壊し愛（統合版）

4．🛌☕️

──その子は

まだ名前もなくて

性別もわからなくて

クズの一部を持ち合わせていたとしても

その子はその子でしかなくて

クズなんて関係なしに、愛せる自信があった。

私がこの世に生まれてきてから初めて

本当に一番、一番大切にしたいと思えた子で

どんなに小さくても

愛しくて

可愛くて

どんなに吐き気や体質変化で苦しんで

なにもかもが初めてで

わからないことだらけで

頼れる人なんていなくて

たくさんたくさん混乱していた時も

その存在を感じられるだけで

苦しみなんてチャラに出来ちゃうくらい

心の底から愛しくて

可愛くて、悶えてしまうくらいに嬉しくて

愛したくて、愛したくて

早く君に会いたくて

会えるまでの長いその期間が、もどかしくて

白黒の画面に写った君が

だんだんと大きくなってくる様子が見られると

また、少し大きくなったんだねって

その成長を感じでまた、嬉しくなって

これが『幸せ』なのかなって

ゆるりと腹部を、癖になるくらいにたくさん撫でて

毎日毎日、ずっとずっと、気付いたら撫でていて

それはもうめいいっぱいに

私の全てを持って

愛して生きたくて

愛を、教えたかった。

私の知り得なかったその愛を

全部全部全部込めて、教えたかった。

どんなに愛していても

どんなに大事で、気を付けていても

なくなる時は、一瞬だった

絶望なんて言葉じゃ足りない

なにも、なくなった。

真っ白な部屋で目覚めて、その事実を知った時にはもう

私の全ては、なくなったの。

大事にしていた、私の愛は、心は、私たちの未来は

もうなにも、なくなっていたの。

幸せを感じてしまうと、ふと怖くなるのだ。

あの突き刺すような痛みの記憶と共に、ふと消えてなくなってしまうんじゃないかって。

私に、幸せを与えられる資格なんて、ないんじゃないかって。

「あなたは、そう考えてしまうのね」

私のそんな呟きに、彼女はいつものように応えてくれる。

今週も来たその女の人と、今日もまた、お話の時間が進んでいた。

「私が……そう考えてる？」

彼女はそれに、ゆったりとした微笑みで返してくる。

私の言葉に否定もせず、ただその事実を言葉にされる。

そう返されると、これはただ自分の考えてる気持ちなのだと、一歩引いた見方で受け取れたように感じた。

幸せ……って定義は、難しい。

どこのラインから幸せで、どこのラインまで普通なのか、曖昧に感じる。

だから、実は幸せだと思ってたあの数ヶ月すら、実は幸せなんてものじゃなかったのではないか？とか、そんなことまで考えてしまう。

「あなたは苦しんでいる人を見て、その人に『幸せを与えられる資格がない』なんて言える？」

その問いかけに、私は口を噤む。

そんなこと、他人に言えるわけが無い、その言葉がその人の心を刺すのが想像でもわかってしまうから。

私は首を横に振る、自分にしかそんな言葉は投げかけられないから。

「なんで自分自身には、傷付ける言葉をぶつけちゃうんだろうね」

「……わか、らない」

なぜ、自分を傷付けるのか。

なぜだろう、癖のようになっていて、考えたこともなかったけれど……確かに、自分で自分を傷付ける必要性がわからない。

「その言葉は、本当に自分から湧き出してきた言葉なのかしら？」

「え？」

「他人から言われてきた言葉、ではない？」

女の人の言葉を聞いて、『自分の気持ち』がわからなくなる。

確かに他人から言われてきた言葉でもある、けれど自分でも思っている言葉でもある。

でも、その他人からの言葉がなければ、本当にその言葉を自分で思って、自分にぶつけていただろうか……？

「……わからない」

私はベッドに横向きに寝転んで、少し頭を休めようとした。

ぐるぐると渦巻く不安を言葉にして行くのは、難しい、疲れる。

私に幸せなんて、与えられないんじゃないかって、そう考えていた。

神様がそう、導いているんじゃないかって。

「苦しんだ経験があると、幸せなんて自分には訪れないって思っちゃう人は、結構いるのよ」

「……本当に？おかしくない？私変じゃない？」

「いるのよ。大丈夫、あなただけじゃないわ」

自分だけじゃない、こんな意味のわからない悩みを抱え込んでいるのは自分だけじゃない。

それを聴けただけでも、すっと肩の力が抜けていくのがわかった。

ずっとずっと、私から見た世界にいる人たちはみんな幸せそうに見えていて。

私にもそんな風に笑えるようになる日が来るのかなって、憧れたりもしていて。

けれど、大切なものを失った時にまた、私は、私なんて、私になんか幸せは訪れてくれない、なんて。

ずっとそんな考えに、ぐるぐると、ぐるぐると、終わりの見えない悩みに囚われ続けていた。

「他人と自分を比べないで。過去と今は違う、変わって行くことが当たり前なのだと、理解して」

女の人は、私の様子を伺いつつ、また口を開く。

部屋のソファーに座って話す彼女の表情もまた、微笑みから変わらない。

あの男のように、私の影響を受けて表情や態度が変わるなんてことが、ない。

安定しているというか、どっしりとしているというか。

『自分を持っている人ほど、流されにくくてコントロールが効く』

ふと、ついこの前あの男が話していた言葉を思い返す。

彼女もまた、自分をコントロール出来ている人ということなんだろうか。

「あなたは……人に流されたり、人と比べたり、しないの？」

気付いたら、彼女の瞳へ真っ直ぐ向けて、そう自分から尋ねていた。

この前の男の言葉が、ずっと頭の端にあって。

なぜ、どうしたら、そんな風に人の目を気にせずに生きていけるのか、私にはわからないから。

私も、そんな風に生きて行けたら、騙されずに済んだり、こんなに悩まなくてよくなるのかな、と思って。

彼女は少し息を飲む。

ずっと微笑みを向けていた彼女が、珍しく一瞬真顔を見せてから、再び表情を戻した。

そして少し言葉を選んでから、口が開かれる。

「私もね、人一倍不安が強いし、流されやすかったのよ」

苦笑いでそう答えてくれた彼女に、今度は私が目を丸くする。

それはまさか、想定してもいなかった答えだったから。

「不安がないと自分を見つめる機会も訪れない。不安があるから、人の心や自分の心に興味が向くの」

その言葉の意味を噛みしめるように、ゆっくりとゆっくりと、反芻する。

この恐怖心や不安が、自分を知りたいというきっかけになっている、ということか。

そして彼女もまた私のように不安な頃があって、自分を知って、それから今、私とこういうお話をしている。

「私と、一緒……？」

「えぇ、一緒ね」

少しだけ、少しだけ彼女との共通点に、胸がほかほかとした。

「あの子だってそうよ」

そう付け足された言葉に、「あの子……？」と一瞬悩み、けれど私と彼女の共通の知り合いはこの家の主しかいないので、きっと彼のことなのだと予想がつく。

そういえば、彼女とあの男の関係って……なんなんだろうか。

そう考えてしまった時、急に芯が冷めたように感じた。

彼女は珍しく大きなため息を吐きながら顔を歪めて話す。

「今じゃこんな馬鹿みたいなことして……昔は凄く臆病な子だったのだけど」

胸の奥が、ギュッと締められるような感覚に襲われる。

強く痛むわけではないのに、心が、あまりこの話を聞きたがっていないように感じる。

彼女から見た、彼の話を聞きたくない。

「……あの男の話は、どうでもいいの」

「あ、ごめんなさい、嫌だった？」

「……えと、情を湧かせたくない、から」

嘘だ。

情なんてもう、今更なことだ。

あの男のことをもう、どれだけ許している？

どれだけ心の隙間に付け入られている？

どれだけなくなることを、恐れ始めている……？

ジクジクと、鈍い痛みを感じる。

……実際に痛んでいるのか、単に記憶が痛みを再現しているだけなのか、腹部が鈍く痛む。

なくなる、そう思うと、記憶の中の痛みがまた、私を支配する。

「あなた、顔色が悪くなって来ていない？」

またお腹をさする私は、もうそこには何もないとわかっているけれども、私は……それを未だにちゃんと心から解っているわけではないのかもしれない。

ふとした恐怖と共に、この痛みが沸き起こる。

体が覚えてしまっているのだろうか、その瞬間は酷く苦しくなって、虚しくて、喪失感が強くなる。

幸せの絶頂から、足場が急に無くなったように突き落とされた、あの時の記憶が。

喉が絞まる、呼吸が浅くなって手足がじわりと痺れ、震えて来る。

はぁ、はぁと乱れる呼吸に、彼女が駆け寄って私の背に手をかけるが、それを無意識に振り払っていた。

それを見て彼女が何か言葉をかけてから、慌てるように部屋を出ていく。

声が聞こえる、焦る声が、遠く遠くから聞こえる。

寒気なのか熱いのか解らない温度を感じて、ぶわっと冷や汗が全身から湧き出すような感覚があった。

遠くから聞こえる足音、吸っても吸っても吸えない息、酷く恐怖心が強くなって来て枕を抱え込む。

筋肉が、ギュッと継続的に縮んでいて、酷く疲れているのに力が抜けてくれなくて。

ドクドクと速い心音が耳元で聴こえるくらい、鼓動が速くて、大きくて。

気持ち悪い、疲れた、息をしたい、心臓が煩い、怖い、腕も足もお腹も筋肉が締め付けられて痛い、怖い、息が出来ない。

私、このまま死――で――――は――？

「――ね」

低い声が、耳の奥まで届いてきた。

それは、何度も何度も私を呼んで、何度も何度も頭を撫でる、聴き慣れた低い声。

その男には教えていないはずの、私の――。

トン、トン、トンとゆっくりとした一定間隔で優しく背中を叩かれて、それに合わせて「吐いて」「吸って」と聴こえてくるそれに、呼吸を合わせる。

ギュッと瞑っていた目の力が緩んで来て、ゆっくりと目を開けば、涙で潤んだ世界から見えるのは、私の腕と、握りしめた枕。

すぐ近くに感じる、大きな体。

息がゆっくりと、肺に入っていく。

視界に映ったその大きな手を見つけて、思わずその手の上に被せた手を握りしめていた。

背を優しく叩くその温かさは、変わらない。

どれくらい経っただろう、緊張が緩んできた私の意識は深い深い所まで落ちていて、瞼が閉じようとするのに抵抗する。

けれど、ふと暗くなった視界に完全に意識が落ちそうになる。

「おやすみ」

その低い声は、私を深い深い眠りへと誘った。

目が覚めると、橙色に染まった空に、うろこ雲が浮かんでいた。

「……朝なのか夕なのか」

一瞬迷ったけれど、茜色から藍色のグラデーションになっている方向からして、夕方のようだった。

私は数時間寝ていたようで、目が覚める前の微かな記憶を辿っていく。

確か、発作のような感じに呼吸が出来なくなって、あまりにも筋肉がガチガチで呼吸も出来なくて恐怖が爆発したようで……息もうまく出来なくてこのまま死んでしまうんじゃないかと思ったところで――？

あれ、でもあの時枕を抱き込んで丸くなっていたはずなのに、今はちゃんと布団をかぶって枕を頭の下に敷いている。

それになんだか片手が生暖かくて、ぎゅっと圧を感じるような……。

そこまで意識がはっきりしてから、その片手に視線を向けると、男の瞳と目が合った。

「……」

「おはよう」

「……キモ」

どうやら片手は男によって握られていたらしい。

引っ張ってその手から抜き取ろうするけれど力が入らず、力を入れた腕が痛い。

なにこれ、筋肉痛？

「弁明しておくと、これは君が手を離さなかったから握ってるだけだからね」

「嘘だ、握られてるし」

「それは君の手が緩んだから離れないように、また握り返しただけ」

茜色の光を浴びて藍色の髪がその色に染まる。

夕空のような色合いのその髪に、眼を奪われる。

そんな彼のふわりとしたいつも通りの笑みは健在で、呆れて体から力が抜けた。

確か、意識がなくなる前に聴こえた声は、この男のものだったはず。

その声に、背に感じる一定間隔の温もりに、安心感から力が抜けていった感覚は、まだ記憶に新しい。

話していた内容はほとんど覚えていないけれど、「吐いて」「吸って」という指示に集中して、長い時間その通りにゆっくりと呼吸していたことは覚えている。

あんな状況で、あんなに安心して体を預けられるなんて、思ってもいなかった。

「あれ、なんだったんだろ」

あの時、男は動揺を見せなかった。

それは何かを知っていて、対策も知っていたからじゃないだろうかと思って、そう口に出していた。

またあの得体の知れない恐怖心が、体の異変が、私の体を支配した時、私一人の時に起こしたら……そう思うと怖くて、少しでも何か知っていることがあるのなら、知りたくて。

もうあんな怖い思いは、したくなくて、彼に尋ねた。

「発作のこと？」

「やっぱり、アレ、発作なの？」

喘息とかアレルギーとか、そういった発作とも無縁だった私には、呼吸が苦しくて死にそうになる体験なんてしたことがなくて。

だから急に起こったソレに、酷く恐怖心を植え付けられた。

もしまた起こしたら、一人の時に起こしたら、もしこの一度きりじゃなくてこの先ずっと起こすことになったら……。

そう思ってしまうと、また喉が絞まって、苦しく感じて来る。

「発作を起す前、なにか考えていなかった？」

「なにか……？」

「怖いこととか、嫌なこととか……過去のこととか」

思い当たるのは、記憶の中の『痛み』、幸せの絶頂から突き落とされる恐怖、そしてあの女の人がこの男の話をしようとしたこと。

呼吸がまた少し荒くなってきた時、男が布団の上から私を抱きしめて来て、思考が止まる。

「ごめん、思い出さなくていい、今ので見当は付いた」

首の下に回る腕、首元に埋められるその頭、ふわりと香る彼の香り。

その頬をまた、優しく押し付けられる。

大きな安心感に包まれて、悔しいけれど荒れて来た呼吸が落ち着いてくる。

「あれは、不安が強くなり過ぎて起こったものだろうから、思い返すことを後回しにしよう」

「不安……？」

不安で、あんなに死ぬような思いをしたと、この男は言っているのだろうか。

本気で言ってる？本当に？からかってんの？

だって私、本当に足元が崩れて落とされる時のような恐怖感に襲われて、脈が耳元ですごく速く聞こえて、首を絞められて、今全身が筋肉痛にまでなっているのに？

「……うそだ、私死ぬかと思ったくらいなのに……」

「うん、本当。ストレス反応のひとつにそういう症状もある。君が部屋のものを壊したり、歩道橋から落ちようとしたり、午前中は動きにくかったり、夜眠りにくかったり、ご飯が受け付けないのも、みんな君のストレスの症状だから、在り得る」

「……は？」

今聞いた言葉の羅列が、頭の中でぐるぐると回る。

確かに自分の情緒が不安定だとは思っていた。

ストレス……と言われてしまえば、そうなんだろう。

愛したかった人を一人失って、ストレスを感じないはずがない。

けれど、それとあの死にそうな息苦しさが、すぐに結びついてはくれなくて、実感が出来ない。

その時、ふと視界に入った、机の上にある銀色のシート。

それじゃ、あれは……。

「私の飲んでる薬って、もしかしてそれに関わってる？」

そう男に聞くと、「あぁ、そうだね」と柔らかく返して頭を撫でられる。

「精神の安定や不安に関わっている脳の物質があるんだけど、その出される量が少ないから不安や恐怖心に飲み込まれている。それが君の今の状態」

「出が悪いってこと？」

男はくすくす笑って「言い方……っ」とまた言って笑う。

言い方くらいスルーしてほしい、すぐにまとまんなかったんだ。

「そう。だからその物質がちゃんと満たされるように、薬を飲んでる。そしたらちゃんと一時的には安定してくるはずだからね」

私が意味も解らず医師に言われた通りに飲んでいた薬にそんな意味があったとは、知らなかった……というか、もしかしたら説明を聞いていたけど覚えていなかっただけかもしれないけれど。

一時的には、安定している、のか。

その『一時的』というのが、やけに引っ掛かった。

「それじゃあ私はこの先ずっと薬を飲み続けるか、オカシイままってこと？」

また心にモヤがかかる。

暗くて、黒くて、ドロッとしていて、普通の人の思考から外れたもの。

人を殺したいと、憎くて憎くて、頭がおかしくなりそうな、あんな衝動感も、ずっとこの先、終わりがないのだろうか……。

「君の認知が……考え方が歪んでいる所をどれだけ改善できるか、それ次第だよ。あと、別におかしいことじゃないからね」

考え方を歪めて来た張本人が何を言っているんだろうかと呆れ気味に思い、男に向かってため息を吐く。

そもそも殺人衝動なんてものは最初は起こっていなかったはずなのに、あの歩道橋の一件でこの男にそそのかされて、今こうなっているのだ。

それも最近になってようやく気付いたことだけれども。

「そんな耳元で溜め息を吐かれたら、ちょっと反応しちゃうじゃないか」

「ちょっと待って、当てつけで吐いた溜め息で勝手に発情しないでくれる？」

むくりと男が体を起こしたことで、正面からその顔と対面する。

そこには怪しい瞳がこちらを覗き込んでいて、嫌な予感しかしない展開に背筋がひやりとした。

「ちょっと……変なタイミングで起き上がらないでよ」

「ほら、不安なことを考えなくなったら、呼吸が安定してきた」

ゆるりと喉元に置かれた手が、首をゆるやかに撫でる。

そこに苦しみはないけれど、ごくりと息を飲む喉が、揺れる。

「君は自分を責めすぎるし、人に流されやすくて自分の気持ちが後回しだ」

「……」

頬を撫でながらまた真面目な話をされて、拒否したくてもできない状況になっている。

自分のことなのだから話を聞きたい、けれど、今度は唇をするりと撫でるその指に顔を背ける。

いつものように全力の拒絶が、出来ない。

「子供の頃からの癖は直すのが難しいけど、直せないわけじゃない」

耳に流れる指が、耳の窪みに沿って撫で付け、ぞわりと肌が反応を示す。

この手の動きだけでもやめさせようと男に向かって口を開くが、その中にするりと親指を入れられ、下あごを撫でられる。

「考えすぎる癖をどうにかしないと、再発しやすいんだよ。さっきの息苦しさの件も含めてね」

軽くその指を噛んで歯ぎしりのように擦り合わせると、ようやくその指は外される。

何するんだこの変態。

自由になったその口で、ようやくずっと頭にあった質問を投げかけることが出来た。

「その、息苦しかったやつ、どうすればいいのか知ってんの？」

そもそも当初聞き出したかった話はそれだ。

この男は何か知ってる、そう思って話を聞いてたのに、勝手にいじり始めないでほしい。

こっちは命に関わるようで気が気じゃないんだ。

「あぁ、だからね、不安が元なんだから過剰に不安に思わなければ、さっきみたいに回避できるってこと。つまり……」

首の後ろに回った手が、後頭部を緩く掴むと、突然彼の顔が迫ってきて目をぎゅっと瞑る。

予想を裏切らずに触れたその唇に、そんな予感はしていたけれど、今日の『支払い』が始まることを察した。

「こうやってずっと、君の意識を俺でいっぱいにすれば解決するね」

「何も解決……っむ」

隙さえあれば降り注いでくるそれは、男の企み通りに私の思考を奪っていく。

もっとまともな方法を早急に教えていただきたいところだ。

「大丈夫、あの発作で直接死ぬことはないよ」

「……え。んむっ」

ようやく知りたかった確信に触れたと思いきや、再び彼のタイミングで塞がれてしまう唇に、何も反応できない。

反応する隙すらも与えられず、話は進んでいく。

「せいぜい一時間前後で治まるだろうから、起こしたら深く息を吐くことに意識を向けてゆっくりと呼吸して」

「それを一番最初に知りたかったんだけど」

「意地悪してたわけじゃないよ、順番に話したかっただけ」

そう言ってまた唇を塞ぐ男は、その後数十分、私を離してはくれなかった。

「そうか、過呼吸だったのか」

「そう。あの息苦しさは過呼吸だから、酸素を取り込みすぎなければいい」

長い長い千二百五十円分のキスの時間が終わり、息苦しかった正体を知る。

息が吸えないんじゃなくて、吸いきっていたからそれ以上吸えなくて苦しかったようだ。

正体が少しずつ分かってきて、対処法が見えてくる。

すると不思議なことに、冷静に対処できそうなイメージが見えてきたのだ。

怖いと思うからストレスを感じ、ストレスを感じて過呼吸を起こし、過呼吸からまた別の症状に繋がっていく。

その途中で何かしら防げれば、あの苦しみを感じずに過ごせるということ。

「怖いって感情は、その正体が見えないから、解らないから怖いんだよ」

「正体が解れば怖くなくなる？」

「うーん、モノによるけど、大体そうだね」

茜色だった空はもうすっかり藍色に染まっていて、キラキラと星が輝き主張している。

私の頭はもうすっきりとしていて、余計な恐怖心とはおさらばしていた。

この男のおかげと思うと、ちょっと癪に障るけど。

そういえば、と、ふと気付く。

ご覧の通り茜色が藍色になるまで……いや、むしろ青空の時から既にこの部屋にいただろうこの男は、今更ながらここにいても大丈夫なのだろうか？

いつもこの時間帯は、あの二重扉の部屋に引きこもっているんじゃなかっただろうか。

さらに言えば、意識が途切れる前に向かい合っていたあの女の人も、姿が見えない。

もう帰ったのだろうか。

いつも来てから一時間程で帰っていくから、きっともう帰ったのだろう。

少し罪悪感が湧く。

今日は人に迷惑を、かけ過ぎた。

「仕事……いいの？こんな時間まで私についてて」

「あぁ、まぁ大丈夫じゃないかな」

「そんなんでいいの？」

まぁ、私のせいではあるのだけど。

行き場のない罪悪感に苛まれていると、後頭部をゆるゆると男の手がまた撫でる。

「ほらまた、君は自分を責めすぎる」

そう言って額にまたひとつ、キスを落とされる。

そんなにわかりやすい顔をしているのだろうか、自分が少し疎ましい。

「要因は君でも、仕事より君に付いてることを選んだのは俺。むしろもっと心配かけていい」

「アンタ、心配してたの？あんな冷静だったのに？」

「心配してないとでも思われてたの？」

わからない、この男全然顔に出ないから。

今もまた眉は下がっているけれど、笑みを絶やしてはいない。

さすがに人の緊急事態の時にこんな甘ったるくて緩み切った笑みはしていなかっただろうけど……いや、そうであってほしい。

「心配することと冷静に対処することは別だから」

「それも、コントロールしてるってこと？」

「そうだね」

ふわりふわりと髪を撫でる彼が、ふと「あ」と何かに気付いたような反応を見せたので、なにかと注目する。

「忘れてた、ちょっと待ってて」

立ち上がった男はこの部屋の入口までゆるりと歩き、「点けるよ」と言ってからすぐ部屋の明かりが点される。

そして男が部屋から出て行き、突然一人にされた寂しさを……感じてしまっていた。

いや、あの男はそんなことを思うべき相手じゃない。

殺す相手、憎む相手──でも本当に？

憎むべきは『彼』なのだろうか？

それで『合ってる』のか？本当に？

迷いが出る。

私は本当に、このままここに居座り続けるべきなのだろうか。

ドアのノック音がしてそちらに顔を向けると、すぐに入ってきたその人と目が合う。

それは、帰っただろうと思っていた、女の人だった。

「あ………………、よかった、目が覚めたのね」

「……帰ってなかったの？」

だいぶ溜められた言葉に違和感を持ちつつ、まさか彼女がまだこの家にいたとは思っていなくて、パチパチと瞬きを繰り返した。

女の人は近くまで来てベッドの下に座ると、私の顔を覗き込んで、その心配そうな顔を向けてくる。

この人もこんな顔をすることがあるのか、やはり少し申し訳なく思う。

「突然だったから気が気じゃなくて……せめて目が覚めて安定した姿を確認してから帰りたくてね」

「仕事……とか、いいの？こんな時間まで……」

「え？あぁ、私今はほとんど主婦してるから。後はこの人に雇われてるだけなの」

「主婦……………………？」

え、主婦………………？

その聴き慣れた単語に、彼女に対する頭の中のイメージがもわもわと消えて散っていく。

主婦とは……あれ、まって主婦？え？

私の頭は混乱して、過去の話を思い返そうとするけれど、彼女の話なんてほとんど聞いたことがなくて断念する。

主婦って……既婚者、とかのイメージが……あるのだけど。

「………………ご結婚されて……？」

「え？えぇ！新婚真っ只中なのよ」

うふふ、と本当に幸せそうな笑みを向ける彼女、口に手を当てるその左手にはリングが煌めいていた。

そんな所、今まで気にしたことも無かったけれど。

その後ろにいる男との、関係、は……？

でもさっき雇われてるって言ってたから……いや、でも夫婦でも雇われることも可能？なのか？ちょっとよくわからなくなってきた。

視線が空を彷徨って、混乱する頭を落ち着けようとする。

それに私は一体、何の心配をしてこんなに悩んでいるのか？

じ……っと男の手元を見ようとするけれど、腕が組まれていて丁度見えない。

ドアの近くの壁にもたれかけて腕を組んでいるその男の腕から視線を上げると、バチッと目が合ったことによって、男がこちらをずっと見ていたことがわかる。

無意識に顔を顰めてしまった。

つい、条件反射で。

そのゆらりとした笑みを怪しく光らせて、男は尋ねて来る。

「もしかして俺が結婚相手かって疑われてる？」

「……いや、別に。アンタのことなんてどうでもいい、し」

「こんなに君しか見てないのに、まだ疑うの？」

「ややこしくなりそうな言い方しないでよ」

けれど、今の反応を見る限り、この女の人とは関係がなさそうで……。

スッと心の中のざわめきが落ち着いてしまったのを感じて、また眉間に皺を寄せた。

なぜざわめいてしまっていたのか、考えたくもない。

女の人は、「あら？あらあら？」なんて私と彼を交互に見てくるし、居心地が悪くなってきた。

「思っていたより仲良くやっているみたいね？」

「……は？」

それは、この男と私のことを指して言っているのだろうか？

いや、それ以外にこの部屋の登場人物なんていないんだけど。

「仲いいなんて言葉じゃ足りないよねぇ？」

「キモイキモイ、今ぞわってした、ほんと勘弁してほしい」

怪しい笑みに鳥肌が立ち、男から視線を逸らす。

この鳥肌がどういう意味を持っているのかなんて、解らないけれど。

嫌でも思い出してしまうのは、先程の『支払い』で……うわ、なんで私がこんなに取り乱さないといけないのか。

「あまりいじめないであげなさいよ」

女の人がそう注意すると、男は肩を上げて『やれやれ』といった動作をして、次の瞬間、その顔から突然笑みを消し去って女の人に向く。

その表情は、いつも私に向ける笑みとは違って、酷く冷めきっていた。

「アンタに口出しされることじゃない。いつまで居座ってる気？元気な顔確認出来たならさっさと出てって」

その男に、いつもの笑みは張り付いていなかった。

え、待ってどういうこと？

それは、いつも私が見ている彼とはかけ離れた表情に見えて、気持ちが少し陰る。

怒って、る……？

「あぁ……はいはい、そうね。邪魔者には退散してほしいのね」

「わかってるなら荷物まとめてさっさと帰って。なに馴れ馴れしく距離縮めてるの？許してないんだけど」

「まったく相変わらずで……」

溜め息を一つ吐いた女の人は私に向くと「ごめんなさい、帰るわね」と一言かけてくる。

「こちらこそ……心配かけてごめん」

「いいのよ、困ったらいつでも……あぁでもケータイも持たされてないんだったわね……」

「連絡する必要性がない」

「女の子には女の相談相手がいた方がいいでしょう？週一なんかじゃ足りないわよ、発作まで起こしたのに……」

「……そこは少し考えておくから、もう帰れ、ほんとに」

そこには、いつものような丁寧で甘ったるい態度の男はいなかった。

私の頭は再び混乱の淵に立たされる。

女の人が帰った後、再び男は私の部屋に入ってくると、いつもの笑みを浮かべていた。

あれ……さっきのは見間違いだった、のか……？

「ん？どうしたの？」

ゆるり、ふわり、私の知っている甘ったるい笑みがこちらに向く。

ベッドの淵に腰かけた男は、横になっている私の頬をするりと撫でた。

「さっき、怒ってた？」

「怒ってなんてないよ。ほら、これが怒ってるように見える？」

ゆっくりと額に近付いてくる顔が、いつも通り、そこに唇を落とす。

今日はもう抵抗する気力すらない私は、されるがままだ。

「あんなに出ていくのを急かさなくてもよかったと思うんだけど」

「早く二人きりになりたかったのに、ずっと居座ってるんだもん。いい加減嫌になるでしょう？」

そういえば、あの女の人とお医者さん以外、この家の出入りはほとんどない。

人がこの家に来るのを嫌がっていたのか？という結論に至るけれど、それなら私は本当にここに居ていいのだろうか？と少し不安に思えてくる。

いや、殺すために居座っているのだから、居ていいもなにもあるのか？という問題が残るけれど。

「もしかして、一人が好きな人間なの？」

「君と二人で居たい人間ではあるよ」

「またそうやって……はぁ」

やはりこの男の本心は、私には見えない。

口に出している言葉が本心だとも思えないし、それに私はこの男とこの先ずっと一緒には居られない。

「何考えてるの？俺以外のこと？」

「アンタとこの先ずっと居られるわけがないのに何ほざいてんだって話」

「……一緒に居られないと、思ってるの？」

「何言ってんの？私アンタを殺すためにここにいるんだけど。それが叶っても叶わなくても、一緒に居られるわけないでしょ」

じっと私を見つめる瞳から、視線を逸らす。

何、そんな寂しそうな顔で見てきてんの、意味解らない。

一緒に居られるわけないじゃん、解ってたことじゃん、そういう関係じゃん、私たち。

慣れ合ってる暇なんて、本当はないはずなの、私たち。

解ってる、私はもう今まで通りにこの男に牙を向け続けることが出来ない。

だから離れる理由を探している。

一緒には居られない、居られるわけないでしょう？

本気で刃を向けて来た相手と一緒になんて。

私たちの間に信頼関係なんて、成立するはずもないんだから。

男の表情から、笑みが消える。

また、怒らせただろうか？

「あの女と俺の関係、気になってたくせに」

「気になってない」

「頑固だよね、君」

「べつに、頑固とかじゃないし」

額に手の甲を当てて、男の顔が視界に入らないように、逃げている。

この男と一緒にいると、私の意思が揺らぎそうになる。

そんなのはダメ、私が私を許さない。

今更甘えるだなんて、許せない。

はぁ、という溜め息の音が聞こえたと思ったら、男が急に覆いかぶさって来て、耳元で囁く。

「姉貴、だよ」

「……。え？は？」

「あの女、姉貴」

二ヶ月過ごしてきてようやく判明した、あの女の人との関係性だった。

「お姉さん……？待ってお姉さんにあの態度取ってたってこと？」

「姉貴に関わらず、俺はいつもあんな感じだよ」

「え、だって……じゃあなんで私には無駄に笑顔振りまいて来てんの？」

「それは前に言ったよ、ミラーリング効果狙って……。まぁ今は単純に一緒にいる時間が嬉しいから自然となるんだけど」

どこからどこまでが本当なのか、というのは私には測れないけれど、どうやらミラーリングのやつはこの笑顔と直結していたらしい。

あれ、待って、それって私に笑えって思ってたってこと？

「意味が、わからない……」

私に笑ってほしかったということだろう意味が、解らない。

あの歩道橋で会ったのが初めてだった、それ以前に会ったことなんてないはず。

私に良くしてくる理由がない、はずなんだ。

責任者だから、私に気遣うのだろうか？

それとも事実上の加害者から私を引き離すため？

私をここから――出さない為……？

疑い出したら止まらない、ぐちゃぐちゃとしたその感情は、正解の解らない答えを探そうと必死になる。

――そんなこと信じたくないと、裏切られたくないと、疑う気持ちを片っ端から否定して安心を求めてる。

そんな、甘っちょろい考えに浸ってはいけないと、もう一人の私が責め立てる。

私は……どうすればいいのか。

どうしたいのか。

どの答えを欲しているのか……。

ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ、廻り、廻る。

「また何か、考えているでしょう？」

正解がこの男の中にあったとして、その正解をその口から聴いたとしてもきっと……疑いに疑いを重ねてしまう今の私は、何も信じられないままなんだろう。

「別に、何も考えてない」

聞けるチャンスは貰っているのに、話せない。

話したくない、話すことが怖い。

まとまらない言葉、本当の自分の気持ちは一体、どこにあるのか。

話してしまえば答えを聞けるかもしれない。

けれどそれをこんな私は、素直に受け止めずに疑ってしまいそうで。

何を聞いても、どんなに私の欲してる言葉を聞いても、私は……信じられなくて、怖くて、疑ってしまって。

そしてまた、勝手に苦しむのだろう。

そんな気持ちのまま、聞けない。

そんな私を見て、男はまたひとつ溜め息を吐いてから立ち上がる。

その手を思わず引き止めそうになるけれど、ぐっと我慢した。

「頑固で頑固で頑固な君はもう、今日は休んだ方がいいよね」

「……え？」

突然、何を言っているんだろう。

というかもうさっきまで寝てた（？）んだけど、何時間意識飛んでたのかはわからないけれど。

「ココア、飲むでしょう？」

「！！」

私は男の顔を見つめて赤べこのように頷いていた。

大変だ、こんな私でも欲望には敵わないようだ。

だってこの男の淹れるココアには形容しがたい魅力があって、何度も何度も求めてしまうのだ。

あの甘さ、ミルクのとろみ、カカオの濃い味――はぁ、唯一の癒し。

なんて浸っている間に、男がココアの入ったマグカップを部屋の机の上に置いてくれた。

筋肉に力の入りにくい私をベッドから起こして支えて、そのカップを握らせてくれる。

甘い甘いカカオのいい香りを堪能してから一口含めば、いつも通りのその味が口の中いっぱいに広がって幸せを感じる。

「今日はちょっとまだ早い時間帯だけど……まぁ休めるならたくさん休めた方がいいよね。俺も仕事あるしさ」

「……なんのこと？」

「ん？おいしい？」

「んん……おいし……」

ふわりと頭が弾むように心地よくなってきたと思えば、瞼が重くなってくる。

まだ少し、あと少し残っているココアが、男の手によって攫われてしまった。

まって、まだ飲み切って……ない、の、に……。

視界が真っ暗になる、それに抗う。

ふわりふわり、ここちがいい。

抗いきれない瞼が、開けなくなる。

ゆっくりと倒されて布団を被せられると、ほわほわとした布団にまたまどろみの中へと誘われる――。

「おやすみなさい。いい夢を」

意識の途切れる直前、そっと口付けの柔らかさを感じた。