最終話
――翌年。春――。
「オーライ、オーライ、オーライ……。はい! オッケー!」
引っ越し業者の大きなトラックが、完璧な角度で、小さな駐車場にぴったり収まった。
白い塗り壁に、オレンジ色の屋根。築30年。2LDKの小さな平屋の戸建てが、僕たちの新居だ。
小さなテラスと、1坪ほどの庭もある。
庭には、背の高いニオイシュロランの木が植わっていて、エキゾチックな南国リゾートの雰囲気を醸し出している。その脇に小さな花壇を作って朝顔を植えよう。
夏になったら、浴衣を着てはしゃぎながら、そこで花火をするあきの姿が容易に想像できた。
買わない選択などないほどに、僕たちはすぐにこの家を気に入った。
3人の作業員が手際よく家財道具を運び入れる。
外は春一番が吹いていて、まだ少し肌寒い。
作業員が僕たちの前を通り過ぎるたびに、あきは僕の腕をぎゅっと掴む。
あれから半年以上が経過したが、未だあきは癒えない傷を心に抱えたままだ。
あの日、5人の警察官が現場に駆け付け、股間から血を流し、のたうち回る三田と、手にナイフを持つ僕を交互に見て、こう叫んだ。
「救急車ーーー。救急車ーーーー」
その声で、僕は地べたにヘナヘナと座り込んだ。
「僕が、やりました」
そう言って、それらしくナイフを床に放り投げた。
あきは精神的なダメージから、声を失った。
目は腫れあがり、半開き。口から血を垂らし、まっすぐ歩く事もままならない状態の僕が、警察に連行されていく背後で、震えていた。
空気が抜けるように泣いていた声は、今も耳に残って離れる事はない。
事情聴取の時は、それがかえって都合がよく、三田の股間にナイフを突き立てたのは僕だという証言が通りやすかった。
三田自身もアレが使い物にならなくなったショックから記憶が欠落していて、あきにやられたのか、僕にやられたのか、はっきりとした記憶がないのだそうだ。
そのせいで、僕に対する傷害罪はチャラになってしまったが、争点はあきに対する強姦、暴行、脅迫、強要……。それだけは絶対に軽くしてやりたくなかったんだ。
三田の股間にナイフを突き立てたのは僕だという事にしなければならなかった。
三田の弁護士が何度かやって来て、示談を申し込んできたが、あきは決して首を縦にはふらなかった。
お金は一切いらない。一番重い刑罰を望みますと強い筆圧でノートに書いて叩きつけた。
同じ弁護士がなおの所にもやってきて、情状証人とやらを頼みこんで来たらしいが断ったそうだ。刑務所に収監された三田に、一度面会に行き三行半を突きつけ、それっきり会っていないと言っていた。
僕はというと、頭がい骨骨折、眼底骨折、鼻骨骨折、肋骨にも2本ひびが入っていて、余裕で正当防衛が成立した。
狙い通りだ!!
『刑務所から出てきたらお前ら真っ先にぶっ殺しに行くからなー』と言っていた三田のセリフはしっかり録音しており、証拠として提出した。それのお陰もある。
捜査は、アダルトビデオ制作会社のジュールにも及び、あきが出演した動画どころか、会社もろとも消滅した。
関係していた暴力団は薬物所持、違法サイト運営などなどで一斉摘発。かなり大きなニュースとなって、しばらく世間を賑わせていた。
三田の会社がどうなったのか僕はよく知らないが、警察の手入れを受けたのち、株主総会で代表である三田は解雇され、新たな社長が就任した事だろうと吉井が言っていた。
社名もすっかり変わっているらしい。
社員のためにもクリーンな企業となって立て直してほしいと願う。
あの事件をきっかけに、僕は完全リモートで在宅勤務が可能な製薬会社に転職した。
あきはちょっとしたきっかけで、パニックを起こしてしまうので怪我や事故につながらないよう、常に誰かが傍にいる必要がある。その役目は僕以外にいない。
僕が不甲斐ないばっかりに、こんな辛い思いをさせてしまった。
およそ30分ほどで、全ての荷物が運び込まれ、段ボールだらけの部屋に入った。
ちょうど陽の当たる段ボール箱の上ではハルが悠々と昼寝をしている。
「さて、これからが大変だぞ」
そう言って、僕にぴったりくっついて、離れようとしないあきのおでこに、コツンとおでこを当てた。
あきは声なく幸せそうな笑顔を咲かせ、僕に封筒を一枚差し出した。
宛名には整った右上がりの文字で、『智也へ』と書かれている。
糊付けしていない封を開き、中身を取り出す。
「手紙書いてくれたんだ。ありがとう」
言いたい事がきっとたくさんあるんだろうと思うと、じわっと目頭が熱くなる。心因性の失声症は終わりの見えない闘いなんだ。
「今読んでいい?」
と訊ねると、こくっと頷いた。
『智也へ
智也は覚えているかな? 一年前の今日、私たちは初めて出会ったんだよ。そんな記念すべき今日のために、手紙を書きました。
あの頃の私は誰からも愛された事がなくて、自分を大事にする事ができませんでした。自分でさえも、自分を愛する事ができなかった。
この一年、たくさんの事が起きては過ぎていきましたね。智也と出会わなければ負わずに済んだ傷もあるのかもしれない。
けどね、私はその傷さえも愛おしく思えるんだ。
だって、その痛みごと智也が優しく抱きしめて愛してくれるから。
もしも智也と出会わずに、無傷な人生があったとしても――。
今普通に笑っておしゃべりできている私がいたんだとしても――。
私はそんな物いらないの。
ボロボロに傷ついたとしても、体の一部分が機能しなくなったとしても、智也がいる人生がいい!
だから、智也にお願いがあります。
ごめんねってもう言わないで欲しい。
あの時、ああしていればこうしていれば、と智也が自分を責めるたびに苦しくなります。
声には出す事ができないけれど、いつもずっと、智也にありがとうって言ってるよ。
いつも感謝と大好きって気持ちだけなんだ。
だからもう、自分を責めないで。
楽しみにしていたお祭りの日は、二人とも入院してて、花火には行けなかったけれど、それも智也のせいじゃない。
悪い奴はもう、智也がやっつけてくれたので、私は安心して暮らせてます。
今年は、あの浴衣着るから花火大会に連れてってね。
絶対、絶対約束ね。
これからもずっとずっと愛してます。
出会ってくれて、ありがとう。
智也と過ごした時間全てが、愛おしくて大切な私の一部です。
あき』
とめどなく流れる涙と鼻水をごまかすように、体をテラスの方に向けた。
ニオイシュロランの葉が、春一番にあおられて、さわっと揺れる。
頬を流れる涙が、口の中に染みてきて、しょっぱくて温かい。
僕の背中にぴったりと体を寄せ、腰に腕を回しているあきの手をぎゅっと握る。
声に出すと泣いている事がバレるから、心の中で呟いた。
ありがとう。僕も愛してるよ。
了
・・・・・・・・・・・・・・
あとがきに続く
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