第5話 満身創痍

 なぜ、あきの口から三田の名前が出てくるのか。

 嫌な予感しかしない。


「もしかして、君の彼氏って三田だった?」


 信じたくはないが、無言で僕を睨むあきの顔が、イエスだと訴えている。

 さっきまで、ビルの狭間で喘いでいた女とはまるで別人のようだ。


「なんで僕を誘ったの?」


「あなたがあの女の元彼だったから」

 空が白んでくるように、徐々に真実が見え始める。


「そっか。そういう事か」


 あきにとって僕の元カノは、彼氏を寝取った憎い女というわけだ。

 僕が三田を憎んでいるように、あきも彼女を――。

 未だ彼女への想いをくすぶらせている僕と、体を重ねる事で一矢報いようとしていたのか。つまり、復讐。


「誤解があるよ。彼女を誘ったのは三田だよ。嫌がる彼女を無理やり」


「違う! 彼女の方が誘惑してたよ」


「そんなはずない!」

 僕たちは上手く行っていた。結婚だって秒読みでプロポーズの言葉だって考えていたんだ。三田の事を僕が知った時、彼女は泣いてあやまった。僕の事が好きだと――。

 二人でやり直そうと決めたのに、僕の疑心暗鬼は日々膨らんで、彼女をつい責めるような事を言ったりもして、泣かせてしまった事もあった。

 彼女が僕の部屋から姿を消したクリスマスイブ。けんかばかりだった毎日を終わりにしようと、レストランを予約していた。


「少なくとも彼女は、三田を嫌がってはいなかった」

 あきは、こちらをまっすぐに見つめて、これが真実だと訴える。


「その場に居合わせたの?」

 消え入りそうな声でそう訊ねると、あきはうなづいた。


「玄関を開けたら女の靴があった。玄関まで聞こえてたよ、愉しんでる声が。嫌がってる女が言うと思う? お願いもうイかせてって――」


 乱れそうになる呼吸を、深呼吸でねじ伏せる。浅く吸った息をふーっと強く吐きだした。


「何かの間違いじゃない? 別人とか」


「『宮田なお』。LINEのやり取りも見ちゃった。そのなおって女が誰なのか、吉井君に聞いたらすぐに教えてくれた」


 ぐわんと視界が揺らいだ。

 宮田なおは、確かに僕の元カノの名だ。


 これまで大切に守って来たものが音を立て壊れていく。

 いや、もうとっくに壊れていたんだ。その現実をまざまざと見せつけられ、僕は立っていられないほどに、体中から力が抜けて行くのを感じていた。

 満身創痍の僕に、あきは追い打ちをかける。


「知らないでしょ? 彼女、智也君からのラインを三田に見せてるよ。『返信もしないのにまだメッセージ来てキモいよ~』って」


「もういい! やめてくれ」

 僕は掴んでいるあきの腕を強く握った。それでもあきは続ける。

「二人の男に愛されていい気になってるだけ。三田を自分に引き付けるために智也君は利用されてるんだよ」


「何がしたいんだよ、君は。もう、ほっといてくれよ」

 両肩を強く掴んだ。


「ほっとかない!」

 あきは強い口調でそう言うと、僕の手を振りほどいた。


「奪ってやりたかった、あの女から……あなたを」


「じゃあ、目的は達成したじゃん。満足した?」


「違う!」

 あきは、悲鳴にも似た声で否定した。


「違う?」

 ゆっくりと後ずさりしながら僕から離れていく。


「恋がしたかったの」


「え?」


「セックスじゃなくて、恋がしたかったの」


 黄砂交じりの風が、強く吹きつけた。

 その風に向かってあきは走り出す。ヒールでアスファルトを叩く音が、フェイドアウトして、イヤな余韻を残した。



 それから数日が経つと、寒さはずいぶん落ちつき、沿道の桜が薄紅色のひさしを作っていた。

 あめ色の春陽しゅんようが、あまりにも優しく僕の傷口を癒すから、およそ3か月、一度も洗っていなかったシーツや毛布を洗った。


 何が起きていたのか、脳内ではだいぶ整理が進んでいたが、あきが最後に残した言葉が僕の心をざらつかせた。


 ――セックスじゃなくて恋がしたかったの。


 セックスから始まる恋があってもいいじゃないか。そんな風にぼやいてみるが、それはそれでなんだか見当違いな気もしていた。


 元カノが戻って来るかも、という希望はもう捨てた。

 あの日、なおをどうしても許す事ができなかった僕は正しかったのだと思う。

 一度割れた皿は二度と元には戻らない。糊で貼り合わせたところでまたすぐに壊れてしまうんだ。

 もう、いい加減捨ててしまおう。


 洗濯機で洗いあがったシーツの皺を伸ばし、ベランダに広げていると、インターフォンが鳴った。

 キッチンのモニターが、見慣れた男の顔を映し出している。

 風で飛ばないようピンチで止めた後、玄関を開けた。


「よう! 親友!」


 吉井は何やらいい匂いを放つレジ袋を掲げて見せると、許可も取らず、当たり前のように靴を脱ぎ上がり込んで来た。

 掃除はできていないが、まぁいい。

「ちょうどよかった。聞きたい事あったんだ」


「そっか」

 吉井は僕と目を合わせずにベッドを背もたれにして、我が物顔でローテーブルの脇にあぐらをかいた。


 そこは、僕の席だ!


 手に持ったレジ袋から、がしゃがしゃと中身を取り出す。

「みたらし団子買ってきた」

 程よい焦げ目に、とろんと艶やかな琥珀色のたれがからんだ団子が視界に飛び込む。

 朝から何も食べていなかった。しょうゆの甘辛い匂いが空腹を刺激した。


「ありがとう」


 僕は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、グラスと一緒にテーブルに運んだ。


「冷たいお茶でいい?」

「ああ、さんきゅー」


 吉井は勝手にお茶を注ぎ、だんごのパックをこじ開ける。


「何 聞きたい事って?」

 こちらを見ずに吉井が口を開いた。


「あきちゃんの事なんだけど」


 吉井は無言のままだんごの串を握った。


「連絡先、教えて欲しいんだ」


「やめとけ!」

 いつになく強い口調でそう言うと、だんごをこちらに差し出した。

 そして続けてこう言った。


「今のお前じゃダメだ」

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