壊し愛（統合版）

5．🍇🖼

私は不眠症で

昔からカフェインにも弱い方で

楽しみなことのある前日でもよく眠れなくなったりもしていて

不安がある時も、よく眠れない日々を送って来ていた。

けれど

この男から貰うココアを飲んだ時だけは

とてもとても心地よく、深い眠りにつける

不思議――

目が覚めると、部屋は真っ暗だった。

夜……？

すっきりとした頭で時計の明かりを付ければ、三時を指していたので、今は夜中の三時なのだろう。

よく寝た、けれど、寝る前後の記憶がほとんどない。

なぜ不眠症の私がこんなに眠れたのだろうか……あぁ、確かあのココアを飲んだんだ。

いつもあのココアを飲むと、まどろんで気持ちよくなって、よく眠れるんだ。

彼の淹れるココアは、本当に不思議。

あまりそれを深く考えることもせず、体を起こす。

筋肉痛も気だるさも、少し和らいだようだ。

一体何時間寝ていたのか……きっと昼間と合わせたら十時間を越えている気もする。

よく寝たと思えるはずだ。

喉がからからになっていた私は立ち上がり、キッチンに水を取りに行く。

真っ直ぐ冷蔵庫へ行きミネラルウォーターを取り出すと、その場で蓋を開けて一気に半分程飲み干していた。

そんなに喉が乾いていたのかと驚きながらキッチンを出ると、机の上に大きな皿がひとつ置いてあることに気が付いた。

そろりと近付き中を見ると、柿や、大粒のぶどうやマスカット、梨などのフルーツが、一口サイズで盛り付けられているようだった。

ごくり、喉が鳴る。

今日私は朝食べたゼリー以来、あのココア以外飲食せずに夜中まで寝ていた。

だから、その瑞々しい果物たちが美味しそうに見えるのだ。

そうだ、そうに違いない、そうでなければ固形物なんて……。

ひとつ、マスカットを手に取ると、その張りのあるツヤツヤとした緑の果肉が私に向かって囁く。

おいしいよ、と。

ツヤツヤよ、瑞々しいよ、綺麗な緑色でしょう？と。

誘惑してくる。

音のしない後ろを振り返り、男が居ないことを確認してから手元をにあるマスカットに再び視線を向ける。

皮が薄い……そのまま皮まで食べられるタイプだろうか？

恐る恐るその半分を口に入れて歯を立てると、プツリと皮の裂ける音がして、その見た通りに瑞々しい果汁がジュワリと口の中に広まる。

久しぶりに、歯でものを噛んだかもしれない。

果肉を噛む度、ジュワリと溢れ出す甘酸っぱい果汁。

皮を噛むと、果肉とは違った渋みが広がり、シャキシャキと鳴るそれも悪くない。

種は入っていなかった。

「……おいし」

気付けばゴクリと飲んで、もう半分も口に入れていた。

そこでふと吐き気の心配を思い出したけれど、不思議なことに特に異変は感じなかった。

つまみ食いしてしまった……。

そそくさと部屋に戻ってから一息ついて、まだ口の中に残るその酸味と香りを堪能する。

なぜあんな所に、まるで罠かのように果物が置いてあったのだろうか。

こんな夜中に……食べる予定でもあったのだろうか。

でもあの量を、一人で？

あの男が……？

そう考えるけれど、あの男が果物を口にしている所なんて今まで見たこともなかったように思う。

急にあんなに沢山食べる気にでもなったのか、それともお客様用、とか……。

お姉さんに食べてもらっていた、とか？

私が意識を失った後、私はダイニングに顔を出していない。

あの盛り合わせは昼間からあったのかもしれない。

お姉さんが、私が目を覚ますまでの間に食べて待っていたとしても、不思議はない。

ただ、その場合なぜまだあの机の上に置いてあるのかという謎は残るけれど。

つまみ食い、してしまった……。

少しの罪悪感と、いやでもあんな所に置かれていたら食べられても仕方ないよね、という責任転嫁の念も浮かんで来る。

久しぶりに食べたマスカットの味は、記憶にあるものよりずっと甘味を強く感じた。

部屋で寝転び、例の電子書籍の電源を入れる。

目に優しい仕様になっているらしく、読んでいて目が疲れにくいのがとても嬉しい。

ただ、初日に無料の本で試して見たけれど、文字を読み続けることが難しくて、すぐ疲れてしまうことに気付いたのだ。

読んでいるのに読めていない、文字を追っていても文章として理解出来ていない、気付けば同じところを何度も何度も読み返していて進まない。

読んだ内容を覚えていなくて、今どこの話をしているのか、わからなくなる。

それをあの男に話すと、疲れていると誰にでも起こる事なのだと、教えてくれた。

別のものに考えが囚われていたり、一時的に記憶する部分が弱っていたり、文章を背景のように認識して眺めているだけになっていたり……理由は人それぞれのようだ。

だから私は空の写真の本をねだり、その本の分の『支払い』も終わらせていた。

これからしばらくお世話になるだろう、空や雲の写真。

本は、文字が読めなければ楽しめないものなんかじゃない。

読めなくても写真や絵があれば、年齢や立場なんて関係なく、いくらでも楽しめるものだ。

一時的にでも読めなくなったことで広がった、私の知る世界。

あぁ、こうやって間接的に助けてくれている人がいるのだと、元気をくれる人がいるのだと、本を通してその先にいる『人』を感じられた。

ひとりじゃ、ない。

空の写真を眺めているうちに、いつの間にか時計は五時を指していて、条件反射で体が起き上がる。

朝の五時、それは私が彼に、襲撃を仕掛ける時間である。

五時頃に男は仕事を終わらせてあの部屋から出て来て、寝室で寝るのだ。

疲れて寝た後、そのタイミングで襲撃をする。

毎回、それも受け止められてしまって、最初言われた通り『好きなように』されてしまうのだけど。

殺せる見込みがあるかと問われれば、あの男を殺せるなんてもう思っていない。

本当に寝ているのか？寝てるフリなんじゃないか？というくらい、男は寝起きでもその俊敏さを発揮する。

ただ、ここに住みついている限り、殺しに行く姿勢は崩せない。

それが、私がここに居る理由、だから。

「馬鹿なことしてるとは、思ってる」

私はそう呟いて、折り畳んだ膝を抱え込む。

男はきっと、知っている。

加害者のことを、私をあの歩道橋から突き落とした犯人の情報を。

私はその情報を聞き出して、本当の加害者に復讐したい。

あの男が『責任者』だからといって復讐の対象になるかといえば、直接関係なんてしてないはずだと思う。

そんな悪人が、こんな風に私を……保護、してくれるはずがない。

名目上は、私が男を殺すため。

けれど男の真意はきっと、今にも死にそうだった私を保護する為。

何かを知っていたから、その償いなのか、なんなのか……。

最初は本当に彼が悪いのだと、全ての責任を彼が負うべきだと、本当に復讐の相手は彼だと、思い込んでいた。

そう教えこまれたから、自分に殺意を向けるように、自分を憎むように、仕向けられたから。

流されやすい私はそのまま、あの男の条件に乗ったのだ。

だって、それが『楽』だったから。

言われた通りに思い込んで、憎しみをぶつけられる相手が目の前に現れてくれて、迷いなく全てをぶつけられて。

何度も何度も挑戦出来て、何度も何度も受け止められて、否定の言葉ひとつすら漏らさず、私の全力を全て受け入れてくれて。

その関係に、甘えていたのだ。

今はもう、ここへ来た当時より頭が働くようになったから、甘えていたこと、自分が楽をしていたことを自覚する事が出来る。

馬鹿だった。

私は確実に、救いの手を差し伸べられていたのだ。

部屋を与えられ、食べ物を与えられ、人と話す環境を与えられ、同時に医療を受けさせてもらっていた。

欲しいと願えば、こんな情報の塊を、キスなんてお金にならないもので、いくらでも買っていいと……与えられて……。

彼が私をどう思っているのか、同情でこんなことをしているのか、他に理由があるのか、そんなことはわからないし、まだ疑っている部分もある。

けれど、彼が与えてくれたもので私が順調に回復の兆しを見せていることは、事実であって受け入れるべきものだ。

私は彼に、なにを返せるだろうか。

お金も力もない、頭の出来だって彼には敵わないだろうし、彼の本当に求めていることだって、わからない。

せめて、少なくともお金を稼いで返せれば……。

そう思ったところで外にも出られないし情報機器も与えられていない現時点では、何も出来ない。

まぁ、そんなこと考えてはいても、今やることは変わらないのだけど。

そう頭の中で呟きながら、クローゼットの中にあるハンガーを取り出すと、底辺の部分を引っ張って真ん中が円の形になるように変形させた。

そろそろ殺しのバリエーションが減ってきて困っている今日この頃である。

刃物は包丁くらいしか私の自由に行き来できる空間にはないから。

もう片方の手にはまだたっぷりの水の入っているミネラルウォーターを持ち、そっと部屋の扉を開ける。

しかし、いつもと違って扉から出た時に暖かい壁にぶつかり、その進行を阻まれた。

本来、扉を開けた先に壁なんてない。

硬いけれど表面は弾力があり、生暖かかったそれ。

「……な、なに？」

見上げるとそこに、この家の主が立っていて。

その見下ろしてくる瞳とぶつかった時、背筋をヒヤリと冷気が伝った。

そして私は男の胸板にぶつかったのだと、瞬時に理解した。

「ダメじゃないか、まだ寝ていないと」

すっと冷めた目をしているけれど、口元は弧を描いている。

なぜこの男が部屋の目の前に立っているのか？

なぜまだ起きているのか？

待ち構えられていた？

いつからそこに居た？

疑問が一気に浮かんできて頭の中を占領する。

「今日は針金ハンガーとペットボトル？あぁ、そこに頭を通して首を絞められる予定だったのか」

さらりと首に手を当てられ、身体が強ばると、その手が降りてきてそっと肩を押されて部屋に逆戻りする。

彼まで部屋の中に入ってきて、その扉がゆっくりと閉められると、昼間とは違って暗い静かな部屋が、妙に男を妖しく見せた。

「……なんで、いるの」

我に返ってようやく出てきたのは、そんな言葉。

「今日はまだ休んでた方がいいだろうけど、律儀な君はきっと部屋に来るんだろうな、と思ったから」

そう話して、また口の端を引き上げて笑う。

「来られる前に、先に、来ちゃった」

来ちゃった、って……。

まさか襲撃するつもりがされるとは全く思っていなかった。

また一歩中に足を踏み入れた男は、私の肩に手を当て、押されるまま数歩後方に足を運ぶと、膝裏が何かにぶつかり、勢い余って座り込む。

その際、手に持っていた凶器たちが床に落ちた。

気付けば慣れたスプリングの上にぽふっと座り込んでいて、そこがベッドの上なのだと理解した時、ようやく自分の身に起きている危険を察知した。

体の両側に置かれた手、乗り出してくる体から逃げるために上半身を引くけれど、膝から下がベッドの下に降りたままなので、引っかかってそれ以上下がれない。

体は重力に逆らえず、ベッドの上にぽすりと着地した。

この体勢は、まずい。

引いた距離分、男が乗り上げて顔を近付けてくる。

「やっと焦り始めた？」

「近い…んだけ、ど」

「うん、だって君の殺意にまた応えなきゃいけないからね」

「待ってまだ部屋まで行ってないのに」

「凶器を持ってた時点でアウトでしょ」

そんな……、まさか行動を先回りされるなんて思いもしなかったのに。

近付いてくる顔を手で押し返そうとするけれど、その手を取られて指先をペロリと舐められ、また固まった。

舐めた、コイツ今、指舐めた……。

「へんたい……知ってたけど変態……」

「君、今日いい匂いするね」

「へんっっっっっっったい！！！！」

腹の底から声が出るくらいの本心が出た。

セリフがそのまんま犯罪者のそれじゃないか。

掴まれた手を離そうにも全く動かせず、もう片方の手で顔を隠そうとするけれど、片手じゃ足りない。

その間にも指先にスリスリと頬を擦り付けてくる男にせめて爪を立てるだけでも、と指先に力を入れるけれど、今度は手の甲に頬を当てスリスリし始めた男。

じわりと生暖かい熱が伝わってくる。

けれど、以前ほど嫌な気持ちにはならなかった。

「気持ち悪い……」

「気持ち悪そうな顔はしてなさそうだけどね」

「気持ち悪いったら気持ち悪いの」

手のひらを返され、今度は手首にその唇が這っていき、右腕がゾワゾワとくり立つ。

何度受けても慣れないその感覚から逃げ出したい。

逃げ出したい、けれど、逃げ出したくない……。

逃げ出したくないって……なに？

男に視線を向けると、今度は舌をチラリと出していて、明らかに舐めようとしているのが見えて、肩がビクリと上がる。

「まってまってまって」

「ん？なに？」

「なんで今日そんなに変態的に舐めようとばっかりすんの？」

隙をついてその唇から手を離そうとするものの、この男に不意打ちなんて通用するわけもなく、やはり捕らわれたまま動けなかった。

チッと舌打ちをすると今度はその顔が私の顔にグイっと近付くと、私の口元に鼻を近付け、スンスン、嗅ぐ。

待って気持ち悪い、何？え、何？？？

いつもと違った男の行動に戸惑いしかない。

「マスカット」

！！！

瞬時に、ずっと男の言っていた『匂い』の理由を理解した。

私がつい数時間前に楽しんだ、つやつやで瑞々しいマスカットのことだ。

バレた、一粒しか食べてないのに。

いや、でもつまみ食いしたといっても数時間前のことなんだけど。

そんなに匂いで判別できるものなんだろうか……。

「あの中からマスカットを選んだか……やっぱり少し酸味がある方が好きなのかな」

「……な、何が」

「あぁ、大丈夫、変なもの仕込んだりとかはしていないから」

果物の中にはね、と、そう言う男。

まるで私が食べることをわかっていたかのような……その男の発言。

果物の中には……？というその一言にはあまり深く考えることもしなかった。

「そろそろ、興味が湧いたり気持ちがふわっと上がる時も増えてきたでしょう？」

「……なに、おちょくりたいの？」

「そういうわけじゃなくてね」

頬をサラリと手の甲で撫でてきた男が、いつものように、ふわりと笑い、言葉を紡ぐ。

「君、もう固形物も受け入れられるようになってくると思うよ」

私の体じゃないくせに、私の体の問題を話す、男。

何がわかるというのか、私の体の何を、どこを見て、そう思うのか。

「なんであんたにそんなことがわかるの？」

「君の拒食が精神から来てるものだからだよ」

「は？」

「君の体に、直接的な問題は無いんだよ。検査で異常は見つからず、原因不明。つまり体は健康体」

健康体……？

こんなにも毎日のようにぐったりとしているのに、こんなにも食べ物を受け付けないのに、こんなにも体に力が入らないのに。

私の体は、健康体ってどういうこと……？

するりと腰を撫でられてピクリと肩が跳ねる。

その感覚に下を向くと、その手が腹の上を撫で、止まる。

そこは私がいつも撫でる場所……。

そこから臍の上に上った手のひらが軽く腹部を押す。

いやらしい撫で方ではなく、押したり手のひらを動かしたりするその動きに、内臓がゴロゴロと空気の動く音を立てる。

なに、これ。

「痛みは？」

「……別に」

「このゴロゴロしてるやつが、問題の一部。腹が空かない原因のひとつね、腸の動きが悪い」

「……は？」

そう言った男の手はさらに上ってくると、胸のすぐ下で止まる。

「ここが胃。胃も張ってる。これだと食べ物を食べなくても腹が膨れてる状態だし、吐き戻すのはこの空気と、胃酸過多や不安から来てる」

また、不安の問題、らしい。

私はそんなに、体のことに詳しくない。

体質変化で食べ物に気をつけていた時期があったといっても、食べられるものと食べられないもので分けていただけで、体の中の状態とかはよくわからなかった。

知識で覚えていることと自分の中の感覚で受けているものだと、なんだか別物みたいだ。

胃、の場所は、よくキリキリと痛みを感じていた。

水を飲んで和らげていた。

強い痛みではなくて、小刻みのような、チクチクとした小さな痛みがあって、その時にものを食べると吐き気が酷くて。

気持ち悪くて、食べる度に吐いて、また恐る恐る食べてまた吐いてを繰り返し、食べることがどんどん怖くなっていって。

だから、固形物を避けるようになった。

吐くのが怖いから、あの胃酸の味や喉の焼けるような熱さを感じたくないから。

思い出すだけでも、気持ち悪いから。

けれど、さっき、マスカットは不思議と食べられたのだ。

あの時、いつものような不安とか吐く恐怖とかよりも先に、食べたい気持ちが先走っていた。

喉が渇いていたこともあって、瑞々しいものに惹かれた。

この前のベリーの酸味が頭を過り、鮮やかな緑色に手を伸ばしていた。

その一瞬、固形物への恐怖なんて、忘れていた。

「その大丈夫だと確信する一歩は、自分からしか踏み出せない」

「わざと、あそこに果物を置いたの……？」

「うん、まぁもっと長期戦になるかと思ったけど、食べてくれてよかったよ」

そわそわと動く指が胸の真ん中を通って鎖骨を撫でる。

「ちょ、どさくさに紛れてどこ触ってんの！？」

「ふふ、ここはまだダメかぁ」

「どこもダメなんだけど！！」

またするすると首の裏を撫でられ、鎖骨の下に唇が触れる。

ふわふわとした藍色の髪が掠めてくすぐったい。

「気持ちが落ち着いてる時なら、君はもう物を食べられる。少しの量からでいい、また果物も用意する」

額に落ちた前髪をするりと横に流され、露になった額に口付けられると、胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。

彼が、私の事を考えて、先を見据えて徐々に回復へと導いてくれるように動いてる、その気遣いに。

ここまで自分のことを考えてくれる人はこれまでいなかった虚しさと、初めてここまで気遣って……一人の人間として扱ってもらえてるかのような戸惑いがある。

けれど……嫌じゃない。

この男の腕の中が、心地いいと感じてしまう。

離れたく、ない。

「今度はヨーグルトにフルーツを入れてみよう」

「……ブルーベリーも、食べれ、る」

恥ずかしさに口の先を尖らせつつも、勇気を出してそれを求めると、くすくすと笑う優しい声が、首元で聞こえた。

だからそこで笑うな、くすぐったい。

「じゃあ、ブルーベリーのソースも付けよう。甘いものは好き？」

「……………………好き」

「……」

そう応えたのに急に男が黙ったので、その藍色の髪に視線を向ける。

また首の隙間に埋もれているその顔は見えないけれど男がキュッと息を詰めたような音を微かに拾った。

「……ねぇ？ちょっと急に黙らないでよ」

名前を呼びたかったが、その名前を知らない。

私は未だに、この男の名前を知らない。

呼べない。

聞けばいい、でも今更聞けない。

いつかは知れるだろうか。

教えて、くれるのだろうか。

しばらく経ってからようやく、男のため息が聞こえた。

「我慢が効かなくなるから、そういう可愛い事あんまり言わないで」

「……なんの話？」

またため息が聞こえたと思ったら、男の体がようやく起き上がった。

その火照った顔に、いつものような余裕の表情は消え去っていた。

男の視線に射抜かれた私の体は硬直する。

今度は一体どの部分に反応したのか、またもや原因がこちらにはさっぱり見当もつかない。

変なスイッチだけは押していない事を願いつつ、男の次の動きから最悪逃げられることが出来るように、肘の辺りに力を入れてこの腕の中から逃げ出すイメージをつくる。

「俺結構ね、我慢する力は鍛えてるんだよ」

……これで？

と言うツッコミを心の中で返し、言葉の示す意味を汲み取ろうとするけれど、やはり分からないものは分からなくて。

え、なに、我慢してないような体勢の中で我慢強い発言をされても困る。

「いっぺん状況見直してから口にしてくれる？」

「いや、本当に我慢ばっかりしてるから、本当はこっちの身にもなって欲しいんだけどね？」

自分からけしかけて住まわせてる癖に……。

「だからなに？」と、彼の話の続きを急かす。

「だからね」

襲われたくなかったら、俺の気持ち、鎮めてくれない？と、耳が言葉を受け取った。

そしてふと、太腿に感じた違和感に私の顔から血の気が引いていく。

寝る前に着替えただろう男の服は真っ黒でゆったりとしたルームウェアで、デニムのように抑えつけるものが無いそこはそれはもう…………自由で。

目で確認していなくてもそこが大変なことになっていることを嫌でも察した。

私はまだそれを受け止められるほど余裕だって抱擁力だって持ち合わせていない！！

目を見開いて男に視線を合わせると、藍色の髪の隙間から見える顔は笑う余裕も無さそうな、苦しそうな表情をしていて。

どうしてこうなった？

頭を真っ白にした私は再度脳をフル回転させる。

この男がいつものようにからかう口調では話さず伝えた、ということは、本当に理性の瀬戸際のようだ。

自分から乗り上げている癖に私にどうにかしろなんて無茶ぶりにも程があるけれど、口は聞けているし強行はされていない。

ならば一旦、この体を離せるかもしれない。

「あんたがどいてくれれば一旦私は安全圏に避難できるんだけど」

「えぇ……嫌だなぁ……」

「わがまま言ってないでさっさと降りて」

「降りたら何してくれる？」

「は！！？」

この期に及んで要求する気満々なのかこの男！！

「触っt」

「却下」

「……キス」

「……却下」

むぅ、という顔をしている男にまたそこを押し付けられて、これは却下ばっかりしてないでホントに何かしてやらないといけない流れなのかもしれないな、自分の身の為に、とそう思ったところで。

「じゃあ、頭、撫でて」

仔犬のようなその瞳を向けられ、その可愛さに思わず頷いていた。

ふと我に返る。

あれ、今無意識に頷いてしまっていたけど、私は要求をちゃんと聞いた上で頷いただろうか？

いや、でも頭撫でろってくらいなら……大丈夫、別に変な事じゃない……。

いやちょっと男の要求がそれでいいのか？って半信半疑な所はあるけども。

ぐっと両側についていた腕に力が入り、男が起き上がると、ようやく詰まっていたような息苦しさがなくなった。

大きく一度、深呼吸をした。

無事解放された、よくやった私、よく耐えた私。

ただでさえ疲れていた体に、今まさに迫られた精神的負荷まで加わって再びぐったりとしているけれど、ずっとあのままじゃ私の体がもたない。

男は私を避けて、ベッドの端にちょこんと座ると、前傾姿勢で項垂れていた。

休んでいるボクサーのようなポーズだ。

深く息を吐く男は精神統一をしているようで、その見慣れない姿に少し罪悪感が湧く。

我慢してくれる男って、こうやっておちつけるものなんだろうか。

私の過去の相手は、我慢なんてしないような奴で。

扱いが雑で、痛くて、気持ちなんて込められてるようには感じなくて。

閉じ込めようとして来た割には、いざとなれば逃げ出して姿を消したような、クソ男だった。

借金の類を押し付けられてなかっただけ、まだマシだった。

惹かれたというより断れなかった私は、されるがまま流されるがままで、自分の体も心も大事に思えていなくて。

あぁ、私はこういう運命なのかって、身に起こる全てを受け入れて。

体が拒否しないから、きっと好きなんだろうと、思い込んでいて。

でも授かった時、本当の愛を知ったから、あの好意だと思っていたものが偽りのものだと、気付いた。

本当の『愛』は、大事に出来なかった自分の体を、大事に思わせてくれた。

何よりも守らなければいけないと、私以外の誰にもこの子を守ることなんて出来ないと、力強い決意を固めて。

優柔不断で流されやすい私に、こんな力があったのかと、こんなに生きる力があったのかと教えてくれて、与えてくれて。

結局、出会えなかったけれど。

抱き締めて、あげられなかったけれど。

名前もない、性別もわからなかったあの子は、私に何よりも大きな大きな大切なものを、その短い人生全てをかけて、教えてくれた。

私の愛したかった……愛していた、今でも愛している、あの子。

気付けばほろりと頬を涙が伝っていて、その涙を拭ってくれる指先を感じて、現実に引き戻されていた。

「なにか思い出してた？」

「……少し」

「そう」

柔らかく頭を撫でてくれる男に、心が少しずつ落ち着いてくる。

「嫌なこと思い出してるわけじゃないならいいか」

「そんなこと……なんでわかるの」

「心の叫びが聴こえないから」

なんなの、もう。

一緒に寝転がった男の腕の中で撫でられながら、また少し涙が零れた。

あの子との思い出は、ほんの少しの時間しかなかったけれど、決して嫌な記憶にはならなかった。

大切で大切で、大きな恩を感じている。

私を人形から人間にしてくれて、ありがとう。

私に本当の『愛』を教えてくれて、ありがとう。

私に失った時の大きな悲しみと、それでも生きて行く力はちゃんとあるのだと、そこで人生が終わるわけでは決してないのだと、教えてくれて、ありがとう。

たくさんの、本当にたくさんのありがとうが、あの子との時間のおかげで生まれた。

今でもあの子のことを思い出すと、心が落ち着く。

頑張る為の力を与えてくれる。

だから私は、きっとあのクズに裏切られた苦しみなんて、すぐに忘れられたのだ。

そんなことより、あの子の方が大切で、あの子の為に時間を使っていたくて。

だからこそ、あの子を失った時の心の傷も、深く深く、大きくて。

だけど、失ったことは苦しかったけど、あの子が確かに『ここ』にいたことを、無くしたくはないから。

あの子の存在を絶対に否定はしたくなかったから。

あの子から貰った感情や考える時間を、もっと大事に大事にしておきたかったから。

だから決して、嫌な思い出なんかじゃないの。

嫌な思い出になんか、絶対にさせない──。

一通り満足いくまで考え込んでいたら、頭の上の方から『スー、スー』と寝息が聞こえてきた。

……え？寝息？

深く深く膨らんでは引っ込む胸元に顔を埋めていることを思い出すと、今度は腰や腕の上辺りが重く、がんじがらめにされている事に気付いた。

重いんだけど。

え、まって、寝たの？

この男このまま寝たの？

私に絡まったまま？

私の部屋で？

どんな状況だよ、と思いつつ上を見るけれど、男の綺麗な顔にある瞼は開く様子もない。

これは……爆睡している。

いつも私が襲いかかるとすぐに覚醒するくせに、私の目の前で爆睡している……。

いつの間にされていたのか、私の頭の下には男の腕が回っていて……これは所謂、腕枕か。

腕枕なんかもしてもらったことないし、抱き締められたまま寝るなんてこともなかった私には、この空間の甘さがむず痒い。

なにこれ、体熱い。

男が寝てるから熱いのか、抱き締められてるから熱いのか。

またキュッと腕に力を入れられ、引き寄せられる体に、顔に熱が集まってくることを妨げる方法なんて知らなくて。

恥ずかしいのに、この腕の中はすごく心が落ち着いてくる。

さっきまで危ない男だったのに、寝てる今はなんかもうでっかい猫のようだ。

こっちだけ掻き乱されて、なんか、ムカつく。

それでも男の意識がないことをいいことに、この腕の中から逃げ出そうとは思わなかった。