壊し愛（統合版）

5．💞💧💣

「あ、ようやくお迎えが来ましたねぇ」

そんな明るい声で私の後ろの人に話しかける、綾愛さん。

何が起きているのか、状況把握が出来ずに置いてけぼりな私。

お迎えとは……？

私に椅子の後ろから回されている、この力強い腕は……。

耳に感じる、この吐息は…………。

先程この愛しい声で呼ばれた、その少し掠れた声を思い出し、顔がじわじわと熱を持つ。

「ていうか、出てくる場面てここでしたっけ？」

「無理、あかねが可愛すぎてこれ以上我慢出来なかった」

「あらあら、ゾッコンじゃないですかぁ」

後頭部に感じる、頬擦りされる感覚に、若干の痛みに、これが現実なのだと頭がようやく覚醒し、綾愛さんに視線を向ける。

「ん？あ、お迎え待ってたのは本当ですよ！この後お家行きますもんね？」

「？？？」

まだ止めきれない涙目のまま、彼に振り返る。

そこには、朝の寝顔を眺めて以来のその顔が、間違いなくユラ自身が、そこに立って私に腕を回していた。

いわゆる、ばっくはぐ、というやつ。

その麗しい顔が私の顔を覗き込み、藍色の髪がかすかに揺れる。

「本当はあかねのお家の前辺りで登場しようかと思ってたんだけど。あまりにもあかねが可愛すぎて、無理。ほんと。あかねの涙は俺だけで独占したい」

「……は？」

「だってほら」

そう言って彼は私に手のひらを見せて来る。

そこにあるのは、見覚えのある鍵、で。

見覚えのありすぎるキーホルダーが付いていて。

それは以前、私が家の鍵に付けていたもの…………で。

……あれ、ということはその鍵は？

「あかねの家、施錠してなかったでしょう？」

「まさか」

「三ヶ月間、あかねのお家の管理は俺がしてたから。俺がいないと家の中入れないよ」

それは、想定外すぎる展開だった。

まさかユラが、私の家の鍵を持っていたなんて、誰が想像出来たというのか？

ということは、だ。

あのぐちゃぐちゃの部屋も、当然とっくの昔に見られていたということじゃないか。

とんでもないことに、私は今の今までですら、ずっと、この人の掌の上で踊らされていたということだ。

彼がいなければ家の中にすら入れなかったということ。

「信じられないんだけど」

「俺があかねを、そんなに簡単に手放すとでも思った？」

「……最初と、言ってる事が違う」

「だってあかねは、俺が欲しいんでしょう？嘘だったの？」

「嘘、じゃ、ないけど……」

だって、オートロックで、あの部屋から出たらもう、戻れないって……ユラが言ってたのに。

だから私があの部屋から出て行ったら、この引きこもりに改めて復讐出来る確率なんて無に等しいと思っていたから、出て行けなかったわけで……。

また目の奥から、涙が溢れだしてくる。

ようやく実感してきた、ユラの体温。

もうこの腕の中には戻ってなんて来れないと思っていたのに、今また私は彼の腕の中にいる。

『出ていくのは自由だけど、そうしたらここはオートロックだから、戻って来れないからね』

『君へ与えるチャンスは、この一度きりだから、よく考えて』

「本気であかねが欲しくなったって言ったの、忘れた？」

「いや、だってそれは……」

「それに俺、追いかけないとは言った覚え、ないよ」

「は……？」

確かに、それは言われてない、けど。

だってチャンスは一度きりって……だからあの部屋を出たらもう、終わりなんだと、思ってて……。

「あかねさん、あかねさん」

手を子招いている綾愛さんに、顔を向ける。

片手を口の横に置いて、こそこそ話をするようなポーズで。

「この人、最初から逃す気なんてなかったんですよ？」

なんて、爆弾発言をする。

逃す気、なんて、なかった……？

それは、でも、いや、選択肢を与えられていたのは、私の方なのに……？

それに私は、実際に今朝、逃げたじゃないか。

どういうこと……？

ぎゅっと、ユラの抱き締める力が強くなる。

「いやだってこの人、そうじゃなければ家になんて招きませんよ。すっごい冷めてるし、他人なんて塵を見るような目で扱ってきますからね？」

「変な入れ知恵しないでくれる？」

「ほら。この温度差ですよ。他人を自分のテリトリーになんて、本来は入れない人なんです」

綾愛さんの言いたいことは、まぁなんとなくわかる。

お姉さんにも佐渡さんにも塩対応だったのは、この目でも見てきたのだから。

だからといって自分だけにこんな対応なんだとも、思ってはいなかったけれど。

「それに例え逃げたとしても、この人の目からは逃げ切れませんよ。どこにいようがすーぐ見つかっちゃいます」

「……なんで？」

「そういうのが彼の仕事であり、私の仕事でもありますから」

仕事って……まさかあの二重扉の中でしている仕事だろうか。

というか、綾愛さんの仕事でもあるって……？

「二人は……同じお仕事……？」

ユラが私の頭をふわりと撫でて、耳元で囁く。

「逃げたあかねに付いてるように、お願いしてたんだよ」

朝、確かにユラは寝息を立てて寝ていた。

いつ、私が居なくなったことに気付いたんだろうか？

それとも前もって、私が家を出ることなんてわかっていたのだろうか……？

「綾愛は、今育ててる後輩の子」

そのフレーズを聴いた時、頭の端に引っかかるものを感じた。

なんだか、聞き覚えのあるフレーズだった。

『今育ててる後輩の子』

それは確か、発作の時にユラの部屋にお邪魔して、佐渡さんと話してる途中で……そう、『茶番』があった時だ。

美人の人がどうのこうのと話していた時に、まだ学生の後輩がいるという話をしていた気がする。

「あの時、佐渡さんと話していた時にでてきた、後輩さん？」

「うん、よく覚えてたね」

学生の子が後輩にいるっていうのが印象的で、なんだか覚えていた。

そういえば『美人さん』とはどうなったのか、まだわからないけれど。

「他にも私の周りに誰か付けてたり、してるの？」

この綾愛さんの他にも、私が気付かないところで誰かが動いていたんだろうか？

そう気になって、ユラに尋ねてみると。

「付けてるというか……もう付いてる、かな」

「は？」

一体、どういう意味なのか？

すると綾愛さんがふと顔を上げて、遠くまで聴こえるように声を上げる。

「もう皆さん下がっていいですよ〜！お疲れ様でしたぁ！！」

綾愛さんがお店側にそう声をかけると、お店にいる人もポツポツと座っていたも、周りにいた人全員が一斉に立ち上がり、去っていく。

なんだこの光景は……？

と思ったけれど、すぐに理解した。

『もう付いてる』とは、こういうことだったのだ。

現在進行形で、私たちの周りに付けていたのだ、不自然にならない程度の人数や、店員さんを。

仕組んでいたのか。

規模が大きすぎるでしょうが。

どういうことだ。

私は驚いて、黙ってその光景を見つめることしか出来なかった。

「あかねさん、ここは人払いを済ませてありますから。セキュリティもうちの管理下にあるので漏洩はしません」

確かにここへ来るまでの人の数は少ないとは思っていたけれど、まさかこういうことになっているとは思いもしていなくて。

フードコートの端っこで爆弾発言かましてても大丈夫だった理由は、そういうことらしい。

「それじゃあ話を戻しましょうか」

ニッコリ笑う綾愛さんは……綾愛さんとユラは、一体何者なのだろうか……。

ごくごく一般人だった私には到底理解の出来ない光景だった。

まだ驚きでいっぱいな私をよそに、話は進行していく。

「私たちの仕事というのは、ネットワークから監視カメラやSNSなどで、人の動きを追うんですけど。佐渡さんに少し聞きましたかね？」

なぜ佐渡さんから聞いた事まであなたが知っているのか？？？

二人で話したことはユラにすら秘密なんじゃなかったっけ？

私の記憶違いだろうか？

そんな眼差しでユラを見ると。

「あぁ、ごめんね。その話聞かせるように仕向けたの、俺なの」

「……は？」

にっこり、満面の笑みでまた衝撃的な話をする、ユラ。

あの秘密の空間すら、仕向けられていたこと、だったと……？

え、じゃああの電話番号は？名刺は？

私は何のためにそんな情報を与えられたの……？

ユラの謎がさらに深まる。

「その話もそうですね、誘導は彼の得意分野です」

「誘導……」

そうだ、彼は洗脳ではなく、人を自分の思う通りの方向に誘導するのが得意と言っていた。

最初の頃からずっとそうだった。

つまり、今の今までずっと、自分の意思で選択していたと思っていたことは、またこの男に誘導されていたことだった……？

彼の毒気の欠片も見せないような爽やかな笑みを眺めながら、なんてさらっとエグいことをしてくる奴なのかと、驚きを通り越してもはや呆れ……尊敬さえ出来そうなレベルだった。

嘘でしょう……もう私のキャパ超えてるわ。

「他にも人脈を使ったり拷問尋問、売買の動きから情報収集したり売ったり、復讐のお手伝いなんかもしているのが、私たちの組織ですね」

驚きが既に私の常識を超えすぎていて、もはやもうこれ以上驚きも出来なかった。

そんな物騒な世界に、ユラはいたのか。

というか、この綾愛さんも……。

けれどひとつ、引っかかることがあった。

そういえば、私が落ちようとしていた歩道橋は、家のすぐ近くだったのだ。

「ユラって……家の中でずっと仕事してるの？」

ユラを見上げると、「ん？」といつものふわりとした笑顔を返してくれる。

ここから私の家まで、30分はある距離だ。

ユラがずっと家の中で仕事をしていたのなら、なぜ、あの日……。

「ユラが私を歩道橋で助けられたのって、どういうこと？」

だって、ユラの家から私の家までは、すぐに駆け付けられる距離では、ないのだ。

ユラが家で仕事してたのなら尚更、うちの近くにいた理由がわからない。

けれどあの日、私を助けたのはユラ自身。

家で仕事をしていたのなら、物理的に助けることは不可能な距離だったのに、彼は歩行者しか歩けないはずの歩道橋の上にいた。

そこで落ちようとしていた私を助けられた理由が、わからない。

「あぁ、それはね」

隣の席から椅子を引っ張って、私の隣に座る、ユラ。

彼の瞳は、変わらず優しく私を見つめていた。

「結論から言うと、あかねがそのうち死ぬ気なんじゃないかと思って、様子を近くで見ていたんだよ」

「え……？」

ユラが……私の様子を見ていた？

出会う前、から？

ユラはまた、私の頭をふわりと撫でてから、冷えた指先に指を絡ませてくる。

ココアはすっかり、冷めてきっていた。

「私を……見ていたの？会う前から？」

「あかねは必死で気付かなかったのかもしれないけど、君の暴れた音は周りにもかなり響いていた。でもあかねが身篭っていて、歩道橋から落とされたことも救急搬送されたことも、周りに住んでいた人達は知っていたんだよ」

「……ッ」

──音

そうだ、アパートに住んでいる限り、机をひっくり返すようなあんな大きな音が漏れ出さないはずがない。

それなのに誰も訪ねては来なかった。

怒られもしなかった、苦情も来なかった。

それを不思議だとすら思える程の余裕も、持ち合わせていなかった。

「だから俺も、あかねの危うさに気付けた」

私が、死にそう、だったから……？

それであの近くに……ずっと、ユラはいたの？

私が『あの子』を失ってからユラに出会うまで、何週間ああして暴れては悲しみにくれて寝込んでいただろうか。

食べ物もまともに食べられず、数日に一度買いに外へ出るものの、食欲もわかず、ゼリーばかり買って。

その帰り道に、『今車道に出たら』とか、『歩道橋から落ちたら』とか、『川に身を投げたら』とか、何度頭の中を過ぎったか数え切れない。

……その間も、ずっとユラは近くにいたということ？

「あかねはあの日、部屋を勢いよく飛び出して行ったよね」

あの時の衝動も、他の誰かが見ていたということ。

「心配はしていても、周りの人もなかなか声はかけられないものだから。もし異変に気付いたら教えて欲しいことだけ伝えて、その近くで待機してたんだよ」

この人の、こんな……見えないところで見守っていてくれていたような人の、どこが『冷めた人』だと言えるのだろうか。

私の知らなかったところまで、こんなにサポートしてくれていた人。

誰も手を差し伸べられない相手を、嘘をついてまで誘導して生かそうとしてくれた人。

「なんで、そこまで……」

ただの他人にそこまでのこと、普通は出来ない。

だって本当に、私たちはあの歩道橋で初めて顔を合わせたのだから、ユラなら余計に情も何もなかったはず。

「……あの頃は、ターゲットが君を突き落としたことが想定外で、それを止められなかった自分が悔しかったんだよ」

「ターゲットって……私の『加害者』？」

「そう。君の加害者であり、俺のターゲットだった人。それまでは詐欺被害で追っていたから、他人に加害することまでは想定していなかったんだ」

ユラの想定していなかった事が、起きた。

私を突き落としたこと、その予測が出来なかったこと。

それを……ずっと気にしてきいてたのだろうか。

「それは……ユラが悪かったわけじゃない、でしょ」

「それでも、なんの罪もない命が奪われた。俺が監視していたのに」

「ユラが責められることじゃない」

「あれが防げていれば、あかねは……あんなに自暴自棄にならなかったはずでしょう？」

あぁ、もう、この人は。

だからあの時、その罪悪感から、私を助けようと思っていたのだろうか。

「ユラは、まだその時のこと……自分が悪かったと、思ってるの？」

あんなに、自分を責めすぎるなと言っていた人でも、こんなに自分を責めている。

加害者でもなんでもなかったユラ。

私の感情の逃げ道を、命懸けで作ってくれた、ユラ。

「頭ではわかっていても、後悔から完全に逃げることは、難しいからね」

彼の笑顔は、いつもとは違って苦しそうだった。

苦しそうで、悔しそうで、それでも笑顔を貼り付けようとしているような、悲しい笑みだった。

こんな表情、今まで欠片も見せられたことは無い。

ずっと隠してきたんだろうか？

私のために？

私が不安に、思わないように……？

自分をコントロールできる人でも、罪悪感から完全に立ち直ることは難しいということ。

けれど、その原因が私なのなら、どうにかできるんじゃないだろうか？

「──ユラは、ここまで……私が立ち直れるまで、面倒みてくれた」

私を通して縛られていた鎖から解放してあげられるのは、私だけじゃないだろうか？

「ユラがいなかったら、私は本当に身を滅ぼしていたと思う」

「……」

「果物だって食べられるようになって……寝付くのだって、ユラがいると……。だから、ユラがいてくれたから、私……」

伝わって欲しかった。

ユラと出会えたから、私はこんなにも変われたんだということ。

ユラの張ってきた罠に尽（ことごと）く足を取られて、引き上げられて、救われてきたこと。

たくさん騙されたと思ってきたけど、それもみんな私の為だったんでしょう……？

「……あかね」

「ユラがいてくれたから、あんなに苦しくて死にたくなるようなことがあっても、生きていたいと思えるようになった」

他の誰でもない、ユラのおかげだから。

「ユラがユラを責めることを、私は許さない」

彼が私に優しく諭してくれたように。

私の罪悪感を、軽くしてくれたように。

私も彼の心を、楽にさせてあげたい。

この三ヶ月は、私だけが苦しんで、苦しみから解き放たれる話ではなかった。

ユラもまた想定外のことに巻き込まれて、苦しんで、それでもどちらも崩れ落ちないように、バランスを保ったまま、苦しみの中にいた。

今度は、私がその呪いを解いてあげる番だ。

「ユラも……一緒に復讐しよう？」

彼も苦しんだのなら、彼もそいつに復讐するべきだ。

──幸せに、なるべきだ。

こんなに私によくしてくれた人が、幸せになれないなんて有り得ないから。

だからあなたも一緒に……幸せを見せ付けてやろう？

「……なにそれ、プロポーズ？」

「それ……やっぱり綾愛さんとの話、聴いてたんだ」

ふっと口の端を上げる私に、ユラは頬に口付ける。

不意打ちのキスに驚いて、それから思わずここにいる綾愛さんに視線を移した。

「あ、お気になさらず。ご馳走様です」

「……」

恥ずかしさで両手で顔を覆うと、横から腕が掴まれて阻止される。

「やっぱり、あかねはいいね」

「……なに」

「俺には輝かしい未来なんて似合わないから、斬新なプロポーズがとても好みだったよ。そうだね、一緒に一生涯、復讐しよう」

「だから、そんな……プロポーズとか、じゃ、ないから、ばかじゃないの！！？」

「もう殺せと思わせるくらいの復讐になるだろうね。あぁ、庭に繋いで飼って四六時中見せ付けるのもなかなか……いや、あんなもの可愛がれないな。ペットに失礼か」

「ねぇ、どこまでその妄想膨らませてんの？？？」

脳内お花畑のユラは、私の話なんて全然聴いてくれなかった。

ていうかペット枠って……ユラの妄想の方が私よりずっと物騒だし、私もそんなペットはいらない。

綾愛さんも、笑いが隠せないくらいニヤニヤが漏れている、どうやらこの手の話が大好物のようだ。

大好物だとしてもかなり毒気の強い言葉が羅列しているけれど、これでときめくことなんて出来るのだろうか？

ユラもユラで、よく付き合ってもいない私たちでその妄想が出来たな、逞（たくま）しすぎるでしょう。

その光景を眺めていた私はふと漏れる笑みを隠せなかった。

私は、今後ヘタにユラに復讐の話をすることはやめようと、心に誓った。

「あかねさん、かーわい！」

「俺のセリフ取らないでくれる？あとあかねの貴重な笑顔を勝手に見ないで」

「あんたが両腕掴んでるから隠せないんでしょうが！！離しやがれ！！」

「恥ずかしがってるあかね、可愛すぎて無理」

羞恥心を抉ってくるなこの隠れドS野郎！！

「まぁまぁ一通りイチャつき終えたところで、続きをお話しませんか？まだもう一人の加害者について話せていませんよ？」

「あぁ、そうだった」

掴まれていた両手首からするりと指に絡んで来た指先に目を奪われて、それどころではないけれど。

『もう一人の加害者』というところに、私も反応して綾愛さんに視線を向けた。

この人も、私の事情を色々と知っていたのか。

「あかねの直接的な『加害者』がいたでしょう？あいつの過去の動きを探るのに、あかねの動きも遡ったんだよ」

「私の……？」

あぁ、だから私の家まで知っていたのか……と思ったけれど。

何も関係のない加害者から、私を辿ることなんて出来ないはずだ。

「それって私の知っている人が『加害者』だったってこと？」

これは、私の知らなかった『加害者』の話。

復讐することを……復讐する形を変えたとしても、完全に忘れるなんてことなんてできない。

そこに真実があるのなら、知りたい。

「いや、突き落とした奴があかねと接触したのは、あの歩道橋が初めてだった」

「……は？」

なんで？

じゃあ、私はなんの関係もなかった人に、突き落とされたってこと？

それじゃあ私のことなんて加害者からは辿れなかったはずなんじゃない？

それに、なんの関係もない人に突き落とされて、『あの子』を失ったって、そういうこと……？

また、私の中の怒りの炎が揺らめく。

「その『加害者』とは初めて接触していたけど、別でそいつの依頼者がいた。あかねを加害するように指示した奴が」

「指示……？」

背筋が凍り、手汗が滲む。

嫌な予感が、する。

いや、もう起きていたことは過去なのだ、予感も何も無い、事実なんだろうけど。

私が関わってきた人なんて、本当に極々少数しかいなかったわけで。

その中で私に恨みを持ってるような……しかも他人を使って貶めて来るような汚い手を使う人なんて、限られて、いて。

頭の片隅に、ふと嫌な笑みが過ぎる。

「アイツ、じゃ、ないよね？」

そうは思いたいけれど、ユラが今まで話してきたことと重ねると、わかってしまう。

多分、間違ってはいない。

だってユラは以前、知っているような口振りで、あの男のことを許せないような口振りで、話していたことがあった、から。

『もしキスすらなく奴（・）と関係を持ってたなら、それはそれで腸煮えくり返る思いしただろうなって思って』

『未来のことも考えないで欲望ぶつけて来る事しか能のない奴なんて、ヘドロ被って生ゴミに塗れて野垂れ死ねばいい』

『……あのクズ』

『つまり君の前の男は、自分よがりな勘違い野郎だったっていうことだよ』

それは本当にユラが調べて知っていたことだったから……だからあんなに、感情がこもっていたように、怒ってくれていたんじゃないだろうか。

というか、アイツの話をする時だけ飛び抜けて口が悪かったな、この人。

私はあのクズ男の薄ら笑いを思い浮かべながら、問いかける。

「……元カレ？」

私と、『あの子』から逃げた、クズ野郎。

「残念ながら、正解だよ」

私は奥歯を噛み締めて、その事実を呑み込む。

ギュッと握り締める拳の中、ユラの指先が力みすぎないようにと阻止する。

それを感じて指の力を抜けば、するりとユラの絡まった指が緩やかに握り締めた。

「……だから、『加害者』が『二人』ってこと、か」

「そうだね」

「……クソが」

あのクソ野郎が。

逃げてもまだ、その影を隠してくれない。

アイツの子供でもあったくせに、なんでそんな残酷な事が出来たのか。

母体であった私の体だって、死んでもおかしくなかった状況だったんだぞ。

他人を使って、人を殺そうとしたってことじゃないか。

自分の手を汚す気がないなんて、手口が汚い。

悔しくて悔しくて……頭の奥が痛い、目眩がしそうだ、気持ち悪い。

気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

「あかね」

柔らかく頭を撫でてくれるユラの手が、私の心の中の汚い感情にスっと入ってくるようだった。

その声を聴くだけで、不思議と高ぶった感情が少し、落ち着く。

──なんて思っていたのもつかの間のことだった。

「『加害者』に、会いに行く？」

────は。

「え……？」

私は耳を疑う。

だってそれまでユラは、加害者と私を引き合せるような話をした事がなかったからだ。

確かに、佐渡さんからは少し聞いていた。

佐渡さんのところで『加害者』を預かっていて、私たちが来なければ処分出来ないことを。

『俺らが行くまで生かしといてーっていうから。使えないし早く処分したいんだけど、特別に取っといてるわけ』

『だから、君の『何か』をゆーは待ってるんだよ。その後『加害者』に接触する予定だから、俺らんとこであの二人を処分できない』

「ユラ……？」

「なに？」

私の『何か』を、ユラは待っていたこと。

「奴らに会いに行く『条件』を、私は何か満たしたの……？」

それまで、ユラ自身から『加害者』に会いに行く話なんて、出されたことがなかった。

その曖昧すぎるヒントを、佐渡さんから受け取っただけで、なにもわからなかった。

けれど今聞いたことが、聞き間違いでなければ……。

「うん、そうだね。佐渡が話してた通り、俺が決めていたラインがあったよ」

「なに、どれ？私何したの？条件てなんだったの？」

私が家を出るまでに、既に何か条件を満たしていたのだろうか。

手紙？日記？……襲ったこと？一緒に寝てたこと？

それ以外何もなかったんだけど。

他には期間的なことか、気持ち的な変化とか……。

それとも家を出た後に、何かした……？

家を出たことそのもの、とか……？

ユラに真っ直ぐ視線を合わせると、いつものようにふわりとした笑みを返してくれる。

「あかねはキッチリ、条件を満たせたよ」

ユラは人差し指を私の目の前で一本立てる。

その人差し指に目を向けると。

「ひとつは、君が俺から離れて自立しようとする気力を持てるまで回復すること」

そう、ゆっくりと説明してくれた。

つまり、あの家を離れることがまず、第一条件だったということだ。

ひとつは……ということは、条件はひとつではなかったということらしい。

すぐに中指も立てたユラが、また口を開く。

──二つ目の条件。

「もうひとつは、綾愛の話を聴いて、それでも復讐を強行しようとするか、否か」

「綾愛さんの、話……」

「あかねは自分の意思で、復讐心に飲み込まれて自滅しない選択肢を選べた。そうでしょう？」

それを聞いて、その結論に導いてくれた綾愛さんに視線を向ける。

彼女はにっこり笑って私達を眺めていた。

あぁ、そういえばさっき、彼女が説明していた時に触れていた話があったじゃないか。

その言葉を、私は思い出す。

『その復讐心に呑み込まれていた人たちは、組織の人の最終警告（・・・・）を蹴ってまで復讐に執着するような人達が多くて、だから周りが見えていないし、復讐に固執している人なんですよ』

組織の人……つまりそれはユラたちのことで、彼らは復讐をする人たちに『最終警告』をしていると話していた。

綾愛さんにとっての警告は、その復讐に固執している人たちを実際に見て、分析することだった。

恐らくこの流れからすると、その綾愛さんに警告した人は……ユラなんじゃないかと、私は考えているけれど。

それが、私にとっての警告に当たるのが、この綾愛さんから聞いた話、だったんじゃないだろうか。

あの話は、私への警告だった。

私が私を見失わないように、私が復讐の沼にハマって、我を忘れて抜け出せなくなる前に。

ユラが私の判断能力が戻るまでの面倒を見て、それから綾愛さんが、本当に私にはその道しか残されていないのか、改めて考え直させるきっかけを与えてくれた。

聞いた話より随分と優しい警告だった気がするけれど。

「綾愛さん」

「はい」

「あり、がとう」

「いえいえ」

ありがとう、泥沼にはまって抜け出せなくなる手前で、私のことを止めてくれて。

「……ユラ、も」

「うん。あとでたっぷりお礼貰うから、俺はいいよ」

「……」

ユラの言う『お礼』がなんなのか、少し怖い気はしたけれど、ユラならいいかと思ってしまっている自分は、随分とこの男の沼に嵌（はま）り込んでいるようだ。

滑らかな動きで手の甲を撫でる彼の指にまた、意識が持っていかれそうになる。

流されている場合ではない、と綾愛さんに向き合う。

「私、綾愛さんからのお話を聞けなかったら、このまま……『あの子』の望まないことをしていたかもしれない」

「はい」

「止めてくれて、ありがとう」

「違いますよ、あかねさん」

違う、と言う綾愛さんに、私は首を傾げる。

止めてくれたのは他でもない綾愛さんだと、思っていたのに。

「私は過去の自分のお話をしただけです。それを聞いて復讐の手段を変えようとしたのは、他でもないあかねさん自身ですよ」

──あぁ、そうか。

あの話に確かに強制力はなかったし、私がそれでも『加害者』自身に復讐したいと言えば、止められていなかったのかもしれない。

選んで、その答えを掴み取ったのは私自身だと、そう言いたいのだろう。

もしそれでも復讐を強行すると言った場合、ユラとの関係がどうなっていたのか……考えるだけで背筋が凍るようだけれど。

私は、今持った選択をもう変えることは、考えていなかった。

あの子の為に、私は自分を滅ぼさないように、生きていかないといけないと、わかったから。

今まで自分を粗末に扱っていたから、復讐の見返りなんて怖く感じなかったのかもしれない。

けれど今はもう、私の中にはユラがいて、『あの子』の悲しむことを母として、してはいけないという想いが芽生えていて。

だからもう、大事な人を悲しませないように、復讐から手を引くことができた。

──願うならば、まだしばらくは、ユラと一緒の時間を過ごしていたい。

「私の復讐に誘ったのは、私があかねさんと仲良くなりたかったからです」

「綾愛さん……」

なんて、なんていい子なの……。

私が綾愛さんのその優しさに感動していると、ふとユラの指が頬をぷにっとさした。

……この男は一体、何をしているのか。

「なに」

「俺以外にそんな目向けないで」

いつものゆるりとした笑みが消えたその表情を、視界の端に映す。

ちょっと胸の奥がキュッとしてしまったではないか、なんだそれ可愛いな。

「ユラ先輩嫉妬ですかぁ？」

「あかねが敬愛の念を抱くのは俺だけで十分だからね」

「敬愛なんてした記憶一度たりともないんだけど」

なんて口では言うけれど、確かに尊敬くらいなら何度か覚えがあってしまっているし、同じくらい呆れたり残念がったりする一面も見てきてはいる。

なんというかこの人は、頭のいい馬鹿なのだ。

それでいて深く深く相手を想って先読みして動いてくれることを、私は知っている。

悔しいから、口になんて、出してやらないけれど。

「手の甲は？」

「あれはユラがやらせたんだからカウントに入んないでしょ」

こんなところで手の甲にキスしたことを掘り返さないで欲しい。

「お二人が随分と仲を深めていたことは喜ばしいことなのですが、そろそろ場所を移動しませんか？」

そう綾愛さんが言葉にすると、立ち上がったユラが私の手を引く。

「そうだね。じゃあそろそろ行こうか」

そう口にした彼の手元には、私の見慣れていた鍵に付いたキーホルダーが揺れていた。