第2話 倍返しだ!!

 僕は、あきを部屋まで送り届けなかった事を激しく後悔した。

 元彼ならあきの住まいを把握していて当然だ。待ち伏せされていたんだと理解した僕は、慌てて立ち上がりさっき肩から下ろしたばかりのショルダーバッグを取った。


「トモ君? どうしたの? 顔色悪いよ」

 なおが不安げに僕を見る。

 今の状況を説明している暇はない。

 一刻を争う事態だ。


「今日、ここに泊まっていいよ。僕は今夜は帰らないから。三田とはさっさと別れた方がいい」


 きょとん顔で目をパチパチさせるなおに、背を向ける。

 スペアキーをテーブルに置いて、急いで部屋を出た。


 タクシーがつかまりやすい大通りまで3分ほど。猛ダッシュして、通り過ぎる車に目を凝らす。

 空車のタクシーはなかなかいない。

 あきのマンションの方へと歩みを進めながら、タクシーを見つけては手を上げるが――。

 止まってくれるタクシーはいない。


 あきのマンションを目指して、とにかく全力で走るしかない。

 目的地までは10キロほど。

 僕の足で、何分でたどり着けるだろうか。

 仕事用のローファーではなく、スニーカーを履いて出ればよかったと後悔した。

 5分もしたら、体中から汗が吹き出し、足に重さを感じ始める。

 足はもたつくが、血流は制御不能。全速力でからだ中を巡っていて、痛いほどに心臓を打ち鳴らす。


 マラソンしながらシャツのボタンを外し、ランニングシャツ姿になった。

 ワイシャツを腰に巻き付け、ひたすら走る。もやっと淀んでいる風がむき出しになった肌をなでるが、不快感が重くのしかかる。


 必ず守るなんて言っておきながら、僕はなんてミスを犯してしまったんだろう。

 頭を掻きむしると汗が飛び散った。


 寝取られたなんて生ぬるい。愛する人が極悪鬼畜な男にレイプされているのだ。


 ――そうだ。レイプ……。警察!


 僕はバッグからスマホを取り出し、走りながら110を押した。

 電話はすぐにつながり「事件ですか? 事故ですか?」。

「事件です。女性がレイプされてます。すぐに出動お願いします」


「レイプですね。場所はどこですか?」


 はぁはぁと途切れそうな息であきの住まいを伝える。


「今、お電話を頂いている方のお名前を教えていただけますか?」


「池平です。池平智也」


「目撃されたんでしょうか? それとも――」


「SOSの電話が来ました」

 まどろっこしい。早く出動しろよ!


 そう叫びたい気持ちを抑えて、今にも止まりそうな足にムチ打つ。


「僕の恋人なんです。元彼氏から執拗に迫られていて、それで――」


 だめだ。脳に血液が回っていない。ろれつも怪しい。

 息は苦しい。

「とにかく、彼女を助けてください」


「その彼女のお名前は?」


「あきです」


「えっと、それは苗字ですかお名前ですか?」

「名前です」


 苗字はなんだったっけ? えーーっと、出て来ない。そもそもフルネームなんて一度聞いたっきりだ。

 宮田、違う!

 今田? 違う!

 今井? そうだ!!


「今井あき。今井あきです!!」


「わかりました。すぐに出動します」


 よっしゃーーー!!

 どこから力が沸いて来たのかわからないが、僕は大きく飛び跳ねた。


 これで、三田は犯罪者間違いなし。これからの人生も詰むな。

 死刑にはならないだろうが、禁固刑は免れないだろう。

 初犯でブタ箱行きを免れたとしても執行猶予が付けば、二度と下手な真似はできない。


 結局10キロの道のりを約1時間ほどかけてようやくあきのマンションに辿り着いた。喉はひりついているが、体はランニングハイに入っているようでやけに軽い。


 エレベーターに乗り、あきの部屋まで急いだ。

 インターフォンを押そうとした時、ガチャっとドアが開き、サンダル履きのあきが現れた。


「智也」

 少し驚いた顔の後、何かにとりつかれているように右往左往する。

 不安気で焦っているようにも見える。それは昔見た母親を彷彿させた。日が暮れてもなかなか帰って来ない弟を探しに行くときの様子にそっくりだ。

「行かなきゃ」

 そう言って、エレベーターの方に向かった。


「どこに行くの?」


「子猫を探しに行くの。怪我してるの」

「子猫?」

「鳴き声が聞こえるの。まだ生きてる。急がないと」

 そう言って背を向ける。


 事態は飲み込めないまま、僕もその後を追い、エレベーターに乗り込んだ。


「一緒に行くよ。もう一人にさせないから」

 そういうと、ようやく呪いがとけたように、僕の胸になだれ込んだ。僕はその背をさすった。


「三田は捕まった?」

 そう訊ねると、あきは首を横に振った。

「どうして?」

「やっぱり智也が通報してくれたのね。ありがとう。事情は後で話す」


「僕がバカだったよ。ごめんね、一人にして」

 あきは僕の胸におでこを擦りつけるようにして首を横に振る。


 エレベーターを降りて、エントランスを出たあきの後ろから、スマホのライトを灯した。

 確かに、子猫らしき泣き声が聞こえる。

 ひっきりなしに、まるで助けを求めるかのように、その声は段々と大きくなる。

「猫ちゃん、猫ちゃーん。どこ?」

 植え込みの下、縁石の角。声の方へとあきは慎重に歩みを進める。


「いた!」

 スマホの明かりがグレーの小さな子猫の姿を捉えた。

 子猫は目をぎらつかせ、口を大きく開いて、みゃーみゃーと声を上げている。あきがそっと抱き上げるとみゃあーーーーーとひと際高い声で泣いた。それはまるで悲鳴のようだった。


「痛かったね。ごめんね」

 あきは今にも泣き出しそうに、子猫を腕の中に収めた。

「怪我してるね。動物が高い声で泣くときは痛みを訴えてる時なんだ。明日、病院に連れていこう」

「あいつが……、あいつが、この子を5階から放り投げたの」

 憎しみと悲しみがこもった声であきはそう訴えた。



 部屋に戻り、あきは子猫を拾った経緯を話した。そして、三田が警察に連行されなかった事情を、こう説明した。


「玄関に警察が来て、すぐに智也が通報したんだってわかった。三田は焦って、同意の元のセックスだったと証言しろと強要してきたの。どうせこのまま捕まってもすぐに釈放される。出てきたらもっと付きまとってやるぞって脅されて……。その代わり、三田の言う通りに証言すれば、二度と連絡もしてこないし、秘密をばらしたりもしないって」


「クソやろーーーー!!!!」

 怒りでワナワナと拳が震える。


「もういいの。これでいいの。もう静かに暮らしたい」

 消え入りそうな声で、あきはそう言った。


「何いってんの。あいつを野放しにしてたらダメだ。ぎゃふんと言わせてやらないと」

 あきは首をはげしく横にふり、強く否定した。

「もう、いいの。お願い、あいつの事なんてもう二度と考えたくもない」


 そう言ってぐったりと体を丸めた。

 相当参ってるんだ。当たり前だ。こんな目に遭わされて心も体もボロボロにされたんだ。


「そうだよね。わかった。これで終わりにしよう」

 そう言ってあきの肩をさすり、安心させた。


 あきはうなづいて、膝に置いた子猫の背中をなでた。子猫も安心したのか、すやすや眠っている様子。


 神様も警察も、あいつを野放しにすると言うなら、僕が罰を与えるまでだ。

 何度ぶっ殺したって足りない。


 ――覚えとけよ、三田! 倍返しだ!

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