していた割には家に変わりなんて見えなかった。

電気も繋がったまま、家具の配置も変わらぬまま。

……自転車操業状態だった私の残高では決して足りていないだろう、支払いの数々。

使った分だけ引かれるならまだしも、家賃やインターネットなんて使ってなくても定額で引かれるもんだ。

そういえばケータイ、私のケータイはどこに置いていたっけ……？

冷蔵庫は？PCの充電やWi-Fiは繋がったまま……？

それを、つまり、この男、が……？

まって、それ……いつから変わってたの？

「だからほら、電子書籍の端末代なんて今更なことでしょう？『支払い』、おしまいにしよう？」

「……………………は？」

「そんなお金で繋がれた関係、もう必要ないでしょう？」

本格的に、この男の考えていることが理解出来なかった。

「なんで……？」

「俺はあかねの全部がほしいの」

「……？？」

欲しい、のはわかる、私も優藍がほしい。

でもそれとこれとは繋がらない、だって私たちは名前のある関係性ですら繋がれていないんだから。

「あかねは、まだこの家に住む気があるの？」

「は……？？」

さっきから、「は？」しか出てこない。

いや、だって、ここは私の家だし。

住む気があるも何も、私は帰ってきてる、し。

「この家は、あかねの逃げ道として取っておいただけで、もう必要ないんだよね」

「……さっきから何言ってんの？」

「思い入れがあるならまだ残しておいてもいいけど……」

「残す残さない以前に、私の家……だったはずなんだけど。なに、私この部屋から追い出されるってこと？」

優藍の話の方向性の読めない私は、疲れから額の奥が痛くなってくる。

頭の使いすぎで頭痛起こしてるし。

引越し先を考えないといけないのか？と思考を巡らせていた時だった。

「あかねの家は俺の家でしょう？」

至極当たり前かのように、なんの迷いもなく、なんの躊躇いもなく、それに限ってはなんの私の意見も聞かれることも無く。

逆に、何言ってるの？と、甚だ疑問かのように、私に首を傾げて見せる。

──────唖然。

まさに今の私にぴったりな言葉。

「あのマンションが嫌なら、あかね好みの家でも建てようか。俺の仕事部屋も作らせてね」

「いや、え、なんで？この家は……」

「あのクズ野郎との思い出のある部屋でなんて住まわせるわけが無いでしょう？あ、ベビーグッズは取っておいていいよ、あかねの大事なものだし。今後も……ね、うん、もしかしたら使うかもしれないし」

「………………」

情報過多で、爆発しそうだ。

つまり、ええと、ユラは私の代わりにこの家の支払いをしてくれていて。

キスの『支払い』はやめたく、て？

この部屋は私の逃げ道として取っておいた、だけで。

あのクズ男との思い出のあるこの部屋に、このまま住むことは許せなくて……？

ベビーグッズは、そのままでも、よくて。

私の家は、ユラの家……？

え、いつからユラの家が私の家になってたの……？

「まってユラ、色々付いて行けない」

「そうだね、あかねも混乱してるだろうし、秋服に着替えてから家のマンションに持ち出すリスト、書いておいてくれる？」

「凄い勢いで拒否する隙を与えてくれないな」

起き上がったユラに差し出されるのは、お姉さんからプレゼントされたペンと、小さなメモ帳。

このペンは電子書籍の端末と一緒に、私のいた部屋に置いて来たものだ。

ということは、あの部屋に入ったのか。

ということは、私がもう会うことが出来ないからと書いた手紙も……？

出てって数時間で再会したのに、あんなの読まれていたら私恥ずか死ぬんだけど……。

「あかね」

「……なに」

「そんなに不満そうな顔、しないでよ」

いろんなことを私の知らないところで勝手に進められていた私は、頬をプクッと膨らませて抗議の念を送ることしか出来ない。

初めて気付いた気持ちのせいもあって、心の中がぐちゃぐちゃだ。

「襲いたくなっちゃうからやめて？」

「襲わないくせに」

「ほんと、わかってない」

私は悔しくてぷいっとそっぽを向くけれど、わかってる、こんなのただ拗ねてるだけだって。

別にユラと一緒にいたあの部屋が嫌な訳でもないし、この家に特別思い入れがあるわけでもない。

……でも、ユラが次から次へと私に衝撃的な事ばかりしてくるから……心が付いて行けないだけ。

それなのに、私の気持ちなんて分かってるのか分かってないのか、顔を覗き込んで来るユラ。

う……その角度にちょっと弱いのわかっててやってるのだろうか？

「あかねは、俺の家が嫌？」

少し困ったような表情を向けられて、そんな声で聞かれてしまうと……心がぶれそうになってしまう。

「……別に、嫌ってわけじゃ、ないけど」

「悩んでるなら、答えは後でいいよ」

そう、少し譲歩されてしまうと、強く当たれないじゃないか。

あんなに強引だったと思ったら、今度は私の気持ちに委ねてくる。

ジェットコースターみたいだ。

「家は一緒になっても、あの部屋はあかねの部屋だから。家建ててもあかねの部屋はつくるよ」

「……？わざわざなんで部屋を？」

「婚前に同棲すると別れる確率が上がるって話、聞いたことない？」

別れるも何も、私たちは付き合っていないけれど。

……え、まって、婚前同棲って別れる率上がるの？

「知らない。なにそれ詳しく」

いや、付き合ってないんだけどね？

私たち付き合ってる訳では無いけどさ、気になるじゃんそれは。

なんで？どうして？ってなるじゃん。

「プライベートな時間がないと疲れちゃうでしょう？お互い知られたくないこともあるだろうし」

「……うん」

「喧嘩した時も、同じ空間にしか居られないと逃げ場がない。頭を冷やす時間も必要だね」

「な、なるほど……」

「理由はいろいろあるけど、どちらかが我慢する状況で長続きさせるなら、片方の負担が大きくなって綻んでいく。そういうのは避けたいでしょう？」

彼と話すと、本当に当たり前だと思ってたことの穴が見えてくる事がある。

仲良いからといってずっと一緒にいる必要は、ないのかもしれない。

距離感というか……プライベートな時間も大事にしないと、関係性は保つのが難しいってことかな。

「だからあかねの部屋、ちゃんと分けてたんだよ」

「あれそういうことだったの？」

たしかになんで部屋を貸してくれるんだろう？とは薄々思っていたけれど。

まさか彼の気遣いと知識のおかげだとは、思わなかった。

いや、同じ部屋だったらそれはそれで廊下で寝るとかいう強行手段もとりそうだけどな、私。

それくらい最初はユラの事が嫌いで憎かったから、同じ部屋なんて頭おかしくなってたと思う。

最初にユラから提案された時は、そんな事考える余裕なんてなかったけどね。

「男女関係も人間関係も大きな差はないよ。近付きすぎても遠すぎても綻びが出る」

「綻び……」

「どんなに仲が良くても、距離感ていうのは一定以上必要なんだよ。何でも踏み込んでいいわけじゃない。友達でも恋人でも、家族でもね」

どんなに仲が良くても……。

仲が良すぎて……っていう距離感であまり付き合いがなかった私には、あまりよくわからない話かもしれない。

けれど踏み込まれすぎたら、確かに私は逃げるタチだろうな。

「どこまでお互いが許容出来るかその中で付き合っていくんだから、避けられる危険は避けたい」

話しながらゆっくりと机から体を起こされていた私は、いつの間にかそのまま立った状態で、柔らかく抱きしめられていた。

どさくさに紛れて……なんて思うけれど、私の指は彼の腰辺りの服をキュッと摘んでいた。

「まぁ、付き合ってないんだけどね」

なんて、何度も私が心の中で思っていた言葉を口に出すと、胸の奥にまた痛みを感じた。

応えるようにギュッと力の込められた腕に、また心の中が冷めていく。

離してくれる気はなくても、彼は私とのそういう関係は求めていないのかもしれない。

「……だめだ、あかね。もう次いこう」

「……え、なに？」

急に、冷めた声でそう口に出した彼は、寝室の扉へと足を向ける。

元々開いていたその部屋の中に入ると、すぐに出てきたユラの手の中には、白いスマホと充電器が握られていて、私に手渡してくる。

どうやら寝室に置きっぱなしでいたようだ。

「すぐに使うものだけ鞄に入れて」

「なに、どうしたのユラ？」

「俺は外に出てるから、凍えさせないうちに出ておいで」

それは暗に早急に用意しろということじゃないか。

秋といっても今日は特に冷えている。

朝から吐く息が白かった。

さっさと玄関へと向かって部屋を出ていってしまった彼に、一瞬遅れて近くにあった鞄に荷物を詰め込み始める。

私このままユラの部屋に引っ越す流れなのだろうか？とか、なんで急に態度変えて出ていっちゃったの？とか。

怒ったの？とか、どの辺で？とか。

考えたいことはたくさんあったけど、今はユラが凍えてしまわないうちに早く支度を進めなければと、冬服や下着、化粧品も詰め込んでから、部屋を見渡す。

あとで大丈夫なものは、とりあえず置いていく。

端にあるベビーベッド、その上にあるグッズたち。

そのベッドの横に置かれた小さな骨壷を手に取って、優しくハンカチで包み込んでから、カバンの転がらない位置に優しく置く。

やっと、『この子』を連れて行ける。

もうこんな所で一人にしないからね。

ずっと長い間、寂しい思いをさせてごめんね。

空に想いを届けている日々は辛くて、虚しくて、いつも『この子』のことを考えてばかりいた。

『この子』を想うことしか、私には出来なくて。

それでも復讐は、諦められなくて。

それでもずっとずっと、忘れた日なんてなかったよ。

だから私は、家に戻らなきゃいけなかったの。

『この子』を一人にしてしまっていたから、戻らなければいけなかったし。

『この子』さえこの手に戻って来たなら、もうこの部屋に未練もないの。

服を詰め込んだ大きなバッグひとつ、小さなショルダーバッグひとつを持って、服を着替えて、久しぶりに出したブーツを履いて、外への扉を開けた。

壁に背を付け、腕を組んでこちらを見ていたユラが、大きな鞄を軽々と持ってくれる。

……その筋力差が恨めしい。

「もう、いいの？」

「ユラが凍えるから、あとで。持って行きたいものは持てたから」

「わかった」

一瞬笑みを見せてくれたけれど、すぐに先に進んでしまうユラに、私は今度こそしっかりと家を施錠してから、その背を追った。