第二章 Side-あき・灼熱の夜に燃え上がる
第1話 過去に縛られて――
『君が好きです。友達からお願いします!』
そう言って、智也君が真っ赤なバラの花束をくれたのは1週間前の事。
今どき、少女漫画や映画でも見かけない、そんなベタな告白シーンに、胸の奥がくすぐったくて、目の奥がじんわり熱くなった。
あの日、私の頬を包み込んだ智也君の手のひらみたいに――。
こういうのを幸せって言うんだろうか。灼熱の太陽に歪むアスファルトが私を芯まで焦がした。
友達期間がじれったくて、すぐに『私も好きです。智也君が好き』と返事してしまったっけ。そして、私たちは晴れて恋人同士になった。
ゆっくりお互いを知っていこうねって言われた時は、大切にされてるって素直に思えた。
今夜のデートに備えて、ついさっき新しい服を下ろしたのに……。
人生そう上手くはいかない。
目の前にあるドロドロとした過去は、決して消える事はなくて、これからもずっとそんな事に怯えながら生きて行かなければならないのだ。
スマホのスクリーンが映す文字を再び読み返す。
”お前、池平と付き合ってるんだって? 池平が俺の元同僚だってわかってるよな? お前が出演してたアダルト動画でも祝いに送っておこうか”
かつて、恋人だった三田からのメッセージだ。三田は人材派遣会社を経営しているが、その裏でAV女優の斡旋も行っていた。どうしても出演する女の子がいなくて、私が何度か行かされた事があった。
はっきりと顔が出てしまっている無料動画は、ネット上から消える事はない。
頬をイヤな汗が伝う。あんなの智也君に見られたら、死んでしまう。
一気に奈落の底へつき落とされ、失望が私を一突きした。
震える指で返信を打ち込む。
『やめてください。何が目的ですか?』
すぐに既読が表示され、数秒後に返信が届いた。
『今すぐ来いよ。俺のマンションだ』
行けば何をされるのか分かっている。筆舌に尽くしがたい屈辱的な性行為を受けるのだ。
そんな事にもすっかり慣れてしまっていたけれど、今は違う。
もう二度とあんな事はイヤ。もう三田に気持ちだって一ミリもない。むしろマイナス。顔も見たくない。声も聴きたくない。
それでも、智也君にバレるよりはマシだ。
ベッドサイドのデジタル時計は17:00ちょうどを示している。
智也君との約束は19時。
三田の部屋に行けば、そう簡単には帰れない。そればかりか三田に弄ばれた体で智也君に会うなんて……イヤ。
どうしたらいいのかなんて、迷っている場合じゃない。
言う事を聞けば回避できるなら、従うしかない。
どうせ
智也君。ごめんなさい。私にはやっぱりあなたの隣は似合わない。相応しくない。
純粋で、一途で、不器用で、まじめで――。
そんなあなたには、きっとこれから素敵な人が現れると思う。
やっぱり私ではダメだと思うの。
ごめんなさい、ごめんなさい。
お別れの文句が次々に脳内に沸いてくる。それなのに、震える指はメッセージを打ち込む事を拒絶していて、涙だけが溢れ出した。
過去に逆もどりしなきゃいけない歯がゆさと、智也君とのお別れが苦しすぎて、嗚咽が溢れ出す。
私は幸せになっちゃいけないの?
どうしてそっとしておいてくれないの?
部屋いっぱいに響き渡るほどの大声で泣き叫ぶ。
「うわぁぁぁああっぁぁぁぁぁぁああっぁぁっぁ-----」
初めて風俗の客を相手にした夜も、死ぬほど泣いた。一生分の涙を全て出し切ったと思うほどに。
身震いするほどに気持ち悪い感触を、全て涙で流し去りたかった。
「んぁぁぁああっぁぁぁぁぁぁああっぁぁっぁああぁあぁああああっぁぁあああーーーぁーーーあ--ぁぁあ---」
けどそんな事は無駄で、今も鮮明にあの匂いと感触が蘇る。
「いやあぁぁぁああっぁぁぁぁぁぁああっぁぁっぁ-----------」
握りしめた人差し指を強くかむと、ゴリっと音がして嫌悪が痛みに変わった。
あの日からこうやって嫌なことを傷みに変えてきたの。
痛みを感じている間はいくらか不快感から解放された。
何度も歯を立てて、嗚咽を沈める。
口の中に鉄の匂いが広がった。
ピンポーン。
不意に鳴ったインターフォンで我に返る。
三田? と思ったら体が硬直して動けなくなった。
ピンポーン。
早く出て来いよ、の二回目。二回鳴らすのは用事がある人に違いない。三田?
ぎゅっと脇をしめて、胸の前で手を組んだ。
ピンポーン。
いないの? の3回目。
しかし、三田からのラインはほんの数分前だ。
家に来いという事は、外出している可能性は低い。宅配便なら3回も鳴らさない。
恐る恐る立ち上がり、モニターを覗き込んだ。
――智也君!
慌てて玄関を開錠しドアを開けると、スーツ姿の彼が、すぐに心配そうに眉尻を下げた。そして優しく私の顔を覗き込む。
「どうしたの? 泣いてた? 何かあった?」
大泣きしていた事が、すぐにわかってしまうほど、酷い顔をしているんだな。
私はゆるゆると首を横に振った。
「ううん。なんでもない。指をね、ケガしただけ」
擦り傷になった人差し指を見せると、智也君はポケットからきっちりとアイロンのかかった真四角のハンカチを取り出し、そこにあてがってくれた。
「大丈夫、ありがとう。それよりどうしたの? 早かったね」
約束は19時。
今はまだ17時だ。
「最後のアポがキャンセルになっちゃって。どうせ直帰する予定だったから早めに迎えに来たよ」
屈託なく笑う顔に、また涙が溢れそうになった。
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