第四章 Sideなお・智也
第1話 Sideーなお 掴めない幸せ
たまたま座れた帰りの通勤電車の窓から見える街は、見慣れた光景なのに、燃えるような夕日が無駄にドラマティックに色づけるから、思わず目を反らしたくなる。
きれいだとか、ステキだとか、そんな事を思ってしまう自分があほくさい。
建ち並ぶ高層マンションは、窓からはちみつ色の明かりを垂れ流し始めていた。
あの一個一個に幸せな暮らしがあるんだろうな、なんて考えたら今の自分の不幸加減が身に染みて、バカみたいに泣きたくなった。
どっと一日の疲れが押し寄せる。
目の前に立っているお腹の大きい女性に席を譲るために立ち上がったのは、少しでも自分の存在価値を高めたかったからだ。
私って親切でしょう。そんな心の声が透けて見えるぐらいの笑顔を顔全体に貼り付けて、「どうぞ」と言ったのに――。
お腹の大きい幸せそうな女性は「すいません」と言いながらも、当たり前のように私が温めた席に座ってお腹を撫でた。
私だって疲れてるんだよー。そうアピールするため、つり革を持ったまま、ふくらはぎをさする。
元恋人の池平智也が、いちごのクレープとスマホを渡しに戻って来たっきり音沙汰がなくなってから、もう3日が経っていた。
彼の部屋に行けば、当然『もう一度やりなおそう』そんな話をしかけてくると思っていたのに、あろうことか彼は私が引き留める手を振り払って、他の女の所へ行ってしまったのだ。こんな屈辱ってある?
あんなに戻って来てほしいと、何度もラインしてきたくせに。
先週の金曜日の事だ。
あの日、体調が悪く早々に帰宅した私を待っていたのは、理性を失った三田だった。
寝室で着替えをしていた所に、計ったように侵入してきた彼は、下着だけの私に容赦なく絡みつく。「いや。体調が悪いの、やめて」
そんな声は無駄。こうなった三田を誰にも止められはしない。
熱い息が首筋を這い、力任せに下着をはぎ取られる。
「お前は俺の女だろ。何したって文句ないはずだ」
荒々しくベッドに押し倒された私は無になる。本人にすらコントロールできない性欲と剛腕に、抵抗する気力さえ奪われる。
顔を両手で覆い、されるがままに受け入れ、ひたすら終わるのを待った。
「痛い……。いたい」
気が付いたらそう言って泣いていた。
普段は優しいのに、セックスの時だけこんな風になってしまうのはどうしてなんだろう。そう思うと無性に悲しかった。
「くそっ」
その声と同時に私は解放された。
痛みしか訴えない私に、萎えたのだろう。熱から冷めたようにさっさと服を着ると、こちらに背を向けこう言った。
『出ていけ。今夜は帰って来るな』
三田の荒々しく自分本位なセックスが苦痛になったのはいつからだろう。
毎日手を伸ばせば届く距離にいれば、押さえつけられて事に至る。
最初はその強引さに燃えた。
3年同棲していたトモ君とのセックスにはマンネリしていたし、愛されているのかどうかさえわからなくなっていたから――。
6月の長雨がやむ頃には、優しくて丁寧なトモ君が恋しくなっていて、どうしてるかな? なんてグレーの空を眺めたりしていた。
会いたくて仕方がなかった。
もう一度愛されたいなんて贅沢は言わない。せめてゆっくり話がしたい。
そんな思いも、もう叶わない?
車内のアナウンスが、目的の駅を知らせる。
トモ君のアパートの最寄り駅。
間違わずに降車して、改札をくぐる。
陽は沈みかけているというのに、日中の太陽が燃やした街はまだ暑すぎて、数分歩いただけでも汗ばむ。
一日中、室内で仕事をしていた体は、この気温になかなか順応せず、息苦しい。
真正面から照り付ける太陽に向かって歩く。ほぼ自動的にカツカツとヒール音を鳴らし左右交互に足を伸ばす。
途中、ドラッグストアに寄った。
トイレットペーパーがそろそろ切れそうだったからだ。
店内の、程よく冷えた空気が肺を癒した。
通いなれていた店舗だ。天井から吊るされた案内など見ずとも目的の物がどこにあるのかわかる。
購買意欲を煽るポップに気を取られながら目的の場所へ――。
通路に体を向けた瞬間、思わず立ち止まった。
仕事帰りらしい、グレーのスーツ姿の……トモ君。
その横には黄色い買い物かごを腕に下げた女――。
水色のキャミワンピの胸元はわざとらしく大きく開いていて、胸の大きさが強調されている。
華のないパンツスーツ姿の自分が恥ずかしくて、一瞬俯いた。
あの女、どこかで見た覚えがある。どこだっけ?
向こうもこちらに気付いて、気まずそうに動きを止めた。
「なお……」
冷えた彼の声が、胸を一突きする。
隣の女は少し顔をこわばらせて会釈した。
「偶然だね。トイレットペーパー買いに来たの」
使い慣れた愛想を顔に貼り付けて、どうにか言葉にした。
言い訳みたいになったけど、本当の事だもん。
トモ君は連れの新しい彼女らしい女に何やら合図をした後、車の鍵を渡した。女は素直にうなづきレジへ向かう。
先に車に乗っといて。そんな感じのやり取りだ。
「もしかして新しい彼女?」
「そうだよ」
なんの躊躇もなく彼はそう答えた。
「かわいい人だね」
彼は何も言わず、腕を組む。
「つけたの?」
「は? そんなわけないじゃん」
できるなら見たくなかったよ。
「偶然だよ。仕事帰りに寄っただけ」
「そっか。お疲れ様」
「彼女の家、近くなんだ?」
「いや、彼女の家は近くじゃないけど、職場が近くなんだ。今日はたまたま帰る時間が一緒で、迎えに来たんだよ」
まずい! 笑えない。悔しくて、悲しくて、早くこの場を立ち去りたい。これ以上みじめな思いしたくない。
「いいなぁ。仲良しで。私も戻ろうかなぁ。彼氏の所に」
精一杯の強がりを吐き出した。
「やめた方がいい。あいつは犯罪者だ。君を幸せにはできない」
――犯罪者?
そのワードに、脳内で冷たくなった血液がダラダラと末端に向かって流れだした。
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