第3話 Side-なお 私の居場所
接触の悪そうな電灯は今にも点滅しそうにうす暗くなったり明るくなったりを繰り返す。自由奔放な虫たちが誘われるように集まり出して、そろそろパーティを始める時間。
真っすぐなコンクリートの階段を上ってすぐの部屋。
安っぽいミントグリーンのドア。遅い針金があれば簡単に開錠されてしまいそうな銀色の丸いノブ。
鍵穴にキーを差し込んで右に回すとガチャっと小気味よく開錠された。
キィーと小動物が鳴くような声を上げてドアが開く。
部屋で一日中暖められた空気は、外気よりも熱していて、一日の疲れをさらに重い物にする。
私に重くのしかかるのは、これから窓を全開にして、キッチンの換気扇をフル回転させて、部屋の喚起をしなければならないという任務ではない。
――あいつは犯罪者だよ。
と言ったトモ君の言葉である。
浮気ではなく、犯罪――。
三田は一体どんな罪を犯したのか。
知りたいようで、知りたくないようで。
複雑に絡み合う思考の奥に見える本音に従って、体を突き動かす。
ヒールを行儀悪く脱ぎ捨て、生ぬるいフローリングを踏んだ。
いつもなら、真っ先に冷蔵庫に向かって作り置きしていた水出しの麦茶で喉を潤すのだが、今日はそうせずに部屋をぐるっと見回した。
かつては我が家だった、彼と暮らした部屋。その記憶はまだ色褪せてなくて生々しい。
ユーフォ―キャッチャーで一緒に苦労して取ったぬいぐるみたちも、壁に貼られていた二人の写真も、一緒に揃えた食器も、全てなくなっていて。
ここにはもう、私の居場所なんてない事を思い知らされる。そんな事はとっくにわかっていたはずなのに――。
ベッドの上に脱ぎっぱなしの部屋着、その下にくちゃっと丸まっているストッキング、テーブルの上に無秩序に並んだ化粧品。ベッドサイドのコンセントに差しっぱなしの充電器。
唯一であると言える私の痕跡たちを、シャネルの紙バッグに手あたり次第放り込んだ。
きっと彼には彼なりの弁明もあるだろう。それを聞かずして、トモ君の話だけを聞けば、私はきっと気が狂いそうになるに違いない。
事の真相は、本人にから聞きたい。
明け透けの真実より、オブラートに包んで、嘘で色を付け、飾り立てた作り話でいい。
私はそれを信じたい。
三田君の言葉で聞きたい。
だって、私の居場所はもう、あそこしかないのだから。
キッチンに置きっぱなしだった食器を片付けて、ようやくテーブルの脇に腰を落ち着けた。
頬を伝う汗を手の甲でぬぐい、ハンドバッグから手帳を取り出し、メモを一枚破く。
そこに、メッセージを書いた。
―トモ君へ
言う事聞かずにごめんなさい。私はやっぱり三田君の所へ戻ります。
泊めてくれた事。いろいろと気にかけてくれた事。ありがとう。
彼女を大切にね。
バイバイ
PS 部屋の鍵は郵便受けに入れておきます。
―なお
それをテーブルに置いて、部屋を出た。
ギィーーっという音と共に、ドアは静かに幕を引くように閉じた。
鍵を回し、郵便受けからスペアキーを落とすと、ガシャンと派手な音が響いて終わりを告げた。
今度こそ本当に――。バイバイ、トモ君。
心の中でそう呟いて、重力に従って階段を降りる。
来た道を再び駅まで向かう。早歩きで、時々小走りしながら―――。
三田のマンションに着いた時には、辺りはもう真っ暗で、アスファルトから埃っぽい匂いが立ち上っていた。
鍵は持って出ていない。入り口のインターフォンで部屋番号を押した。
相手がインターフォンの通話を繋げたサインの赤いランプが点き、「なお!」とすぐに三田の声が弾んだ。
「ごめんなさい」
なぜか言葉がそれしか出て来なくて、カメラに向かって俯く。
「すぐ開ける」
その声の直後に自動ドアが開かれた。
導かれるように中に入り、エレベーターに乗る。
4階に上がり通路に出ると、彼が立っていた。
荷物を奪うように受け取り、荒々しく私を抱きしめた。
「よかった、無事で。おかえり」
安堵に満ちた声がすぐ近くで耳をくすぐる。
「ごめんなさい。ただいま」
「俺の方こそ悪かった。ごめんな」
三田はそう言うと、大きな手で私の手を包み込み、つないだまま一番奥の自宅まで導いた。
部屋に入ると、三田は私をさぞ大事にそうにソファに座らせると、その前に両膝を付いた。
私の腕を両手でさすりながら「怪我はないか? ひどい目に遭ってなかったか」と、異常なほど何度も確認する。
「大丈夫よ。友達の家に泊めてもらってたのよ」
そういうと、少し安堵したように「そうか、それならよかった」とようやく立ち上がり、キッチンへ向かった。
「メシ、まだだろう? 何か軽く作るよ」と冷蔵庫内をリサーチする。
考えが纏まらないのか、「それとも出前かなんか取るか」と落ち着かない様子。
「お寿司が食べたいな」と言うと、「お寿司か。じゃあ都留寿司に出前頼もう」と、スマホを操作する。
リビングとキッチンをうろうろと歩きながら、電話をかけ、特上握りを二人前注文した。
「風呂ためてくるから」
そう言って、バスルームへ消えた。
ハンドバッグからスマホを取り出し、画面を確認すると、トモ君から不在着信が入っていた。
心配して電話をくれたみたいだが、これ以上話す事はない。
通知を消して、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一口喉に流しこんだ。
バスルームから戻った三田にも一本渡し、軽く缶をぶつけて乾杯した。
再びソファに座ったと同時に、私のスマホが着信を知らせた。
隣で三田がスクリーンを覗き込む。
画面には『池平智也』の文字。
みるみるうちに、顔を赤くする三田。
「ごめん、電源切っておけばよかった」
スマホを仕舞おうとする手を、三田に遮られる。
「出ろ」
強制力を持ったその語気に、逆らう事はできない。
言われた通り、通話をタップした。
「もしもし」
「なお。大丈夫?」
「大丈夫よ。どうして?」
「そこに三田がいるの?」
「うん」
「そうか、ちょうどよかった。スマホをスピーカーにして」
「どうして?」
「いいから。三田に聞きたい事があるんだよ」
私は言われた通り、スピーカーにして、テーブルに置いた。
「トモ君が、聞きたい事があるって」
三田にはそれだけを伝えた。
三田が手に持った缶がグシャグシャと音を鳴らす。
次の瞬間、スピーカーからは信じられない音声が流れてきた。
『いやぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁーーー。やめてぇぇぇぇ。電話を切ってーーーー、お願い、電話を切ってーーーーー』
それはまるで妊婦さんが子供を産み落とす時のような、悲痛に満ちた叫び声だった。
それに被せるように、聞き覚えのある声。
『もっと気持ちいい声出せよ。彼氏に聞かせてやれよ、おらー、おらーー』
その声の主は、今私の隣で両手に顔をうずめ、感情を押さえつけるように項垂れている、この男だろうか。
これは、一体――――?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます