第55話 2人と宮原旅館

 



 見渡せば、至る所に緑が広がり……音もなく静寂が漂う。

 そして、あらゆる場所から立ち上がる湯気と独特な硫黄の匂い。


「……すげぇな」

「ですね……」


 タクシーから降りた俺達の目の前に広がる景色は、まさしく雑誌や旅番組で目にするような絶景。

 日本の情緒が溢れるというのはこういう事だろうか? それだけ、俺がここ数年見ていた場所とは何もかもが違っていた。


 ヤバいな。見下ろせば色んな所から湯気が上がってるザ・温泉街じゃないか。真ん中に見えるのは公衆浴場か? それを囲むように広がる宿の数々。さすが鶴湯つるゆなんて地名が付くわけだ。


 なんてしみじみ思いながら、俺はゆっくりと後ろを振り向く。するとそこには……立派な門が待ち構え、その奥にはこれまたザ・旅館という建物が俺達を見下ろしていた。


 この景観だよ。デカイ門に、その先には3階建ての旅館。まさかこんな良いところに宿泊できるとは……どんなルート使ったんだ? まぁ監督さんもホラー界の巨匠と言われる程の人物だし、色々とあるんだろうけど。


「ここが今日から暫くお世話になる宮原旅館さんですね?」

「そうだよ? めちゃくちゃデカイ」

「私もそう思います。あらかじめネットで見たんですけど……画面では分からない存在感です」


 確かに俺もネットでは見ていたけど、良い意味で実物と異なる場合がありますを体現した感じだよ。

 まぁ正直温泉も料理も楽しみではあるけど……本来の目的は映画の撮影。俺が浮かれて……


「あぁもう~! 私なんかウキウキしてきちゃいましたっ! 早く行きましょ? 丈助さん!」


 って、おい~荷物は? しかもそんなに走って、怪我したらどうするんだよ!


「丈助さぁ~ん!」


 けど、その嬉しそうな顔はやっぱり反則だよな。


「はいはい。荷物持っていくから~」


 そんなこんなで、無事に暫くお世話になる旅館へと到着した俺達。どこか本来の目的を忘れかけているような気がするけど……笑美ちゃんの顔を見ると、ちょっとくらいは良いかと思ってしまう。


 ちなみにこの宮原旅館。撮影スタッフと出演者がお世話になるらしい。映画関係者からすれば、なんとナイスな対応だろう。それに、外見もさることながらネットでの評判もすこぶる良い。協力してくれたのか、監督のツテなのかは分からないけど……最高気分で撮影に臨めるのは間違いない。


 左側には2階建ての建物。正面には本館だろうか、3階建てでレトロ感あるれる立派な作り。右には別館の様な建物があり……辺りを囲む木々もあって、隠れ家的な雰囲気を醸し出す。

 ロケーションもバッチリ。源泉かけ流しの温泉。美味しい料理。どれもこれもが最高だ。


 マジでこんな良いところのお世話になっても良いのだろうか……


「早く早く~」

「はいよ~」


 っと、それを俺が考えても仕方ない。だったら、お世話になる旅館の人への挨拶はきっちりしないとな?

 笑美ちゃんが待ち構える入り口前までたどり着くと……俺はゆっくりとそのガラス戸を開けた。


「こんにちは」

「こ~んに~ちは~」

「は~い」




 ★




「ふぅ」


 気が付けば、辺りはすっかり暗くなり……月の光に照らされた木々の影が幻想的な雰囲気を醸し出す。

 そんな風景を見ながら、俺は広縁の椅子に座り何をする訳でもなくボーっとしていた。


 ……マジで最高だな。

 挨拶を終え、とりあえず部屋に通された俺達。女将さん達の話によると、撮影関係者の為に別館が貸し切り状態らしく……その時点で感動したもんだ。


 そして無事に監督らと合流。打ち合わせの後、始まった交流会も兼ねた晩ご飯。その豪華さに俺も笑美ちゃんも大満足だった。それにスタッフも出演者の皆も良い人ばっかりで……初日にして仲良くなれたと笑美ちゃんは大喜びだったよ。

 その後、監督らと軽い打ち合わせをし……こうして優雅に景色を眺めているわけだ。


 あぁ……しかも1人1部屋ってヤバいだろ。


 コンコン


 なんて完全にリラックスしていると、突然聞こえてきた部屋のノック音。


「は~い」

「丈助さ~ん? 入って良いですか?」


 返事の後に聞こえてきた声に……さらに嬉しさを感じる自分が居た。その聞き覚えのある声にダメだという答えはない。


「もちろん」


 ガラガラ


「お邪魔しま~す」


 こうして、現れたのは……もちろん笑美ちゃん。ただ、その様子はいつもとは違っていた。


「なっ……」


 こちらへと近づく笑美ちゃん。しかしながら、その格好はこの場にピッタリな浴衣姿。しかも温泉に行ってきたのか、若干の髪の濡れ具合と、顔の赤さが相まっていつも以上に色っぽい。さらにハーフアップのお蔭でチラチラ見えるうなじ。

 正直……色々とヤバい。


「どうしたんですか~?」


 そんな俺の感情を知ってか知らずか、目の前の椅子に座る笑美ちゃん。しかも前屈みにこちらを覗き込む姿勢は……はだけた胸元からその谷間が丸見えになる。さっきまでの優雅な一時はどこへやら。一瞬にして、別の何かとの戦いが始まってしまう。


 うっ……ダメだぞ? ここは家じゃない。落ち着け落ち着け……


「ふふっ。変なの~」


 普通に……普通に……変な事は考えるな。


「そうか? そういえば、もしかして温泉入った?」

「うん! めちゃくちゃ良かったよぉ?」


「そうか。俺も後で行こう」

「うんうん。あっ、そういえば……丈助さん?」


 ん? なんだ? 表情が変わった?


「なっ、なんだ?」

「女将さん達に見とれてたでしょ~?」

「はい?」


 女将さん? いや、確かに俺達が旅館に来た時……女将さん達が勢揃いしてくれたよ? 女将に若女将に女将見習いだっけ? 


「全員綺麗だったし……」


 たっ、確かに綺麗だったぞ? 最初三姉妹かと思ったくらいだ。


『女将のかえでと申します』

『若女将をさせて頂いてます。真白ましろと申します』

『見習いをさせてもらってます。千那ちなと申します』


 現館主の奥さんである楓さん。

 楓さんの子ども……長男さんのお嫁さんの真白さん。

 楓さんの次女である千那さん。


 和服に身を包んだ姿はそれは凄かったけど……俺の中の1番は……


「なんでだよ。笑美ちゃんが1番綺麗だって」


 決まってるだろ?


「本当?」


 そう言いながら、少し頬を膨らませる笑美ちゃん。笑顔だけじゃなく、時折見せるこういう表情もまた良い。

 そして、つくづく思い出してしまう。なんて美人で、可愛くて……離したくない人なんだろうって。


「本当だよ?」

「むぅ……信じられないなぁ」


 ったく、じゃあこれで信じてくれるかな?


「だって、丈助さ……んっ」


 納得いかないような表情を浮かべる笑美ちゃん。そんな彼女に分かってもらいたくて、俺はテーブルに手を付き身を乗り出す。

 そして、そっと……唇を重ねた。


「んっ……んんっ……はぁ……ずるいよぉ、いきなりなんて」

「これで分かってくれただろ?」

「うん……」


 月明かりに照らされた、笑美ちゃんの表情は……とんでもなく可愛かった。






「丈助さん?」

「うん?」


「足りません」

「えっ……」


「丈助さんが悪いんですよ……」

「えっ、笑美ちゃん!? 笑美ちゃ~ん!?」


「ふふっ。逃がしませんよ?」



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