壊し愛（統合版）

6．💊𝓝𝓪𝓶𝓮🛠

ピンポーン、チャイムの音が一度鳴り、目が覚める。

ん？私はまた寝ていたのだろうか？

部屋に視線を向ければ、すっかり部屋の中は明るくなっていた。

もう朝か、と思っていると、ガチャりと玄関の開く音が耳に届き、その違和感に思考が止まる。

朝、この家に人が入ってきたことなんてこれまで……たぶん、なかった。

なかった？はず。

私は時々昼まで寝ている時もあるけど、ココアを飲んでいない日は不眠なのは変わらず、寝ずに起きていることもよくある。

その知ってる間の中で、この家に朝、人が来ることはおろか……勝手に家の中に入って来れる人が存在することすら私は知らない。

「──ぅ？あれ、いない」

かすかに聞こえた声、ガチャリとこの部屋の扉の奥で開かれた扉は、すぐに閉められたようだ。

あの位置は……この男の寝室のはず。

ということは、この男を探してる？

声を出して探しているならこの男の知り合いだろうか？

足音が遠ざかって数分後、再びこちらに向かってきた足音が部屋の前で止まる。

意味無く焦り始める私の心なんて知られるはずもなく、この部屋の扉が開かれた。

「……………………は？」

たっぷりと溜めた後の漏れ出すような小さな声が、この部屋に響き、そして私はその視線に羞恥心を全開にさせられた。

見られた、知らない声、男？ちょっと高めの男の人の声、誰、なんで家の中に入って来れたの、ていうか誰？？

混乱してる私の……私たちの寝ているベッドに近付いてきた男は、私に声をかける。

「なにこれ……君、起きてるんでしょ？これどういう状況？」

起きていたのが、バレていた。

なぜだ、動かないように気を付けていたのに。

「……あ、の……寝てる……」

「見りゃわかるけど違くて……なんであっちの部屋にいないと思ったら女の子抱き締めて寝てんの？人の気配で起きないのも珍しいし」

人の気配で、起きてしまう人だったのか。

その情報を聞いて思わず、男の胸から顔を上げて、勝手に部屋に入ってきた人を見上げた。

その顔が、めっちゃくちゃに、そんじょそこらの可愛い女の子よりも可愛い顔をしていて、びっくりした。

ちゃんと服装は男だ、声からしても、この人たぶんちゃんと男の人、だ。

「……なに？」

「……いえ」

「可愛いとか口に出した瞬間にお前の命なくなるから」

こっっっっっわ！！！？？？

出会って間もない人にいきなり死刑宣言されるとは思わなかった！！

怖、何この人、可愛い顔してこっわ！！

「ってかそれはどうでもよくて。起きないの？ソイツ」

「……私動けなくて。助けて欲しい」

「はぁ？」

呆れたようなその顔をする男の顔は、可愛いままで。

え、なにそれチートじゃん、なんで歪めてる顔まで可愛いの？

その可愛い顔の彼が、寝ている彼の腕に手をかけ力を入れるけれど、余計に抱き締める力が強くなってしまって、逃げられなくなる。

寝ているくせにどうなってんだ。

「腕つめてぇな」

「え？」

「ちょっと待ってて」

その人は未だ寝ている彼の肩や背中に手を当て、最後に額に手を当てる。

それはまるで、何かを……熱？を確認しているかのような動作で。

「体冷えきってるし、たぶん熱あるよ。布団かけずに寝たからか、その前から熱あったのかはわかんないけど」

寝てる男の背中側にあった布団を被せられ、「ちょっと待ってて」と、そう言った可愛い顔の男は、部屋にあるソファーに座ってどこかに電話をかけ始める。

10分後くらいにこの部屋に新たに現れたのは、あの女の人──未だ寝ている彼の、お姉さんだった。

「あらまぁ」

彼女は未だ抱き締められている私を見てから、困ったような顔で尋ねてきた。

「熱あるって聞いたけど、あなたは大丈夫なの？」

「私は……熱いくらいだったから、冷えてない」

「そう、よかったわ」

それにしてもこの巨体をどうやって引き剥がしましょうか……そんな呟きが聞こえた後、寝てる男が喉を鳴らすように息を吐いたと思ったら、するりと背中を撫でて来てビクッと肩が上がる。

布団を被されているから、二人からは見えないことだけが幸いだ。

きっと、うん、そのはず。

「起きた？ねぇ起きた？」

「……」

「一旦起きて、離して」

「ん……や、だ」

「やだじゃないんだけど！！？」

モゾモゾと腕は動いてる癖に、一向に離そうとはしない。

ちょっとかすれた声がまた色気……いやいや私は何を考えているのか、二人もこの部屋の中にいるというのにはしたない。

「あんまり抱き締めすぎると、彼女潰れちゃうわよ？」

お姉さんがそう声をかけてくれると、男はパチリと目を開いた。

さっきまであんなに頑として開かなかった瞼を、そんなすんなりと。

「あ、ゆー起きた？」

ゆー？

you？

夕？優？遊？有？

頭の中ではそれを変換しようとするけれど、なんの情報もない私には変換なんて出来なくて。

「あ、ちょっと、それはまだっ」

しー、というジェスチャーをその可愛い顔の男に向けているお姉さんを見て、私は確信した。

「ゆー」

彼を見上げて、私はそれを口にする。

ピクリと反応して、私を見下ろす男。

間違いない、彼が『ゆー』だ。

お姉さんの焦る声が聴こえる。

まだこの子には、内緒、だったと。

口にしてはいけない約束だったのだと、小さな声が聴こえる。

この静かな空間で響いてしまうその優しい声が、耳に届いて、ゆっくりとその事実を受け止めていく。

あぁ、私がここに関する誰の名前も知らなかったのは、知られないようにあえて隠されていたのだ、と。

『ゆー』

どんな字を書くのか、発音はこれでいいのか、合ってるのか、わからないけれど。

私の声に反応した彼を見て、心の奥深くが満たされてしまったのを感じた。

彼を、ひとつ知れた。

『ゆー』を、知った。

気になって聞けずにいたその名前を、偶然なのかなんなのか、知ることが出来た。

そして、小さく口を開いた男は、掠れている声で、初めてはっきりとしたそれを、私に向ける。

「あかね」

彼が、私に応えた。

それは、『ゆー』が名前だと認めたということであり、私の名前を本当は知っていたということでもあり、まるで私個人の存在を認められたかのような錯覚を起こした。

何ヶ月ぶりに、その名を呼ばれただろう。

久しぶりすぎて、忘れそうだった。

私の名前、私だけにある、私個人を示す、名前。

「起きたならとっとと離してあげなよ、ゆー」

「ちょっと、だからそれは……」

「もうお互い呼び合っちゃってんだから今更よくない？」

客観的にそう説明されてしまうと、なんだかすごく恥ずかしいことのように思えて、思わず顔を彼の胸に埋める。

いや、これはこれで恥ずかしいのだけど。

「まぁどこまでコイツの意識がはっきりしてんのかはわかんねぇけど」

続けてそう言った可愛い男の声に、私は再び顔を上げる。

なぜだろう、不安に感じたのだ。

名前を呼んでくれたのに、まさかこのことを忘れてしまうんじゃないかって。

目はしっかり開いている。

けれど、私の名前しか、口に出していない。

あと「やだ」もか。

それくらいしかまだ、話していなかったから。

「起きてないの？」

じっ……と私を見下ろす瞳は潤んでいて、惹き込まれるように顔が近付いてきて………………いや、待って待って待ってちょっと、待って。

私は顔を下に背けてそれを回避するけれど、髪の上に降ってきたそれは絶対に二人に見られてしまったはず、で……。

まって寝惚けてんの！？

ねぇ寝惚けてんの！！？

「起きてるよ」

そう言葉が降って来ようが、そんなこと信じられなかった。

「嘘、寝てる、寝惚けてるから起きて！」

「起きてるよ。目覚めて早々に俺の腕に抱かれてる可愛い顔で、可愛いその口から俺を初めて呼んでくれて」

「わー！わー！わー！わー！」

「もうほんと、可愛すぎて困るよね」

「聴こえない！知らない！！起きてんなら早く離して！！」

いつものように髪に頬を押し付けてゴリゴリとしてくる男に……『ゆー』に、可愛い男が「イチャついてんじゃねぇよ」と呟く声が聞こえた。

イチャ……やめて、私の羞恥心が限界。

「イチャイチャしててもとりあえずいいけど、一旦体温測ってくれる？」

お姉さんまで、イチャ……とか！！言わないで！！

私の羞恥心をこれ以上煽らないで！！

彼の胸に蹲ったまま身動きの取れない私は、そのままの状態で焦るしか出来なくて。

穴があったら入りたいというか、布団と彼に囲われて、ある種既にその穴に入ってるようなものなのかもしれない。

だからと言って羞恥心は加速していくばかりなんだけれど！！

「……なんでいる？」

今初めて気付いたかのような、急にトーンを落としたその声に、今度は背筋に悪寒が走る。

この前の、お姉さんとのやり取りを思い出したからだ。

仲が悪い……とも思えないけれど、良くもなさそうな、何とも言えない空気感。

「私は熱があるって聞いて呼ばれたの」

「呼ばれた……？」

「呼んだのは俺ね」

背を向けているから全く状況が見えないけれど、その無言の空間がなんだかとても怖いものに感じていた。

なんでそこで黙るの？

変な所で黙らないで？

変にこっちが緊張するから。

「睨む前に体温計受け取って？」

沈黙を破ったのは、彼の変わりようを気にしていないような、お姉さんのちょっと困ったような声。

「うわ、こっわ。別に取り上げたりなんかしないからそろそろ離してあげなよ、その子耳まで真っ赤になってるじゃん」

おま、可愛い顔のお前、なんの恨みが私にあるって言うの！？

これ以上辱めてくるのやめてくれる！！？

とは思うけれど、確かにさすがにもう腕の中から逃れたい私は、彼の胸に手を当てて引き剥がそうと力を入れる。

それを上から見てくる彼はため息を吐き、ようやく腕を緩めて起き上がった。

開 放 感 ！！

すぐさま起き上がった私は立ち上がり、体温を測っている彼を横目にキッチンまで逃げ込んだ。

「あ、」なんて聞こえたけれど知らない！！

私はあの空気に耐えられない！！

逃げる一択！！

冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターがいつもより美味しく感じて、体に染み渡っていくように感じた。

生き返る……私今すごく生きてる……。

ようやく一息付けて、朝からすごく疲れたように感じる。

気力を削られることばかり起こってるから疲れるんだ。

ていうか結局あの男の人誰なんだ？

お姉さんを呼んだってことはお姉さんとも知り合い？

ただ、『ゆー』という名前だけでも知ることが出来て、それだけでも満足している自分がいて。

私はそろそろ引き返せなくなる所まで来てしまっているんじゃないかと、心に問いかける。

まだ、その『答え』は出したくない。

気を逸らそうとしている時点でもう遅いのかもしれない。

それでも、それでも『ゆー』との未来は考えられないから、その先へは、進めない。

熱の具合が気になって部屋に戻ろうとすると、「あの子、もしかしてあいつらの？」と中から声が聞こえてきて足を止める。

あの子……というのは、今その場にいないと思われている私のこと、だろうか。

「そう、『被害者』」

『あいつら』そして『被害者』

そのワードの結びつく先は……『加害者』の話。

あの可愛い顔の人も、『加害者』のことを知っているのだろうか。

私は息を顰めてその声に耳を傾ける。

「あんまり、あかねのいる所でその話したくないんだけど」

「いや、だってお前昨日の昼間丸々いなかったじゃねぇか」

「それは緊急事態だったから」

「ていうか『被害者』の子を引き取ってるなんて聞いてないし」

昨日……私が発作を起こした後のことだろうか。

ということはあの人は仕事関係の人……？

私のいない所だとそう名前で呼んで……そこで考えが逸れた思考を首をふるふると振って修正する。

今はときめ……反応してる場合じゃない、ときめいてなんてない、うん。

私は少しでも、本当の『加害者』の情報が欲しい。

その時、小さな電子音が鳴り響き「微熱ね。ごはん食べたらまた上がるかもしれないわ」というお姉さんの声が聞こえて、そこで止めていた足を進めた。

お姉さんがこちらに来るかもしれない、そして聞き耳立ててる所に鉢合わせたくはない。

部屋の扉を開くと、お姉さんがこちらに声をかけてくる。

「あら……ええと、ねぇ、もう名前で呼んでいいのかしら？」

「慣れ合われるの嫌だから却下」

「ねぇ、あかねちゃん」

「てめぇ後で……覚えてろ」

ぞくぞくっと低い声に凍る背筋を何とか無視して男の前に立つ。

不安の気持ちが顔に出てしまっているだろうか、私の顔を見て少し困ったような顔をした『ゆー』は、その後ふわりと優しく、私だけに笑いかける。

そのいつものふわりとした笑みに、緊張していた私の心がスッと落ち着くのがわかった。

「こうなったらもう我慢しないよ。おいで、あかね」

はわわわわと表情を崩しそうになるのを耐え、きゅっと口元に力を入れる。

名前を解禁されてからの破壊力が強すぎる、ダメこれ耐えられる気がしない。

おいで、と言われたところで動かない私の腕を取る『ゆー』は、私をベッドの上に引き上げてまた腕の中にすっぽり、収める。

はわわわわわわわわわわわ

「キッチン借りるわねぇ」というお姉さんの声が聞こえ、それを無視して『ゆー』は私の髪にまた口付けを始める。

待って、待って待って待って、違うの私は聞きたいことがあって、聞きたい……ちょっと待、あ……。

「耳やめろばかぁ……」

反抗したつもりが、とんでもなく情けない声になっていただろう。

なんたる屈辱……。

はぁぁぁ……消えたい。

「なにそれ、可愛すぎる」

背にある彼の手つきがなんだか変わったところで「ちょ、ちょ、待て、話ある、待て！！」と、慌てて男の顔を見上げた。

目を丸くした男の顔が思いの外近くて気が引けたけれど、何とかこらえる。

今の言い方ちょっと犬に対してっぽくなっちゃったけど気にしない。

「犬かよ」

こらそこ、つっこまない。

なぜかソファーで寛いでいる可愛い男は、話が終わっていないのか何なのか、まだ帰る様子がない。

仕方がないのでこのまま話を続けよう、別に聞かれて困る話ではない。

「話って？」

「あの、だから……名前、なんで、隠されてたのかなって……」

名前は、確かに私も聞かなかった所あるし、自分から名乗ることもなかった。

でも呼ばれたことがなかったからまさか知ってたとは思わなかったし、お姉さんまで巻き込んで故意に隠されていたとなると気になる。

呼ばれたことなかった……よね？そのはず。

それに『加害者』の話も気になるけど……さっきの話を聞く限り私に教える気はなさそうだから、『ゆー』には聞かない。

その件はまた後で、考えがある。

「あかね？」

「ん……なに」

「俺の名前ね、実は『ゆー』じゃないの」

……は？

せっかく知れたと思ったのに。

この男は私に応えたのに。

「違う、の？」

「うん。『ゆー』じゃなくてね」

ふふっと笑う彼は、緩やかな笑みでその艶やかな唇を開く。

『優藍（ゆら）』

そう聴こえた音の響きに、あぁなんかわかるなぁって、心にすとんと降りて来た。

ゆらゆらと漂っているような、掴みどころがないような、そんな語音が、とても似合ってる。

「優しいに藍色で、ユラ。あかねにはそう呼んでほしい」

ユラ……か。

何度も頭の中で紡がれる、その名前。

ユラ、だから『ゆー』だった、きっとそういうこと。

「本当は昨日教えるか迷ったんだけど……」

「昨日？なんで？」

「頭、撫でてくれるんでしょう？名前呼んでもらうのと迷ってたの」

それは、我慢してもらう為に私が何をするか、という時の話で。

あれ、でも選ばなかった選択肢だった名前を、結局私は知ってしまって。

「だから、せっかくだから名前呼びながら撫でて？」

彼はそう要求して、またゆらりとした笑みを浮かべた。

まさかここでかけ合わせて来るとは思わなかった私は、完全に忘れていたそのやり取りをようやく思い出したところなのに、また一つ羞恥心を煽られる行為を求められている。

呼びながら、撫でる……？

「お前仕事休んで一体何してたわけ……」

そんな呆れた声が後ろから聞こえて来るけれど、無視を貫く男は私に「はやく」と急かしてくる。

私にはすぐに応えるのに、他の人には普段からこんな対応なのだろうか？

お姉さんもなんだか慣れているような感じだったし。

「まって、今？……撫でる、の？」

「うん、今。昨日できなかったから」

「名前……いる？」

「俺昨日我慢したし、ちゃんと待ってたし、気付いたら寝ちゃってたから、利息付けてもいいでしょ？」

まさかの利息……！！？

「わ、私の質問にはいつ答えるの？」

「じゃあ撫でられながら答えるよ」

こ、この男……！！

さらっと撫でられる時間まで延ばそうとしてる！！！

けれどまた「はやく」と急かして私の手を頭に乗せて来る男に、仕方なくさっさと終わらせる方向でその手を動かし始めた。

ふわふわと私の手に合わせてゆらめく、ユラの柔らかい髪。

「……ユラ」

「ふふっ」

「……撫でてんだから、早く話してよユラ」

「わかったよ」

後ろにいる人の視線が怖いけれど、私は続きを促す。

文句があるなら後で聞く。

「名前を知ったらさ、君の殺意に迷いが出るんじゃないかと思って」

「……」

「情を持たないように、俺の情報からは避けていたでしょう？だから話さなかったの」

その理由さえも、私の考えを見通した上でのものだった。

ようやくそれを知って、私の手は彼の頭の上にあるまま、止まる。

「じゃあ、なんで昨日、話そうと一瞬でも思ったの」

「名前を知らないことなんて、もう効力がなくなっているから。もうそんなことしなくてもいいくらい……」

『君の心は俺に傾いてるはずだから』

耳元で囁くように告げられるその言葉に、私の顔がカッと熱くなる。

この男はどこまで見通しているのか。

そしてどこまで、私はいいように操られているのか。

「な……にそれ」

「理由はそれだけってわけでもないけど」

まだなにか、あるの？

頭を撫でる私の手の上から手を重ねてきた男は、その手を自分の顔の前へと持っていく。

ゆるりと親指で撫でられるその手を、今度は唇へ近付け、小さく口付ける。

「最初の頃は気になりもしなかったのに、俺を知っていくにつれてだんだん名前を知らないことが気になってこなかった？」

「は……？」

「人は曖昧なものが気になっちゃうものだし、それを自分から追っていくようになるし、何度もそれを考えるようになる。何度も同じことを考える程、余計気になっていく」

にやりとした笑みで私の視線を捕らえた男は、また顔を近付け、頬に口付けた。

またもや、彼の……ユラの、得意分野だった。

こ、この男、そんな所にまで仕掛けてたのか……！！

一度知ってしまったことは、知らない状態には戻せない。

忘れることはあっても、無かったことにはならない。

一度でも失敗すれば、その方法は使えなくなるはずなんだ。

でもここ2ヶ月と数週間、今日まで見事に彼の名前は隠されていた。

彼の名前だけじゃない、お姉さんの名前だってそうだ、一度も聞いたこともなければ、私の名前も呼ばれたことがない。

極力人に会わないからこそ、創り上げられることのできた舞台。

「あんた……私を何重にハメようとしてんの？」

ひとつやふたつ程度じゃない、まだ私の知らないところで仕掛けが今も働き続けている事があるのかもしれない。

そんなことをサラッとやってのける男……。

むしろなんで、このタイミングでそれをぽつりぽつりと説明し始めたのか……そんな所まで疑念が残る。

「うわ、ゆーのガチ怖ぇ……」

視界にも入っていなくて完全に忘れていたけれど、そのソファーに座っている男にも今の会話が聴こえていたらしい。

「……なんでまだいるのかな」

ようやく男に反応したユラは、そちらに鋭い視線だけを向ける。

近距離で見る彼のその瞳は、迫力がある。

「いやだって気になるじゃん、誰にも興味持たないようなゆーが囲いこんだ女って」

「囲いこんでなんてないよ。彼女は自由になれる選択肢を持ってる」

「ぜってー嘘。なんかどっかで絶対仕掛けてるね、それは」

仕掛けてる……？

囲いこまれてるってのも変な話だし、私は私の意思でここにいる、逃げたければ逃げられる。

それをこの男は1番最初に説明している。

ただ、逃げたら二度と、戻って来れないってだけで……。

そうしたら『加害者』へ繋がる情報源が、なくなってしまう、わけで……。

それは本当に、自分から選んだ選択肢だっただろうか……？

「まぁ、ゆーが何仕出かす気だろうが仕事してくれりゃこっちはいいんだけどさ」

そう言って立ち上がった男はこちらへ向かってくる。

今度は何を言われるのだろうかと身構えたけれど。

「イチャイチャ終わった？ここ、今はこの子の部屋だろ？立てるなら自分の部屋戻れば？」

そう話す男に、ユラは辺りをキョロキョロ見回して「あぁ、そっか、ごめんね」と、私に謝った。

どうやら昨日のことを思い出したようだ。

「ちょっと苦しかったけど、別にもういい」

「うん、幸せな時間をありがとう」

またひとつ額に口付けを落とした彼は、可愛い顔の男を引き連れて、自分の部屋へと戻っていった。

なんだか急に静かになったその部屋を、寂しく感じた。

今日の彼は……ユラは、いつにも増してゲロ甘だった。

熱があるから？

なんかずっと引っ付いてて、暇さえあればキスしてきて、すごく……幸せそうな顔を、向けてきて。

……だめだ、最近私あの男に流され過ぎている気がする。

慣れてきているのもあるだろうけど、わたしの中の抵抗感が減ってきていてあれを心地よく感じてしまっているから全力で抵抗できない。

ダメだ、ほんとに、もう、私……。

コンコン、と控えめにノックされた扉が、ゆっくりと開かれる。

ベッドの上で膝を抱えていた私は、お姉さんでも入って来たのかと思い、そのままでいたけれど。

「それで、昨日は何があったのか聞いていい？」

「………………はい？」

思っていた声ではない低い声が聞こえて顔を上げると、なぜなのか、あのめちゃくちゃに可愛い顔の男が首を傾げてそこに立っていたのだ。

なぜ、あなたがこの部屋に？

……昨日？昨日の話って……。

「あんまり大声出さないでね？ゆーには内緒で話しに来ちゃってるから」

「……なぜ」

「ちょっと聞きたいことがいくつかあって。あぁ、ゆーはゆーの姉貴に見てもらって飯食ってるから、しばらく来ないはず」

その男は私の座るベッドの真正面に胡座をかいて座ると、続きを促してくる。

そのきゅるんとした瞳に、つい母性本能のようなものが掻き立てられて、なんだか心臓の辺りがきゅうんとしてくる。

なんだろう……小動物のような。

聞かれるがままになんでも話してしまいそうになる。

「昨日……は、私が発作を、起こしてしまって……」

「発作？もう大丈夫なの？」

「え？あ、大丈夫」

「そう。そんで緊急事態って言ってたわけね、わかった」

納得したような顔で頷いた男は、次の質問を投げかけて来る。

「それで、君なんでここにいるの？」

「え……？」

「ゆーの彼女？」

「………………」

かの……じょ？

私はその言葉が本当に一瞬わからなくて。

いや、言葉の意味は分かるけれど、なぜこの男がそんなことを聞いてくるのか……そう見えているのか？わからなくて。

そもそも私たちの関係自体が、言葉に収めきれるようなものでは、なくて。

「あれ、違うの？ゆーの一方通行？」

「……一方通行？」

「片想い相手？」

「…………はい？」

思考が停止、というよりは、この話題について私は何も考えたくないのかもしれない。

全力で現実逃避をしたいと思っているし、早く話題を変えたいと思う。

「え、じゃあ君、ゆーのことどう思ってるの？」

話題を変えてほしくて仕方がないのに、どんどん深堀してくる、この男。

私が、彼をどう思ってるか……なんて。

「……関係、ある？」

「ん？」

「私がユラをどう思ってるかとか、なんでここにいるのかとか、あなたに関係ある？」

私はこの話題を続けたくない。

だってそんなの、自分の気持ちなんてずっとずっと避けてきてるのに、こんなぽっと出の男に話したくもない。

話せるような、話じゃない。

「割と関係あるかもしれないって言ったらどうする？」

どういうことなのだろう。

人の恋愛話が他人のこの人に関係あるなんてこと、あるわけないのに。

この人も、何を考えているのか全然読めない人だ。

「んー、どっから話そう。じゃあ、この部屋、元は俺の住んでた部屋ってところから話すか」

ここ、と床を指さしてきゅるんとした瞳を向けて来る男は、さらっとそう、私の知らなかった話をする。

この人が以前住んでいた部屋、だと。

「あなたの……？」

「そう。だから俺この家の鍵持ってんの」

そう言ってニヤリと笑った男は、「まぁもう引っ越したんだけどねー」と言いながら宙を向く。

次の話を探しているように、その瞳がゆらゆらと、彷徨う。

「ゆーと俺はさ、仕事仲間っちゃ仕事仲間なんだけど、その前から友達……友達って思ってもらってるのかもまぁ怪しいんだけどさ、まぁ俺はそれくらい仲良くしててさ」

そう話しながら、ゆらゆら、前後に体を揺らす男。

なんだか子供っぽい所があるな。

「アイツが人に執着しないのも、そんな自分をおかしく感じて心の勉強してたのも、それも利用して仕事にしてきてんのも、みーんな見て来たの、俺」

人に執着しない、というのが、本当なのかわからないけれど……なんだかピンと来ない。

あれが、執着していない人の態度なのか、私は不思議で仕方がない。

あんなに構ってちゃんで、あんなに甘ったるくて、あんなに人の世話をしてきて、こんな高いプレゼントまでしようとしてきて。

この人だって、私を囲ってるだかなんだか話していたのに。

「嘘、ついてるの？」

「嘘？」

「人に執着しないような冷たい人には、見えないから」

「あぁ、だってあんなにわかりやすく執着してるの、君にだけだもん」

またもやサラッと、そんな衝撃的なことを、この人は簡単に言葉にしてきて……。

いや、嘘じゃん、絶対嘘、そんなわけない、そんな私にだけなんて都合良すぎ……いやよくない、よくない、何もよくない。

「嘘ついて騙そうとしてるの……？」

「いや、だから嘘じゃなくて……あぁ、嘘かと思いたい人か」

何やら考え込んだ男は、「あぁ、だから、そういうこと」なんて勝手に何かを納得していて。

何？今の会話で何がわかったっていうの……？

「君、好かれるのも嫌われるのも、怖いでしょう？」

それは、私の中の核心を突いた、矛盾する心。

息を、飲み込んだ。

その言葉は矛盾している。

けれどまさに、私の心を表した、そのままの言葉で。

「信じたいけど信じられない、解ってるけど解りたくない、救われたいけど救われたくない。そういった『歪み』があるわけね」

――嫌だ。

嫌だ、この人と話しているのが嫌だ。

脅されたりなんてしてないし、大声を出されたわけでもない。

でも怖い、すごく怖い、逃げ出したい。

それを、知りたくない。

その『歪み』から、私は逃げ続けていたいから。

苦しくなりたくないから。

「まぁ、あんなことがあれば人を信じられなくもなるか」

私の気持ちなんて置いて、男は話を進める。

あんなこと……私に起きた『あんなこと』？

この人が知っている、私についての、こと……？

「あなたは……私の何を知ってるの？」

私の知っていることを知っているの？

私の知らないことまで知っているの？

『加害者』について、どこまで知っているの？

ユラと『加害者』の関係も、知っているの……？

私はユラを、どこまで信じていいの……？

「知りたい？」

知りたい、知りたくない、怖い、逃げ出したい、けれど知りたい。

私は悩みながらも、けれど『加害者』の情報が少しでも知れるならと、心を震わせて男に頷く。

自分の気持ちからは逃げていたくても、『加害者』を許せないという思いは、変わらない。

「そう。いい眼してるね、嫌いじゃないよ」

そう返してきた男は目を細めると、私の方に体を傾けて近付き、静かな声で口にした。

「俺ね、こう見えて拷問の指揮官してんの」

「……拷問？」

「そ。苦しめて情報吐かせる人」

可愛い顔の彼は、そう言ってまた怪しく笑みを浮かべるけれど、さっきまでと違った禍々しいオーラをまとっているような錯覚が起きた。

可愛い顔して、拷問、なんて。

縁のないようなそんな言葉を、この人はその指揮官だと、そう言った……。

本当？嘘？そんなこと本当に現実的にあるの？それは口に出して言っていい情報なの……？

混乱する私に、追い打ちをかけるように彼は話す。

「君の『加害者』二人、うちに回されてきてるよ」

『加害者』『二人』……？

二人……？

あの場に二人いたということ？

それとも実行犯と別にもう一人いたってこと？

私は犯人の顔を見ていない。

そんなことよりお腹を守ることに必死で、相手の顔なんて見ていなかった。

それでも守れていなかったのだけど。

だから犯人が何人いたのかというのも見ていないし、どんな人だったのかも、男なのか女なのか、そんな簡単なこともわからない。

けれど、この人は知っている。

『二人』と言った。

犯人が二人いる、その二人はこの人の『拷問』のお仕事に回されている。

「まぁあの頭の弱い二人に吐けるような情報ももうないんだけどさ。ゆーがねぇ……」

「……ユラ、が？」

「うん、俺らが行くまで生かしといてーっていうから。使えないし早く処分したいんだけど、特別に取っといてるわけ」

ぐいーっと手を上げて伸びをした男は、首をコキコキと曲げて体をほぐしている。

一見あどけない仕草なのに『拷問』という言葉を聞いたあとじゃそんな姿すらも怖く感じる。

表情を変えずに話しているのが、不気味。

「そのさ、『俺ら』っていうの、君とゆーのことでしょう？」

「……え？」

「だから、君の『何か』をゆーは待ってるんだよ。その後『加害者』に接触する予定だから、俺らんとこであの二人を処分できない」

私の『何か』を待っている？

私と、『加害者』に接触する予定……？

「そんなこと聞いてない」

「だろうねぇ。まぁ、だから君がゆーに向ける感情とか行動とかは俺らの仕事にも影響出てるわけ。わかった？」

「……何をすれば、その『加害者』に接触できるの？」

「それはゆーの頭の中にしか答えはないなぁ」

『正解』が分からない限りは、私の取るべき選択肢がわからない。

直接ユラに聞く？

いや、誰にも話してないくらいなら、きっと私にも教えてくれないだろう。

あの人相手にカマかけたりってのも現実的じゃない。

絶対負ける、心理戦で挑めば絶対こっちが不利。

「まぁ『加害者』は俺たちの管轄内にいるからさ、いざとなったら君ひとりで来てもいいよ？」

『ひとりで来ても』……？

考え込んでいた思考の中から現実にスッと戻ってくる。

今、この男が話した選択肢は、今まで私の中にもユラの中からも出なかった選択肢、で。

「え……いいの？」

「別に俺、ゆーの計画に乗ってるわけじゃないし、君の家とかの情報もこっちは知ってるから、いざとなれば連絡くれれば行くよ」

はい、と言って渡された小さな紙は、名刺。

そこにシンプルな字で書かれている名前と、連絡先。

「佐渡（さわたり）、さん？」

「それ、水に溶ける紙使ってるから。番号覚えたらトイレにでも流してくれる？」

「え……？」

「覚えんの、苦手な人？」

いや、え、そんな名刺ある……？

溶ける？溶けるの？なんで？

「俺達の扱ってる情報ってさ、下手したら殺されるレベルのものなんだよね。ゆーも大体引きこもってるでしょ？」

「情報……」

「あれ、ゆー話してないの？」

何の話しを、されてるのか？

殺されるレベル？情報？

名刺の証拠隠滅、拷問、仕事仲間、それにあの二重扉の部屋……。

「……情報を扱う、お仕事？」

「そ。人に首を狙われるレベルの情報を扱うお仕事」

目を細めて笑う男が言う話は、現実的じゃないように思えたけれど、それが嘘だとも思えなかった。

まって、私、実はとんでもない人の所に転がり込んでいたんじゃないだろうか？

確かに、確かに私も首を狙っていたうちの一人だ。

けれど今の話から察するに、ユラも普段からその首を狙われていたということ？

そんな状態で私を懐に潜り込ませたの？

「ユラって、死にたいの？」

「別に死にたくはないと思うけど」

「私……だって、私」

もし、本当に私が殺戮者だったり、ユラを騙して殺しにくる人だったら、どうしてたの？

家に滅多に人も来ないのに、こんな所に赤の他人を招き入れて……。

よく考えても、よくよく考えなくても、この関係がおかしいのは明らかだし、そんな立場の中でわざわざ敵を招き入れるなんて……理解できない。

「私……ユラを殺すために、いるの」

「ふぅん？」

それは、この人の最初の問いかけに対する答えでもあった。

「ユラが……ユラが加害者の『責任者』だからって、私に殺しに来ていいって……この家に」

「それで君がここに居るってこと？」

「……そう」

ふむふむ、と男は頷いて、「責任者ねぇ」と呟く。

そういえば、『責任者』って意味もまだ、わかっていなかった。

『加害者』とどんな繋がりを持った『責任者』なのか。

その事にも一切、あれ以来触れていない。

「まぁ、確かに『責任者』っちゃー『責任者』か」

「……どういうこと？」

彼は腕を組んで体を左右に揺らしながら、またどう説明しようかと言葉を選ぶ。

「んー……まぁ、ゆーの仕事って『監視』とか、人の『誘導』とかなんだよね」

そう話しながら、人差し指を振ってジェスチャーしてくる。

ただただその可愛さだけは伝わってくるけれど、どんなイメージで指を動かしているのかは残念ながら伝わってこない。

「その『監視』してるターゲットを追ってる時に、ターゲットが君の事件を起こしてたわけ。だからゆーの管轄内での『責任者』というか……」

「伝わる？」って聞かれるけれど、解るような、解らないような……。

仕事上での責任者で、『加害者』に直接関わってた責任者ってわけじゃないのかな？というのは、なんとなくわかった。

ということは、本格的にユラは『加害者』側の人間ではないというわけだ。

いいように騙されていた！！

ユラの嘘つき！！

……優しすぎる、嘘つき。

初めて会った時の彼を思い出し、ふっと口から息が漏れる。

呆れる、けれど、それに私は確実に助けられた。

例え罪悪感なのか気分なのか、そんなのが私を助けた理由だったとしても。

「君の事件の前、ターゲットが起こした事件を追っているうちに君に加害した。それをゆーは監視はしていても防げなかった。って意味の『責任者』だとは思う。それ以前に『加害者』とゆーが関わってたことはなかったはずだから」

「やっと謎が解けて、ちょっとすっきりした」

それが本当なのなら、もしかして私が『落とされた』所も、ゆーはどこかからか見ていたんだろうか。

「教えてくれて、ありがとう」

「別にいーよ」

「で、けしかけるってこんなもんでいいの？」

「あぁ、十分だよ」

男が部屋を出ていった後、密かにそんな会話があったことを、私は知らない。