第6話 新しい恋

 長雨が上がって、濃い雲の隙間から夏の陽が差し込む頃。

 ハローワーク通いにも、もううんざりしていた僕は、吉井が紹介してくれたいくつかの企業に面接に行くことを決めていた。


 夏用のスーツを引っ張り出し、クリーニングに持っていく。

 そろそろロングバケーションも終わり。充電はおよそ50%。再度歩き始めるのに十分ではないが、不足はない。


 アパートの部屋を出て5分ほど歩くと、クリーニング屋のポップな看板が姿を現す。

 店先の花壇には、朝顔がふるふると揺れていた。


 あの日、だんごを土産に、突然やって来た吉井は、最近知ったのだというあきの事情を教えてくれた。


 実家からの仕送りに一切頼らず、大学に通っていた事。

 通常のアルバイトではとても生活できず、風俗で働かざるを得なかった事。

 そして、初めて経験した相手は風俗の客だった事。


 一方、三田は、僕たちと同期入社だったが、およそ三年で退社し独立。

 派遣会社を立ち上げ、会社は順調に伸びていた。そんな三田はあきと出会い、風俗から足を洗わせたんだそうだ。

 その後、あきは三田から束縛され、まるで性玩具のような扱いを受けていた。

 散々おもちゃにされた挙句、ごみクズのように捨てられた。


 普通の人と普通の恋がしたい。

 あの合コンの日、あきは吉井にそう言ったそうだ。


 僕に近づいたのは、寝取られた復讐では決してなかった。

 愛して、愛されて、けんかして、裏切ったり、裏切られたり。そんな風に自分も恋愛がしたかったのではないかと、吉井は言った。


 恋愛関係を築くのに、セックス以外の方法を、あきは知らないのだと。


 男を喜ばせるためだけに、金で都合よく遊ばれた女の子が、どれほど壊れてしまうのかという事を、僕は初めて知った。


 僕もそんな男の一人として、あきを傷つけた。

 彼女を性欲のはけ口としか考えていなかったのだ。


 僕は花壇の朝顔の前に、いつの間にかしゃがみ込んでいた。

 去年の夏から洗わずにしまい込んでいたスーツを抱きしめながら、頬を熱い涙が次々に通過していくのを感じていた。

 あきに申し訳ない気持ちと、今となってはもうどうする事もできないもどかしさが、感情を支配して、外側まで溢れ出す。


 出来る事ならもう一度会いたい。


 そして、こう伝えるんだ。友達からお願いします!


 ガラガラっと、クリーニング店のドアが開いた。


「お兄ちゃん、どうしたの? 具合でも悪い?」


 クリーニング屋のおばちゃんが、心配して出てきてくれてらしい。

 僕は抱きしめていたスーツで涙と鼻水を拭って、差し出した。


「クリーニングお願いします」


「はいはい。スラックスと上着、2点ね。中へどうぞ」


 残りの涙は肩口で拭って、鼻をすすりながら店内に入った。


「今井さーん。受付おねがーい」


 おばちゃんが奥に向かって、そう声を上げると「はーい」と奥から弾むような声がした。

 壁に長方形に切り取られた通用口から出て来た女性に、思わず思考も語彙も奪われた。

 向こうも僕の顔を見て、冷や水を浴びたような顔で動きを止めた。


「あ、あきちゃん」


「智也くん」


「あら、知り合いだったかい?」

 一人だけテンションの違うおばちゃんの声が、僕たちを我に戻させた。

 挙動不審な僕たちに何かを察したのか、おばちゃんはあらあらと言いながら、僕のスーツをカウンタ―に置いて、僕とあきの顔を交互に見た後、どこかに消えて行った。


「スラックスと、上着。2点ですね」

 上ずった声であきがおばちゃんと同じ事を言う。


「しみは、ないですね」


 鼻水がついているけども――。


「普通のドライでいいですか? デラックス仕上げになさいますか?」


「ドライで……あ、いや。デラックスで」

 安物のスーツにデラックス仕上げは贅沢だが、つい見栄を張る。


「ここで働いてたの?」

 そう訊ねると、あきは少し頬を緩めた。


「うん、ほんの最近だけど。私も無職だったから。なんでもいいからお仕事しようと思って」


「そっか」


「智也君も、充電完了した?」


「いや、まぁもうちょっとってとこかな。けど、ちゃんと就職しようと思って」

 そう言ってスーツに視線を向けた。


「よきよき」

 あきは、店先の朝顔にも負けないくらいの笑顔を咲かせた。


 何か言わなくては。そう思えば思うほど、言葉は喉に詰まって出て来ない。

「メンバーズカードをお持ちですか?」

 財布からカードを取り出し渡すと住所を確かめ伝票に書き込みながらこう言った。


「こんなに近くにいたんだね」

「そうだね」


 よかったらご飯でも、と言いたい気持ちを飲み込んだ。

 ――今のお前じゃダメだ。

 と言っていた吉井の言葉が邪魔をする。


「4400円です」

 現金で払い、引換券をもらった。


「あのー」

 喉の奥から声を絞りだす。

 もう帰るだけなのだが、どうしても言っておきたかった。

 あきは強張った顔で僕の言葉を待っている。


「僕、ちゃんと仕事に就くよ。そしたら伝えたい事があるんだ」


「気持ちの整理はできた?」

 あきがゆっくりとした口調でそう訊いた。


 僕は躊躇なくうなづく。

「とっくに」


 あきの肩からすっと力が抜けたような気がした。


「連絡先交換しない?」と。僕。

 あきはおもむろにポケットからスマホを取り出しQRコードを差し出した。

 それを読み取って、交換完了。


「連絡してもいい?」

「うん。待ってる」


 名残惜しい気持ちを残して、「じゃあ」とお互いに小さく手を振り、外に出た。


 ほんの数分前までしゃがみこんで泣いていた場所を通過して、クリーニング店を後にする。


 ちゃんと就職が決まったら、告白しよう。

 ありがちで、ベタな恋の始め方を僕が教えてあげるんだ。


 僕だってまだまだ恋愛経験は乏しい。女の子の体の事だって、心の問題だって、わからない事だらけだ。そんな事は語り合って、ふれあって、寄り添い合いながらわかり合っていけばいいのだと思う。


 一つだけわかっている事。それは――。


 僕の新しい恋は、もう始まっているという事。



第一章完結

第二章に続く

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