第6話 終わりの始まり

 まだ帰りたくない。もっと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。という思いは伝えられないまま。

 大通りで手をあげた智也の前に、タクシーはあっさりと止まった。

 後部座席のドアが自動的に開かれ、先に乗り込んだ智也に、私もノロノロと続く。


 智也がドライバーに私の家の住所を伝える。

 ドライバーは慣れた様子で軽く返事をして、車を発進させた。

 彼は後部座席の背もたれに深く背を預け、窓の外に視線を向けている。

 何か考え事でもあるのだろうか?

 ぴったりと体の側面を寄せて、肩に頭を乗せると、智也はそこに頬を寄せた。

 まだ帰りたくないの一言が言えない。


 スマホのバイブレーションが、スラックスのポケットの中で着信を知らせている。

 おもむろにポケットから取り出し画面を確認して、再び仕舞う。

「出なくていいの?」

 そう訊ねると、「LINEだから」と短く返事をして、少し笑った。


 根拠のない不安が押し寄せる。誰からのラインだろうか? 三田だったとしたら、あのアダルト動画のURLが送られてきたのではないだろうか。

 そんな事を考えていたら、怖くて言葉が出て来なくなった。


 およそ10分ほどで、マンションに到着。


「じゃあね。おやすみ」

 智也は優しくおでこにキスをくれた。


「上がっていかない? お茶でも淹れようか?」

 そう誘ってみたが、智也は首を横に振る。


「今日は、なおも疲れたでしょ。ゆっくりやす……。あ、ごめん。あき」


 慌てて訂正しても遅いよ。名前間違えるとか……。

 それでも、私は笑ってしまうのだ。


「バカね。その間違いだけはサイテーよ! 罰として明日、駅地下のチョコクロワッサン買って来て!」


 ちゃんと上手に笑えてるだろうか?


「本当にごめん。チョコクロワッサン100個買って来る」

 そう言って、両目をぎゅっと閉じて、両手を顔の前で合わせた。


「じゃあ、許してあげる。おやすみ」

「おやすみ」


 大丈夫。ちゃんと笑えてる。


 タクシーを降りると、ドアは名残惜しそうにゆっくりと閉じた。


 躊躇なく走り出すタクシー。

 見えなくなるのを確認して、私もエントランスの方へつま先を向ける。

 はぁーっと大きく息を吐いて、夜空を見上げた。

 手に届きそうな星が無数にまたたいていて、その場から動く事ができない。

 この星空をどうして智也と一緒に見上げなかったんだろう。一緒に見たかったな。

 疲れているはずの涙腺が、すぐに活発に動き出して、視界を歪ませる。

 こぼれないうちに、指先でそっと拭って一歩踏み出す。

 その直後、足を止めた。


『ミャ――ン』とどこかで小さな声が聞こえたのだ。まだ上手に鳴けない子猫のような鳴き声。キョロキョロと辺りを見回すが、姿が見えない。


「猫ちゃーん? 猫ちゃんなの?」

 そう声をかけながらエントランスへ続く浅い段差の脇を覗くと、ほわっとしたグレーの塊があった。

 すぐにこちらに顔を上げて、黄色い目を光らせる。

 人間をあまり怖がっていない様子。どこかで飼われていたのだろうか? それともまだ人間の怖さを知らないの?


 しゃがんで「おいで」と声をかけると、よちよちと寄ってきた。

 両手のひらにすっぽりと乗ってしまうぐらい小さな子猫。

 そっと抱き上げ、膝に乗せると私の顔を見ながら「みゃん、みゃー」と不器用に鳴いた。

「お腹が空いてるのかい?」


 指を口元にあてがうと、ちゅっちゅと吸い付く。

 小さな小さな爪をスカートに立てて、置いてかないでと訴える。

 可愛くて愛しい。

 幸いマンションでは、ペットの飼育が許されている。

「うちの子になるかい?」

 そういうと、子猫はぎゅっと目を閉じて「みゃー」と力強く鳴いた。


「よしよしいい子だね。おうちに行こうね」

 胸に抱き、立ち上がる。


 先ずはお風呂に入れて、ミルクをあげてみよう。猫砂や専用のお皿もいるな。キャットフードはどんなのがいいかしら?


 さっきまでの寂しさや不安はどこかに消えて、世話のやけそうな同居人の登場に気ぜわしさと喜びを感じていた。

 エントランスを軽やかな足取りで通り抜け、エレベーターに乗り5階を押す。

 深夜のマンションはひっそりと眠りについているようで、ひと気もない。

 バッグから部屋の鍵を取り出した。


 ほどなくして到着。開いたドアを出て――。


 息をのんだ。


 私の部屋の前に、がっしりとした体つきの、派手なシャツを着た短髪の男が立っていたからだ。

 その姿には見覚えがあり過ぎる。


 三田だ。


「待たせすぎだろー」

 三田はそう言って私の方に体を向けた。


「何しに来たの? 帰ってください」

 胸の子猫を守るようにぎゅっと抱きしめた。


 話の通じない獣のように、三田は私に迫って来る。


「いや……、やめて」


 拒絶も通じない。


 後ろからカットソーをがっちりと掴まれ強引に引きずられ、部屋のドアに叩きつけられた。

 ガシャンと派手な音が立ったが子猫は無事だった。何も知らずにきょとんと私の顔を見上げている。

「さっさと開けろ」

 部屋のドアに背を向け、首を横に振った。

「帰ってください」

 体中が震える。大きな声を出せば誰かが通報してくれるかしら。

 せめて騒ぎを聞きつけて誰か出てきてくれないか。


 そんな期待は大きく外れ、辺りは静かなまま。物音ひとつしない。


 三田の大きな手がこちらに迫る。

 恐怖で思わず目をぎゅっと閉じた。

 その瞬間、胸元の小さな体温がすっと消え、「みゃーみゃー」と鳴く声が激しくなった。

 そっと目を開けると、腰壁を小さな影が飛んで行った。

 三田が子猫を放り投げたのだ。


「いやぁぁぁーーーー」

 慌てて下を覗いたが暗くてよく見えない。

 破裂しそうな心臓をぎゅっと抑えてしゃがみ込んだ。


 お願い、誰かあの子を助けて――。


 手に持っていた鍵がコンクリートにぶつかり、チャリンと音を鳴らした。

 拾い上げたのは三田だ。


 全身の力は抜けて、抵抗する気力もなくなった。

 開かれたドアの中にずるずると、いとも簡単に引きずり込まれた。



第二章完

第三章に続く


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