第2話 悲しい嘘

 たまらず智也君に背を向けた。

 下瞼から押し出される行き場のない悲痛は、熱を持って頬を伝う。


「オイスターバーの予約が7時半だから、それまで浴衣を選びに行こうか? もうすぐ花火大会だから、浴衣欲しいって、あきちゃん言ってたよね。一緒に見に行こうよ。楽しみだなぁ、あきちゃんの浴衣姿……」


 そんな話をしたのは、つい3日ほど前だ。クリーニング店に届いた町内花火大会のお知らせに心躍った。

 その日を想像して眠れないほど楽しみにしていた。バカみたい――。


 ぼろぼろと涙が3滴ほど床にこぼれた。


「ごめん。今日ダメになっちゃった」


「へ?」


 智也君のとぼけた声がおかしくて、また涙がこぼれた。


「ごめん。やっぱり私たちだめみたい」


「は? どうして?」

 夢からさめたようなトーンでそう訊ねるから言葉に詰まる。

 大きく深呼吸をして、声が震えないように慎重に声を振り絞った。


「やっぱりダメなんだよねー。三田君の事が忘れられないの」

 必死に口角をあげて、奥歯を噛む。

 こんなに悲しい嘘があるだろうか? 目の前に広げられた優しさに、本当は今すぐ飛び込みたいのに――。


「嘘だ!」

 私の心を見透かしたような口調で彼はそう言った。

 今すぐ、全部嘘だと言ってしまいたい。そんな気持ちにきつく蓋をするように、強く胸元を掴んだ。


「ごめんね」

 それでも涙は止まってくれなくて、まだ血をながしている人差し指を強く噛んだ。

 口中に鉄の味が広がる。


「嘘だ……」


「智也君じゃ、やっぱり物足りないの」


「物足りないって、あれ以来まだ何にもしてないじゃん」


「そうだね」


「僕、がんばるよ」


「いや。ダメなの。もう帰って。もう会いたくないの」

 悲鳴じみた声で拒絶してみせる。

 智也君がどんな顔をしているのかを想像すると、心臓を引きちぎられるような痛みが走る。脳が痺れ、体がバラバラに壊れてしまいそう。


「わかった」

 無表情な声のすぐ後に、玄関のドアがぱたんと閉まる音が聞こえた。


 終わった。

 そう思った瞬間、膝から魂が抜けたように、その場に座り込んだ。

 まだ、通路にいるであろう彼に聞こえないよう、口を押えて堪えていた嗚咽を吐き出した。


 これでいい。

 智也君がすきだと言ってくれた私のままでいたい。

 これ以上、みじめにけがれた自分を見られたくない。


 ひとしきり泣いて、洗面所に向かった。

 顔を洗って、メイクを直す。

 真っ赤な眼はごまかしようがないけれど、あいつにどう思われようと関係ない。

 クローゼットから一番嫌いな服を取り出し着替え、外に出た。


 むわっと襲い掛かる熱気にめまいを覚える。

 遠くを電車が通過する音と蝉がうるさく鳴く声が、何でもない日常なんだと教えている。


 智也君。こんな私を好きだと言ってくれてありがとう。

 さようなら。

 ドアを閉めたあなたの判断は、正しかったです。



 10分ほどバスに揺られ、三田のマンションのある街に着いた。

 スペアキーを渡され何度も通った道。

 最寄り駅からは少し遠いが、チェーンの飲食店やコンビニが建ち並び、ベッドタウンとしては住みやすそうな街だ。

 正面から照り付ける西日に、日傘はもはや何の役にも立ってはいなかった。

 小さく折りたたんでバッグにしまう。


 どこにでもあるような街並みには似つかわしくない、個人経営の古い韓国料理屋。

 片側一車線の県道を挟んだ向かい側にある4階建てマンションが、三田の住まいだ。

 赤信号の横断歩道の前に立ち、三田のマンションが目に飛び込んだ瞬間、強烈な吐き気とめまいが襲った。

 植え込みの陰に身をひそめるように座り込み、膝に顔をうずめた。体が拒絶反応を起こしているのだ。

 忘れたくても蘇る記憶。

 私はどうして笑ってたんだろう? イヤだと言えなかったんだろう。もっと早くに逃げ出さなかったんだろう。

 先ほどからひっきりなしに鳴り続けているスマホのバイブレーションが、三田の焦りを伝える。さっさと来いという催促の電話だろう。


 いっそのこと、殺してしまおうか。

 抑え込んでいた願望までもが頭をもたげる。


 アスファルトから放たれる熱気と焼けるような夕日が、意識を遠のかせる。

 そうか。私が死んでしまえばいいのか。

 歪みながら、暗くなっていく視界。

 目を閉じたら、死んでたら幸い。


 意識を手放す瞬間、「あきちゃん」という声に引き戻された。

 心配そうな、それでいて優しい声だった。


 涙はもう出ない。泣くのって体力がいるんだな、なんて見当違いな事が頭をよぎる。

 ほのかなコロンの香りと、背中に置かれた優しい感触で、智也君なんだと理解した。

 そっと目を開けると、ダークブラウンのほっそりとしたローファーが見える。

「大丈夫?」


 少し焦ったように智也君は私の体を抱きかかえた。

「車に行こう」

 私の腕を肩にまわして、腰を抱えるようにして立たせてくれたあと、こう言った。

「熱中症かもしれないね。今日は特別暑かったから」

 しゃがんでいた植え込みの向こう側には、白のかわいらしいワゴンタイプの軽自動車がハザードを点滅しながら停まっていた。智也君の車だ。

 後部座席に私を座らせた後、こう言った。

「とりあえず水分を取ろう」


 車の中は、適度に冷房が効いていて、少し気分が良くなったように思う。


「どうして?」

 運転席に乗り込んだ背中にそう訊いた。

 もう終わりを受け入れたのだと思っていた。


「いろいろ、吉井に聞いてたから。もしかしたら三田に脅されてるんじゃないかって思った。だから先回りして、あきちゃんが来るのを待ってた。様子を確かめようと思って」


 そう言った後、ペットボトルを差し出す。

 半分ほど残っている飲みかけのミネラルウォーター。


「間接キスだけどいい?」


 そう言って、優しく笑った。

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