第297話 死してなお絶望
再び訪れた魔界の地は静けさに包まれている。冷たい風が乾いた空気を運ぶようで、寒気に身が震えるほどだった。空は地上の色を映した同じ赤色をしていて、その不気味さはこちらにいようと変わらない。
四人が転移魔法の
街を丸々囲むように立つ城壁に、その入り口となる門の前には魔族の一団が困ったような顔をして佇んでいた。
大きな角や長い尻尾を持つ者から、体格もそれぞれに巨大であったり人の半分ほどしかなかったりと様々な人たちが数十人、何やら顔を合わせて話し込んでいる。
シスターマリーが顔を通して話を聞いてきてくれて、エリンス、アグルエ、レイナルの三人は柱の陰に隠れるようにして待っていた。
「どうやら、結界に覆われて街へ帰ることもできなくなったらしい」とマリーが話してくれる。
外に集まっていた魔族らは、前回イルミネセントラルが
街に残った者たちがどうなったのか、街に溢れていた
ただ現状を見るに、クラウエルがまだイルミネセントラル城に残っている可能性が高い、とはマリーとレイナルの見込みだった。
街に張り巡らされている結界は、魔界の中心地の空より逆さに生える霊樹より生成されているもので、レイナルとマリーにもどうすることもできないらしい。
「どうするか……」とレイナルは息を吐いたが、エリンスとアグルエは顔を見合わせて、魔族の一団の間を抜けて街へと近づいた。
たしかに、これ以上は進めない――と感じるだけの強い力の気配を感じる。手を伸ばしてみれば見えない壁に阻まれるようにして、バチッと光が弾けた。
しかし、エリンスはアグルエと顔を見合わせて手の上に
何をしだすのかと目を見張っている魔族らやマリーとレイナルの視線も気にせずに、エリンスはその炎を握り込んだ。
拳の中で熱き想いが燃え上がり、白き炎が風に靡くように立ち昇る。エリンスは、そのまま白き拳を結界へと叩きつけた。
ばりーん、と空気が痺れるような衝撃が周囲へ広がる。
立ち上がった砂煙に、それぞれが目を見張って衝撃の根元へ目を向ければ、エリンスが拳を叩きつけた位置より数メートル、結界が砕けるように割れていた。
「これで、進める」
エリンスがマリーのほうへと振り返れば、マリーとレイナルも驚いたようにしていて、しかし二人は、気にせずに魔界中央都市へと足を踏み入れた。
マリーが集まっていた魔族らに、「安全を確認するまでは動かないで」と指示を出し、二人についてきてくれる。
一行はそうして、イルミネセントラル城――魔王城へと近づいた。
◇◇◇
街に溢れていたはずの
城へ近づけば、その上部――逆さ大樹と王城が交じり合う頂点付近、霊樹の間があるだろう場所に、強い力の気配を感じ取る。
クラウエルは、まだそこにいる。
一行は目的を確認するように頷き合い、そして、魔王城へと足を踏み入れた。
黒石の壁に、申し訳程度にボロボロになった赤い絨毯が敷かれたままにされている。数日前、ここで暴れた『神の器』との戦いはその爪痕を残して、荒れ果てた様相をそのままに一行を出迎えた。
ただ、エリンスたちの思惑から外れるようにして、彼女はその王城広間で、アグルエのことを待ち構えていた。
「やっと、きたぁ……」
ボロボロになった黒いドレス、銀色の髪は乱れたままに、赤い瞳がアグルエのことを一点に捉えたように揺れる。
銀髪を分けるように伸びた大きな黒い二本の角に、揺れる白い羽は傷ついたまま。長い尻尾はだらりと床を這い、そして、手の上に浮かべている闇の塊が不気味にぐるぐると渦巻いた。
思わず一歩を踏み出したエリンスに、だけど、アグルエはそんなエリンスを制するように腕を出して一行の前に出る。
「アグルエ」とエリンスが呼べば、アグルエは横目にちらりと目を向けて首を横に振った。
エリンスはその力強い蒼い瞳に込められた想いに気が付いて一歩下がる。
そんな風にしたエリンスのことを見て、レイナルとマリーも顔を見合わせて、ただ口を噤んでアグルエのことを見守ってくれていた。
「待っていると思ったよ、シャル」
アグルエと幾度となく対峙して、二人の旅路の前にも立ち塞がった相手だ。
「ルフフフフ」とシャルノーゼは笑いを零して、見開いた赤い瞳でアグルエのことを見つめている。
今やその姿は、かつての令嬢たる落ち着きを持ち合わせておらず、乱れた髪がだらりと垂れて彼女の顔を半分隠してしまっていた。
エリンスも、アグルエと対峙していたシャルノーゼの姿は記憶に新しい。
アグルエを抱き止めるために飛び込んで――その後、彼女はどうしていたのだろう、と少し心配にすら思ってしまう。
その姿を見る限り、何もしていなかったようだ。ただこうして、アグルエのことを待っていたのだろう。
「わたしはねぇ、アグルエ……あなたの、絶望する顔が見たかった」
アグルエはこたえられないと言ったように、しかし、断然とした態度のままエリンスたちへ背を向けている。
「わたしに残されたのは、それだけだったから」
「違うよ、シャル……そんなことは、ないはずだよ」
「ルフフ、いいのよ、もう……。どんな絶望も、わたしの闇を覆うことはできはしない」
はかたら聞いていても嚙み合っていない二人の会話に、シャルノーゼはにやりと口角を吊り上げた。
その赤い瞳の中に渦巻くような黒き闇。
きっと、もう言葉は届かない――エリンスには、それがわかってしまった。
アグルエにもそれはわかっているのだろう――だけどきっと、アグルエはそれを認めたくなくて、真っすぐと彼女へ向き合っている。
「憎かった。魔王の血も、魔王候補生制度も……父のことも、こんな世界を創った神も、勇者も、何もかも」
シャルノーゼが吐き出した言葉の数々に、アグルエはひたむきに蒼い瞳でこたえていた。
「そんな道を、真っすぐと進んだあなたの背中は、眩しかった。だから、嫌いだった」
正直に吐き出される真っすぐとした言葉は、アグルエの胸にも突き刺さっているのだろう。
「だから、魔界で闇を見つめているあなたのことが、好きだったの」
論理も順序もバラバラになっている。
それだけ、彼女の心はもう壊れてしまっていた。
「だから、決めたの。思いついたの……あなたのことを、最大限に邪魔する方法」
シャルノーゼは手の上で渦巻かせていた闇を振りかぶるように、腕を振り上げた。
闇は形を成していく。細く伸び、鋭く刃を煌めかせ、彼女がその柄を取れば、大鎌の形に変わる闇が彼女の武器となった。
アグルエは腰を落として構えを取る。だけど、今やアグルエも腰には剣を差してはいない。
「構えなくて、いいわ」
「シャル……もう、やめて」
アグルエの涙交じりの声に、だけど、シャルノーゼは首を横に振った。乱れた髪の影の中に視線を落とし、「ルフフ」と小さく笑う。
「あなたの想いは、痛いほどに……嫌なほどに、伝わってきた。何度も対峙して……『こんなことはしたくない』『あなたのことを殺したくはない』……それがあなたの本音だってことも、嫌なほどに思い知らされた。こんなわたしに……あなたのことを殺したいほどに想っているわたしに、それでもあなたは、そうやって真っすぐと向き合ってくる」
シャルノーゼは、小さく肩を揺らして笑い続ける。
「シャル!」
アグルエが叫んで一歩を踏み出せど、しかし、そんな想いも――きっと彼女には届かない。
「アグルエ……あなた、わたしにも、生きていてほしいのでしょう?」
髪をかき上げて顔を上げたシャルノーゼは、目を細めてアグルエのことを見据えていた。
――『もう誰も……犠牲になんかさせたくない!』
黒の軌跡でもアグルエは想いを口にしていた。
魔王候補生同士で、同志であった彼女のことも、アグルエは想っている。
シャルノーゼもまた、時代の被害者だ。
彼女と父親であった覇王ダンデラスの関係は、エリンスにはわからない。しかし、魔王候補生に選ばれて、魔王になることを決めつけられて進んだ道は、歪んだものとなってしまったのだろう。そんな中で魔王の血を引くアグルエと出会って――彼女の中の闇は大きく、歪んで育ってしまった。
「ルフフアハハハ」
シャルノーゼは歯を見せて、牙を剥いて大きく笑った。
そうして手にしていた大鎌を手のうちで回転させて逆手に握ると、刃を自身の首の後ろへ沿えるように回した。
「シャル!」
アグルエの呼ぶ声が、もう彼女には届かない。
「だから、わたしはあなたの目の前で死を選ぶ。それが唯一、あなたに勝てる方法だから。あなたの想いを、傷つけられる方法だから」
エリンスも思わず足を踏み出して、シスターマリーも手を伸ばして動きはじめた。
しかし、二人の行動も間に合わず、アグルエが涙ながらに伸ばした手の先で――シャルノーゼは憑き物が取れたかのように、爽やかに笑った。
「さようなら、アグルエ。わたしを救えなかったこと、永遠に後悔し続ければいいわ」
シャルノーゼはそのままに手を引いた。
飛び散る赤に、転がり流れた銀色の髪。力なく倒れた黒いドレスが闇に消えるように溶けはじめ、彼女の身体から白い光の粒子が天へと昇る。
膝から崩れ落ちたアグルエに、駆け寄ったエリンスはその肩を抱いて――涙を流す彼女のことをしっかりと抱き締めた。
――そんな悲しい選択をする必要なんて、なかっただろう……。
彼女は、心優しいアグルエのことをよく知っているからこそ、そういう選択を取ったのだ。
エリンスにはそれがわかってしまい、余計に悔しくもなった。
互いに弱さを分かち合うことができていれば、良き理解者にもなれたはずなのに――。
エリンスは昇る白い粒子を見送って、拳をぎゅっと握り込む。
胸の中で涙を流した彼女の想いも抱き締めて、そっと優しくその背中に手を回す。
勇者候補生のことを犠牲者だと語った
対立することが約束づけられた勇者と魔王に、勇者候補生と魔王候補生。
二人のように交わることはできずに、この二百年、互いに命を散らして、世界の巡りの中に消えていった者も数多くいる。
歪んだ世界の上では、そう決めつけられてしまったから。
救えなかった悔しい想いを分かち合うように、エリンスは抱き締めたアグルエの頭をそっと撫でた。
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