壊し愛（統合版）

4．🚇👢🎚

そうか、入れるだけがその行為の全てではないのか。

彼の腕の中で微睡みから覚める中、私は意識を失う前のことを思い出していた。

結局、ユラを気持ちよくさせられるようなことは出来ていなかったように思う。

それでユラは満足なのだろうか？

このまま離れていいのだろうか？

彼の眠っている顔を眺めながら、心に問いかけるけれど、答えは出なかった。

私の体に巻きついていた彼の腕をそっと外し、布団から抜け出す。

彼の眠る姿を数秒拝んでから、部屋を後にした。

お風呂に入ってから体をさっと流して着替えを始める。

ユラが起きてしまう前に、出てしまいたい。

夜が近付けば行動範囲が狭まってしまうし、現在地が家からどのくらい離れているのかもわからない。

窓からは電車が見えていたから、そちらの方向へ行けば最寄り駅くらいは探せるだろう……お金がないという問題は残るけれど。

最悪、歩いて帰るとか、人を頼るとか……しなければならなくなるかもしれない。

ユラのお金を借りるということは、頭にはない。

だってもう、会えないことを覚悟して、出ていくのだから。

私が返すのは、あの電子書籍代の残りだけで済ませたい。

クローゼットにあった服や下着は、お姉さんが用意してくれていたものだった。

洗濯物として出したものは、いつの間にか洗って畳まれて、ユラから再び受け取る。

ユラが洗濯機を回している姿も洗濯物を干している姿も見たことがなかったから、外部にお願いしていたのかもしれない。

薬の袋とメモした手紙一枚を持ち、三ヶ月間お世話になった部屋に、さよならをした。

机の上には、ユラとお姉さんへの感謝の手紙と、電子書籍の端末を置いて。

この家に初めて来た時の服装に、一枚だけ上着をお借りして、この家の扉を初めて内側から開いた。

オートロックの部屋、この扉が閉まればもう……後戻りは、出来ない。

冬も近付く季節の朝は、晴れているといっても思っていた以上に肌寒くて。

これは、家に帰るまでに死ぬかもしれない……そんなことを頭の隅で考えつつも、エレベーターへと足を進めた。

エレベーターを降り、広いエントランスを抜けて、自動ドアから外へと出た。

寝不足の私に、眩しい太陽の光が降り注ぎ、目を細める。

目指すは、まずは駅方面……電車の音がする方向へと、冷える足を進めた。

予定通り、電車の音を頼りに向かった道の先には線路があり、線路脇の道に沿って歩みを進めた。

全身が寒さで震えて早足になっていたから、息切れていて、腹の横に痛みも感じた。

けれど歩みを止めるわけにはいかない。

もう外へと出てしまった私は、引き返せないのだ。

駅に着いて確認すれば、自宅の最寄り駅まで電車で30分程の距離があった。

五駅分ほど先に見える見慣れた駅名が、こんなに遠く感じることは今までなかった。

歩いて帰れる距離ではない。

かといって前払いである電車に乗って帰ることも出来ない。

後払いのタクシーを呼んで、家の前で支払いを待って貰うか……？

家に泥棒が入っていなければ、という問題はあるけれど。

もし家に放置したままの財布を盗られていたら、そこで私の全てが詰む気がする。

この街へは、ユラが乗っていた車で一緒に来ていた。

真っ黒の車で、フルスモークで、運転手さんがいて。

無言だったか、ぼーっとしてたのか、無音の車内に揺られていたらすぐに着いた気がしていたから、もう少し家から近いと思っていたのに。

私がぼーっとし過ぎて、時間感覚がおかしくなっていただけのようだ。

はぁ、とため息をついて、まずは自分の体を温めないといけないな、と駅の周りを見回す。

あ、飲み物を貰ってくるのを忘れた。

凍死する前に先に干からびるかもしれない。

なんて、線路図を見て考えていた時だった。

「あのー、なにかお困りですかぁ？」

突然背後から声をかけられて、大きく体が跳ねたのだ。

「あははっ！背後にキュウリ置いた時の猫みたいな反応ですねぇ」

「？？？」

バクバクと嫌な音を立てる心臓に胸元をキュッと握り締めて、振り返る。

その子は、高校生くらいの子で、背丈は私よりも少し低くて、コートにマフラーをした、オレンジがかった茶髪の、可愛らしい女の子だった。

「……えーと」

「お姉さん寒そ〜！これどうぞ」

その子はポケットから缶を出すと、私に差し出してくれた。

ココア、だった。

思い出すのは、ユラが淹れてくれる、ココア。

私の心を暖かく包み込んでくれる、何よりも美味しく感じるような濃厚な、眠気を誘うココア。

それを無意識に受け取る、けれど。

「あ、あつ！あつい！」

「買ったばっかりだったのでまだ熱かったですかねぇ？」

一旦彼女が缶を持ち、私の上着のポケットに入れてくれる。

手が凍えるくらい冷えていた私にとって、その熱さは火傷するんじゃないかってくらいのレベルに感じで、飲めるのは少し経ってからかな、と思った。

「あの、ごめんなさい……ありがとう」

「いいえ〜ココアくらい全然ですよぅ！お姉さんとりあえずあのビル行きません？フードコートあるのでそこでひとまず温まりましょう？」

優しく導いてくれるその声や仕草に、不安になっていた心がふっと温まる。

案内してもらった先は、小さいショッピングモールだった。

通勤ラッシュも過ぎた時間帯は人がまばらで、ショッピングモール内も人が少なかった。

おそらく年下の子……が、こんなに頼りになるなんて、なんて情けない大人になったことだろう。

そう、気を落としていると。

「お姉さん、なにかありました？人には言えない話とかです？」

この子も、優しい言葉をかけてくれる。

冷えた心に、そんな暖かい言葉をかけられてしまったら、目が潤んできてしまったじゃないか。

ダメだなぁ、人の優しさに慣れていないから……。

「……お姉さん、お話聴かせてください。困ってることがあったら人を頼ることを遠慮しちゃダメですよ！年下で頼り甲斐はないかもしれないけど」

「そんな、こと……」

「頼られることの方が嬉しいんですから、私を喜ばせるために頼ってくださいよ！」

なんて、明るくて、いい子なんだろう。

出会ったばかりなのに、こんな私に、優しくしてくれるなんて……。

建物の中に案内されていくと、広いフードコートが見えてくる。

人は少なくて、席の空きもたくさんあった。

その端の席まで、手を引いて導いてくれた。

私が育ってきた環境とは全く違う世界のような、最近は暖かな心の人ばかりに会っている気がする。

それだけで一生の運が使われてしまっているんじゃないだろうか。

「ごめん、なさい」

私に、貴重な時間を割いてくれて。

駅にいたのなら、この子もどこかに出掛ける予定とか、あったのかもしれないのに。

……というか、今日は休日だっただろうか……？

「学校、とかは……？大丈夫なの？」

そう聞くと、彼女は苦笑いで視線を外していて。

あ、これもしかしてサボりの子だったのかな、と、少し気まずい雰囲気になってしまった。

事情はこの子にも、あるのかもしれない。

「あ、そうだ、お姉さんお名前は？私は綾愛（あやめ）って言うんですけど。どう呼んだらいいでしょう？」

にっこり、笑って聞いてくれるそんな彼女に、私も少し心が開き始めていた。

この子、話しやすいな。

「あかねっていうの」

「あかねさん！頭文字一緒ですね！」

「本当だ、ふふっ」

人懐っこいこの子にすっかり馴染んでいて、私は先程貰ったココアを取り出した。

「ココア、本当にありがとう。私好きなの」

「ココアいいですよねぇ！私も缶のココア濃厚で好きなんですよぅ！駅前の自販機ってコロコロ種類変わるんで、よく見に行くんですよねぇ」

「確かに。新商品とか、多いかも」

「スープとかまで売ってますもんねぇ！」

そんな雑談を楽しくさせて貰っていた。

気遣い屋さんでもあるのかもしれない。

その明るい雰囲気のまま、彼女はそれを切り出す。

「駅にいたのは、どこか行きたかったからですか？」

私の、今直面している、問題を。

頼ってください、とまで言われてしまった私には、もう話さないという選択肢はなかった。

迷惑をかけるんじゃないかと、一瞬考えたけれど。

ユラに教えて貰った考え方に慣れ始めていた私は、これを言葉のままに受け取ることをしたいと、思えていた。

迷惑と思うのは、『推察』であって、この子の言葉じゃない。

「私、家に帰ろうとしてたの」

口をついて出て来る言葉は、一見すると当たり前のような言葉。

ただ、この先のことを考えると、不安で視線が落ちていく。

「家を……三ヶ月くらい出ていて、他の人の家に今まで、いて」

「家出したんですか？」

「い、家出？？」

「あれ、違います？お家に御家族とかいらっしゃるんですか？」

「いえ、元々一人……暮らし、で」

一人暮らし、とは、本当は言いたくなかった。

1年前はあのクズも一緒に住んでいたし、あのクズが逃げた後も、私には『あの子』がいたし。

二人暮しだった……と、思いたかった。

けれど、結局私は、一人になった。

「じゃあお家のお迎えとかも頼れないんですねぇ。電話ならあるんですけど」

電話……あ。

「電話？借りることって、出来る？」

「全然いいですよ！誰か宛があるんです？」

「えぇと……ちょっとかけたことないから、出てくれるのかも分からない人が、一人」

「微妙すぎますね」

佐渡さんの電話番号を必死になって覚えた記憶は、まだ半月ほど前のことだ。

間違って覚えていなければ、かけられるはず。

出てくれるのかはわからないし、助けてくれるかも……わからない。

あの人、色々と特殊すぎる人だから、何を考えてどこまでサポートしてくれるのかも、読めない。

「まぁ私も車を待っていてここにいるので、一緒に拾ってもらう事も可能……というか、お姉さんとは仲良くしたいのでぜひぜひ一緒に車、乗って欲しいのですが！」

「えぇ、と……方向次第、かな。あんまり遠回りさせちゃうと、迷惑になるし……」

「こっから西に30分くらいですよぅ！」

方向が完璧に一致してしまった件。

「……えぇと、じゃあ車……お願いしてもいい？」

そうして、私は自宅まで乗せて頂けることになった。

有り難すぎるお話だし、運が良すぎて今日死ぬんじゃないかと、少し恐ろしくもなる。

まだ時間がかかるようで、もう少しお話していたいと彼女が言ってくれたおかげで、私はもう少し自分の話をすることになる。

「えー、三ヶ月もお家を出られて、その人のお家にいたのに、帰りはなんの支援も無しでポイですか？有り得なすぎません？」

「いや、勝手に出てきたのは私の方だから」

「急にお家出てきちゃったんですか！なにかありました？それともその三ヶ月に関する事です？」

綾愛さんは、心配そうに眉を寄せて、親身に聞いてくれようとしている。

初めて会った人に対してなのに、すごいなぁ。

「どう説明したらいいんだろう……。目的があってその家に行ったんだけど、本当はその目的はそこにはなかった、というか……」

「うぅん、難しいお話ですね」

話すか、話さないか、迷う。

今日初めて会った子に話すような内容でも無い気もするし、けれどそれだと駅前で立ち尽くしていた事に説明がつけられないし……。

今まで、私の中の『あの子』の話とか、ユラにさえも、話したことは無かった。

それは彼が事情を知っていたからというのもあるし、男の人には分からない気持ちだと思っていたから、でも、ある。

でもユラのお姉さんにも話してこなかった話。

ううん、私はこの話を口に出して、過去にすることが嫌だったのかも、しれない。

もう、過去でしかない、その話。

その過去に、縋っていたかった私、過去を切り離せない、私。

高校生相手に、重い話になってしまうだろうか？

けれど、この子は真剣な瞳を向けて、聞いてくれようとしている。

こんな私と、向き合おうとしてくれている。

「話しにくいことです？」

「……少し。まだ過去の整理が、ついてなくて」

「それ、頭の中から出さないから整理付かないんじゃないでしょうか？」

頭の中から、出さないから……？

そう言えばユラも、そんな感じて日記を勧めてきていたような気がする……。

「えぇと、例えば私、お兄ちゃん大大大好きなんですけど」

「……えぇ？」

突然のカミングアウトにお姉さんはびっくりしたよ。

大大大好き、なのか、そうか、ちょっとドキドキしてしまう。

仲がいい兄妹なのかな？

「お兄ちゃん、全然私に触ってくれないし、つんつんしてるんですよぅ！！つれないんです！！」

「そ、そうなの……？」

仲いい、のか？これはいいのか？？？

「ただ、その原因も知っているので、無理させる気もないんです。けれど私の欲求不満は募っていくばかりです」

「え、えぇと……」

「私は、お兄ちゃんが、大大大大大好きなんですから」

眼が、ハンターのような鋭い瞳になっていて、少し気が引けた。

そのお兄ちゃん、大丈夫なんだろうか、愛されすぎて潰されてないだろうか。

大の字も増えてるし。

「この溢れんばかりの思いを、私はオープンにしています。話したい時にめちゃくちゃ話します。それは、話さなくて後悔したことがあったからです」

「後悔……？」

「実は私、お兄ちゃんのそのツンツンの原因に復讐しようとしたことがあるんですけど」

「………………。えっ！？」

まさか過ぎて口に含んだココアを吹き出しそうになった。

復讐？え、私と同じじゃないか？？

「だって、その人のせいでお兄ちゃん、人間不信になって、私にすらも向き合ってくれなくなったんですから。それはもう地獄の果てまで追い詰めて後悔し切れない程後悔させてから殺したいレベルの殺意しか湧きませんよ。ねぇ？そう思いません？」

ムッとした可愛い顔を向けているけれど、話している内容はかなり過激である。

後悔させた上で許さないらしい、すごい。

そうか、お兄さんが人間不信に……なんだか私と重なるところが多いな、お兄さん。

「それで、実行するべく組織に依頼しようとしたんですけど──」

「……組織？」

「え？はい、組織です。お金で動いてくれます」

まって、それガチのやつでは？

頭の片隅に思い浮かぶのは、佐渡さん。

『拷問』なんて、現実的じゃないことを職業としているらしい、可愛い顔の佐渡さん。

まさか組織って佐渡さんと繋がってる所じゃ……細かいことは知らないから、わからないけれど。

というかこの子、ガチの復讐考える程お兄さん好きなのか……それ、大丈夫なやつ？禁断じゃない？

「それくらい憎んでいたんですけど、その組織の人に提案されたんですよね。『復讐』してる人を実際見てみるか？って」

「……まさか、見てきたの？」

「あ、はい。凄かったですよぅ……眼が血走ってて、どっちが悪人なのかわからなくなりましたもん」

それを聞いて、思った。

人のこと言えないようなこと、私もして来ていたんだよなぁ、と。

というか目が血走ってるくらい危ない人をどうやって見て来たのか気になる所である。

私がユラに刃を向けていたのは二ヶ月半程、だったと思う。

ユラは実際、本当は『加害者』でもなんでもなかったのだから、どちらかといえば私の方が絶対的に悪人だった。

衝動のままに、本気で殺しにかかっていたのだから。

ただその衝動も、最近ようやく落ち着いてきている。

「その復讐する人たちって、自分で自分を止められなかった人達だったんですよね。計画的にというよりは、衝動的な人が多かったように思います」

「まって、『復讐する人たち』ってことは、そんな人を何人も見たの？」

「はい、何人も見せてもらって、比較や分析もその人としましたねぇ」

分析って……復讐する人の？

今まで聞いた話の中で圧倒的に現実離れしている話を聞いて、私はこんなフードコートの片隅でこんな爆弾発言を聞いてて本当にいいのだろうか、と、我に返っていた。

「強すぎる思いは、吐き出さないと自分の心を蝕んで行くんですよ」

「心を、蝕む……？」

「それが楽しいことでも、辛かったことでも、心が抱えられる容量を越えたら耐えきれなくなって、体も壊れちゃいます」

……この子はお兄さんのことで、そんなにも苦しい思いをしたのだろうか。

愛が重すぎて体も壊す、なんて、私には想像もつかないけれど……私も同じようなものなのかもしれない。

『あの子』に関することで、心を病ませているのは、否定出来ないし、それも愛といえば愛のせいなのだ。

「心と体は、繋がっているんです」

私より年下であろうその子は、私よりずっと泥沼のような世界に、一歩踏み入れているようだった。

「その復讐心に呑み込まれていた人たちは、組織の人の最終警告を蹴ってまで復讐に執着するような人達が多くて、だから周りが見えていないし、復讐に固執している人なんですよ。慈悲なんてない組織なのでお金さえ貰えれば復讐にも手を貸すんです」

「……そう、なの」

私の中でのその組織像が悪よりも極悪なイメージで構築されていく。

あの可愛い顔の佐渡さんやユラも、そこに近いような位置にいるんだろうか……知るのが少し怖い。

「だから、復讐を終えたその人たちは、中身が空っぽになっていました」

中身が、空っぽ？

復讐を終えたら……そういえば、私ももしユラを殺せていたら──その後どうする気でいたんだろうか。

なにも考えていなかったように思う。

逮捕はされるだろうな、とか、でも復讐を終えたら何もかもどうでもいいと思うだろうから……死を選んでいてもおかしくなかったかもしれない。

復讐しか見えていなかったから？

復讐に、固執していたから……。

そう考えると私の中身も、復讐以外は空っぽだった。

「復讐を終えたら、自殺する方もいました。罪悪感や後悔からは逃げられないのか、生きる意味を終えてしまったからなのか」

他人事ではない、もしかしたら起きていたかもしれない、もう一つの私の道。

当事者だとわからなかったけれど、こうして他人から客観的な意見を聞かされると、酷く歪んでいて背筋がゾッとする。

これが、私のしようとしていた『復讐』なのだ。

「それを見ていて、私も復讐に燃えていた心を後悔しました。あぁはなりたくない。相手を滅ぼす前に自分の心が滅びてしまう」

どれだけ壮絶な体験をしてきたのだろうか。

話を聞いているだけの私にも、想像が出来てしまう。

罪悪感や後悔……それで身を滅ぼす人達が、実際に居たという現実。

空っぽな心、埋められない……心。

「強すぎる私のお兄ちゃん愛に、後悔するのに十分な情報を与えられました。その後、その組織の人にお兄ちゃんのことを話したんです」

この子は本当に……お兄さんのことが、本当に好きで。

そして悪になりきれないくらい、優しい心を持っていて。

この歳なのに、信じられないような体験をしてきていて。

出会った頃の明るい印象が嘘かと思うくらいの、闇を抱えていた頃があったんだ。

胸の奥が、ツキンと痛む。

綾愛さんがこんなに闇に塗れた話をしてくれた、その気持ちを、私は無駄になんて出来ない。

復讐するという決意が、揺らぎ始める。

私は本当に、このまま復讐を実行に移していいのだろうか。

今ならまだ……止まれるんじゃないだろうか。

ユラよりも復讐を選んで、あの暖かかった家を出てきたのに？

佐渡さんに連絡を繋げられれば、すぐにでも『加害者』と接触することが叶うだろう。

『二人』いるらしい、大切なあの子を殺（あや）めた憎たらしい『加害者』。

けれど本当にこの復讐を実行することで私の、『あの子』の、心が晴れるのか？

わからなく、なった。

そこに、正解はない。

あるのはこれからの選択肢のみ。

「復讐の実態を見せてくれていた組織の方に、お兄ちゃんの話を一通り話しました。話すというか、ぶちまけていました。悔しさとかあんなに優しい兄になぜ？とか、理不尽な世の中に絶望した悲しみを、その人に聴いてもらったんです」

へへっと笑う彼女は、目が少し赤くなって潤んでいて。

きっと悔しい気持ちは今も強く残っているだろうことがわかる。

「気持ちを吐き出して、泣き叫んで、それを受け止めてもらって。それから教えて頂きました」

「教えて頂いた？」

「はい。私を含めて誰にも害はなく、けれど加害者には確実にダメージを与えられる、魔法のような提案でした」

ごくり、思いもしなかった方法が存在することを知り、唾を飲む。

本当にそんな方法がこの世にあるのだろうか？

害はないのに加害者にだけ、ダメージを与えられる……？

自分を犠牲にしなくても、復讐できる……？

「……そんなこと、本当に出来るの？」

「出来ますよ」

なんてことないように、彼女は笑う。

「嫌なことしてくる人は、その人自身が不幸な人生を歩んでいるんです。他人を妬んで幸せな人を貶めて、優越感に浸りたくて、加害行為に至るんです。幸せな人なら、他人を落とす必要はありませんから」

幸せな人を、貶めたくて……？

「だから幸せになって見せ付けるのが、相手に対して一番の復讐になる」

そう話して顔を上げた彼女の顔は、最初の頃のようの明るさに戻っていた。

「せっかく不幸に貶めた相手が、心の底から幸せになっていた。ってことほど、屈辱的なことってないと思いません？」

イタズラする子供のような笑みを作る彼女は言う。

「だから見せびらかしてやりましょう」、と。

「復讐する労力と時間をそんな底辺で意地汚い奴のために使うくらいなら、自分が幸せになって見せつけた方が建設的なんだそうです」

綾愛さんは、指を両手で擦りながら、口の端にキュッと力を込める。

「私もそう思いました。悔しさはまだ残ってますけど、納得しました。だから私の復讐は、お兄ちゃんを幸せにすることで果たされるんです」

悔しさを噛み締めて、それでも笑っている彼女は、私の見てきた誰よりも輝いて見えた。

そんな彼女の話に圧倒されて、この子は強いなぁと、こんな風に私もなれるだろうかと、心の内に問い掛けた。

心の強さに、年齢なんて関係ないようだ。

「お姉さんはこの話を聞いて、どう思いました？」

ニヤッと笑う彼女は、まるで私のことを知っていたかのように、ピンポイントで似たような話をしてきていて。

けれど私の事なんて知っているはずもないから、重い話でも話しやすくなるように、話してくれたのかなぁと感じていた。

彼女が何を思ってその話をしてくれたのかは、わからないけれど。

「私も、復讐しようとしてたの」

私も、この人になら聴いて欲しいと、思った。

そして初めて、自分の口から、その話をする。

緊張で心臓が痛くなり、手汗が吹き出る。

怖い、けれどこの人は私に近い経験を持っているから、大丈夫だと思えた。

自分の中で重要な本心を曝け出す時は、こんなに声が震えるものなのかと、またひとつ自分を知った。

「私、子供がいたの」

柔く、手馴れたように、いつものように、腹部を撫でた。

もう癖になってしまっている動き。

今日、その手は、緊張で震えている。

「お腹の中に、授かっていたの」

愛しい愛しい、私の子供。

まだまだ小さくて、性別もわからなくて、それでも私が初めて心の底から愛したかった、その子。

カタカタと、身体中が震えてくる。

怖いのだ、思い出すのが。

出さないように閉じ込めてきた想いを、他人に聴いてもらうことが。

それでも私は、『あの子』としっかり向き合いたいと思ったから、向き合わないといけないと思ったから。

確かにここに存在していたのだと、私以外の人にも、知ってもらいたかったから。

「でもね、階段から突き落とされちゃって、お腹の中で、亡くなっちゃった、の」

鼻の奥がツンとしてきて、目が潤んでくる。

私が大切に大切にしていた、ずっと大切大切にしていたかった、子供。

これからも大切に大切に育てて行きたいと思っていた未来が、奪われたこと。

私のようにならないように、大事に大事に、愛情込めて育てたかったの。

お金がなくても、私が頑張って稼いで、ごはんをあげて。

楽しい思い出も沢山作ってあげたくて。

暖かな陽の光を浴びて一緒にお散歩出来たら、どんなに幸せだっただろうか。

ちゃんとお母さん出来るかなって不安になることはあるだろうけど、オムツ替えも、ミルクを飲ませるのも、泣いている姿さえもきっと、天使のように可愛くてしょうがないんだろうなって。

産んでから困らないように、育児本も読み始めていて。

男の子でも女の子でも、絶対に可愛がりたいと思った。

ハイハイしたり、座れるようになったり、立ち上がれるようになったり、その度に記念日にしたいなと思っていた。

お喋りを覚えたら、一緒になって沢山お話して、心穏やかな子に育ってほしい。

悲しい時はちゃんと泣いて欲しいし、楽しい時は一緒に楽しく過ごしたい。

感情を殺さずに、すくすくと育っていってほしくて。

お友達も、たくさんはいなくてもいいから、信頼できる人を見付けてほしくて。

ずっと笑っていられるような、家庭で。

例え父親がいなくても、困ったら私がもっといい人を探して、今度こそ暖かい家庭を、その子にだけは、過ごさせてあげたいと、願っていた。

強く強く、そんな将来を、願っていた、のに。

その未来は、前触れもなく奪われた。

「階段を、降りていた時、に……突き落とさ、れて……。亡くなっちゃった。私の最愛の子」

最低限必要なベビーグッズも、少しずつ揃えていた。

真新しくて誰も使っていないベビーグッズが、変わっていなければ、今もあのアパートの中に残っている。

育児本だって、付箋を貼って、何度も読み返していた跡が残っている。

『あの子』が亡くなって、あの部屋でたくさん暴れた。

けれど、あの子が確かにここにいたっていう証にもなるそのグッズには、手を出せなかった。

壁も殴って、テーブルもひっくり返して、壁紙だってハサミでボロボロにして。

でも、赤ちゃんの為を想って買ったそれは……部屋の片隅で綺麗なままだった。

「名前も、まだ、で……呼べなく、て」

どんなに悲しくても、悔しくても、その名前を呼んで、天に届けることすら、出来なかった。

ほろほろと止まらない涙が、ココアを持っていた手の甲に落ちる。

目の奥が熱を持ち、頭が痛い。

けれど心は、そんなものよりもずっとずっと痛い。

「悲しかったんですね」

手を、握ってくれる、暖かい小さな手。

「復讐したいくらいに、悔しかったんですね」

初めて、誰かに吐露した、私の強くて強すぎる後悔。

誰にも、どうにも出来ない、辛くて悔しくて憎くて醜い気持ち。

この人なら、そんな私の気持ちもわかってくれる。

私とこの人は、どこか似たところがある。

悔しすぎて、頭がおかしくなりそうだった。

誰にもこんな気持ち、わかってもらえないと、思ってた。

悔しくて、殺したいくらい憎くて、それでも理性は飛ばせないから、気持ちに振り回されて余計苦しくて。

息が詰まって、死にそうなくらい、いっそ頭が壊れておかしくなってしまえと思うくらい。

そんな狂気的で、理性的でもあった、この気持ちを。

この人はきっと、わかってくれる。

「一緒に、この復讐を、果たしませんか？」

一緒に……ということは、きっと、綾愛さんのお兄さんを幸せにさせることと、私が幸せになるということで。

それはきっと、彼女も幸せになるということ、で。

つまり、私の復讐もまた、私が幸せになって、見せ付けることで果たすことができる……。

「あかねさんは、ここで立ち止まってしまうのが勿体ないです。まだまだ、幸せになれる権利は残っているのですから」

暖かな指で、包み込まれる手。

真っ直ぐに私に向けてくる瞳。

ほろほろと壊れたように流れ落ちる、止められない私の涙。

幸せ……？

「私、が？」

私が、幸せに……？

「むしろ、あかねさんこそ、幸せにならなくちゃいけないと思うんです。だって、お母さんが幸せになれていなかったら、お子さんはきっと悲しいですよ」

「……私の、子、が？」

「はい。私だったらお母さんに、ずっと笑顔で幸せそうでいて欲しいです。そうは思いませんか？」

子供の視点から考えたことは、なかった。

目から鱗、というのは、このことを言うのかもしれない。

確かに……普通は、人を恨んでいるようなお母さんでは、いてほしくない。

自分のお母さんでは想像出来ないけれど……でも、少なくとも怒っていてほしくはない。

そうか、私がしようとしていた復讐は、『あの子』の為だと思いながらも、『あの子』が悲しむようなこと、だったのか。

ストンと落ちてきた、私の中の答え。

私は子供の為に、どうするべきなのか。

そう、本当に子供の為を思うならば……私がここで選ぶべき道はひとつだけ。

「だから、あなたが幸せになることが、復讐でもあり、お子さんへの手向（たむ）けでもあると思うんです」

彼女の指が、優しく私の手を撫でてくれる。

落ち着くように、宥めるように。

震えが、少しずつ小さくなっていく。

肩の力を、ようやく下ろすことができた。

「復讐も手向けも出来ちゃうなんて、一石二鳥じゃないですか！これはもう幸せになる一択しかありませんね！」

そう言って彼女は、楽しそうに笑う。

それを見ている私まで、なんだか元気になりそうで。

この子の言葉は、ユラのように心地よかった。

優しさで丸ごと包んで、本質を突いて導いてくれるような、そんな言葉。

初めて会ったはずなのに、こんなにも心を許している自分がいる。

またこんな、暖かな人に出会えるなんて、思いもしなかった。

世界は思っていた以上に、優しく、暖かな人が多いのかもしれない。

「私……」

「はい」

「……その復讐、する」

「一緒にして頂けるんですか」

「幸せ、から……逃げない」

「ぜひぜひ！一緒に幸せな復讐、果たしてみせましょう」

ボロボロ、ボロボロ、涙が止まらない。

彼女が渡してくれたポケットティッシュが、どんどん湿っていく。

私は今まで、何も見えていなかった。

子供のことも、自分のことすらも。

ようやく初めて、自分の中の正解に辿り着いたような気さえする。

私は……その事に気付くのが、遅かった。

もう、遅すぎた。

ユラ……ゆら、優藍っ。

優藍、優藍、優藍……。

もう、会いたい。

あの暖かな腕の中を手放してしまった。

復讐をなにより優先して、彼を一番に考えられなかった。

まだあなたの全てを貰えていないうちに、出て来てしまった。

すぐに会いたいくらい、私はあなたが、恋しい。

私は優藍さえいればきっと、ずっと幸せでいられそうな気がするのだから。

そうしたらこの復讐だってきっと、すぐに果たせる。

ありがとう、ごめんなさい、気付くのが遅くなってしまって、ごめんなさい。

一番に考えられていなくて、ごめんなさい。

「……優藍」

私は涙を拭いているボロボロの視界の中で、彼の名前を呟いた。

私の、愛しくて愛しくて、たまらない──。

「なぁに？あかね」

ふわりと、背中から回ってきた腕に、その声に。

私は信じられなくて、目を見開いた。