第295話 白き英雄は幻英の黒へと染まって ――2――
彼が五つの軌跡を巡る偉業を成しえようとも、アルファ・オルス・リーブルスという名は、歴史に残ることはなかった。
その事実を知っているエリンスは、目の前に広がった光景を受け入れがたく、アグルエもまた悲しそうな表情をして、黒の軌跡が見せる光景を受け入れていた。
最後の軌跡を突破して、喜びを分かち合う四人の姿は街の酒場にあった。
その中心にいるアルファは照れくさそうにしながらも、パーニアに勧められた酒をぐいっと飲み干して、グレイシャはレンラと顔を見合わせて笑っていた。
傷つきながらも支え合って進んだ道であったけれど――その中でアルファだけが、勇者の軌跡の試練に認められ、見事、五つの軌跡を巡った偉業を成し遂げたのだ。
宴の最中どこか寂しそうな顔を見せているグレイシャに、エリンスとアグルエは気づいてしまって――周囲の光景は白い光に包まれ、再び一変した。
物静かな大聖堂――場面は再び、旅立ちのあの場所へと巡り戻ってきた。
祭壇の前で腕を組む最高責任者マースレン・ヒーリックに、その横に付き従うのはエリンスたちも知らない勇者協会の重鎮たち。
重そうなローブを羽織った老婆や、大きな剣を背負った男剣士に、杖を担いだ大男。当時、立場ある座に就いていた者たちが一斉に揃っていた。
重苦しい雰囲気に包まれた大聖堂の中央に、アルファたち四人の
サークリア大聖堂への帰還――本来であれば、偉業を成したアルファたちが盛大に迎えられるはずだったのだろう。
しかし、そんな祝福ムードは感じられずに痺れるような緊張感だけが、はたから見ているエリンスたちの肌にも突き刺さる。
「勇者候補生、アルファ・オルス・リーブルスの
壇上についたマースレンが重い口を開けば、アルファたちは戸惑ったように顔を見合わせる。
「きゃっ」と響いた女性の小さな悲鳴。ふいに距離を詰めた重装備をした協会職員たちが、アルファの横に立っていたグレイシャのことを取り押さえるように引っ張り出し、腕を背中に回して捻り上げた。
「グレイシャ!」
慌てたように手を伸ばすアルファに、しかし、足を踏み出せるような空気もなく。
グレイシャは苦しそうな表情を見せながら、そうされるがまま協会職員の一人に捕まった。
すかさず手を出そうとしたパーニアとレンラも構えの姿勢を取ったままに、重苦しい空気に身動きが取れなかったようだ。
「グレイシャ・ユニバーシ。お主は、ラーデスア帝国に選定された勇者候補生、じゃったな」
マースレンが重たい眼差しを向けている。
「ぐっ」と歯を噛みしめて首を振ったグレイシャに、彼女の腰元では剣の鞘にくくりつけられている白いマスカレードマスクが、きらりと光を反射して揺れた。
「やめろ、彼女に、乱暴なことはするな!」
アルファがマースレンに向かって叫ぶ。だが、マースレンは恐ろしく冷たい眼差しをアルファに向けていた。
慌てたように得物を抜こうとしはじめたパーニアとレンラも、集まってきた武装する職員たちに取り押さえられてしまう。それぞれに苦しそうな表情を見せて膝をついて、アルファはそんな彼らの顔を見やってから慌てたように首を振る。
「何を、しているんだ!」
静かな大聖堂へ、アルファの叫びが木霊した。
しかし、集まった者たちはアルファにこたえようとはせず、マースレンは冷たい視線をグレイシャに向けていた。
「ラーデスア帝国に選定された、ということはじゃな。帝国が一枚嚙んでおるのじゃろう」
そう問われ、グレイシャは必死に首を横へ振る。
「わたしはっ! 何も、知りません!」
――彼女は本当のことを口にしているのだろう。現に、何も知らされていなかったのだから。
「この世界には、触れてはならぬ『禁忌』がある。おまえは……何者だ? 知らぬというのならば、誰に、命令された」
マースレンの鋭い言葉に、グレイシャは口を噤んで怯えたような視線をアルファへ向けた。
彼女には、話せないだけの理由もある。エリンスはそれを知っているが、アルファは何の話をされているのか、理解できていないようだった。
「『禁忌』……?」
愕然としたような表情を見せたアルファに、グレイシャは涙を浮かべている。
グレイシャのことを取り押さえている職員の顔にも力が入ったように緊張が走り、グレイシャは拘束から逃れようと身体を振った。
そんなアルファやグレイシャのことを見下ろして、マースレンは冷たい眼差しを向けたままに口を開いた。
「アルファ・オルス・リーブルス……軌跡を五つ巡った栄光は認めよう。力を返してもらうために、
静かに告げられる真実に、アルファは愕然としたままに半歩下がる。
「どういう……こと、だよ……」
アルファがこたえを求めるようにグレイシャへ目を向ければ、しかし、グレイシャは目をそらしてこたえることはなかった。
こたえることが、できなかったのだろう。
「この者は、『禁忌』に触れた疑いがある」
マースレンの言葉だけが、大聖堂には重く響く。
「グレイシャ・ユニバーシ、こたえよ。誰の命で、動いていた?」
グレイシャは必死に首を横に振った。捻り上げられた腕の痛みか、彼女は涙を浮かべていて、必死に逃れようと身体を揺らす。しかし、剣士としても力がある彼女とて、ひと回り大柄な協会職員の力には敵わないようだった。
「こたえない、とな。まあよい、聞き方はいろいろあるぞ」
マースレンの鋭く突き刺すような視線に、エリンスとアグルエにも戦慄が走った。
勇者協会も気づいたのだろう。グレイシャと帝国の繋がりに、帝国に遺された黒い野望に。周到に用意された舞台と役者、決して表舞台に出てこない黒幕。
グレイシャがそこに繋がっていると、掴んだに違いない。
「やめろ! 彼女に、そんなことは……!」
叫ぶアルファがマースレンへ掴みかかる勢いで一歩前に出る。しかし、すかさず間に入った武装する職員に、アルファの行く手は塞がれた。
「この話、何もお主にも無関係、というわけではないのじゃぞ」
マースレンは壇上から冷たいままに言葉を続ける。
「やめて!」と叫んだグレイシャの口は、すかざす職員の手で塞がれて――怯えたように首を振るグレイシャに、アルファは呆然としたままにマースレンの言葉へ耳を傾けた。
「お主ら二人はラーデスア帝国に選定された。グレイシャ・ユニバーシは、アルファ……
告げられた事実に、アルファはそれを聞いた己を疑うように、グレイシャへと目を向けた。
「どういう……こと、なんだよ……」
グレイシャは、職員に口を塞がれたままに目をそらす。
語ることはできない。向き合うこともできない。
想いを確かめ合って、突き進んできた旅路だった。
共に選ばれて、共に歩んで、共に描いた夢だった。
なのに、それが全て噓であったように――思い出が、泡のように浮かんでは消えていく。偽物の家族、偽物の仲間。何もなかった自分自身に積み上げられたモノが全て、ただの幻となって、煙に巻かれて消えていく。
重ねた唇に覚えた熱に、アルファは悔しくもなって奥歯を噛み締めた。
「勇者候補生になって……世界を救えるって……『英雄になって』って……あの想いも、言葉も、嘘だったってのかよ!」
怒りを吐き出すように叫んだアルファの声だけが、大聖堂には響く。
必死に首を振って拘束をほどいたグレイシャは、涙を流しながらこたえた。
「違うの! アルファ!」
しかし「ぐっ」と、再び腕を捻り上げられて、グレイシャは表情を歪ませた。
アルファは思わずといった調子で手を伸ばし、グレイシャを助けようとしたのだろう。だが、そんな彼女が見せた表情に、自然と肩からは力が抜けたようだった。
「元より、こやつには裏があった。アルファ……お主も、騙されておったのじゃろう」
二人のやり取りを眺めたマースレンの言葉に、アルファはわずかに首を横に振る。
「騙され……て……」
がくがくと震えるように全身を震わせるアルファに、グレイシャは何かを口にしようとするが再び腕を捻り上げられて、ついには膝をつく。
アルファは頭を抱えるように両手で顔を覆って、見開いた目の中に白い光を見ていた。
――頭が、痛い。
胸の中では、白い熱が燃え上がるように大きくなった。
――違う、そうじゃない。違うはずなんだ。
告げられた真実を否定するように、アルファは身体を震わせている。
目の前の光景が揺れて、目の前の光景が霞んで――アルファの視界が、エリンスの視界にも重なった。
ちらつく世界が白い光に包まれる。
そこには、エリンスも訪れたことがあるような気がした。
果てまで続く白に覆われた空間で――呆然と立たされたアルファに、風が靡くように吹きすさび、耳元で何かを囁いた。
――『あなたには、その資格がある』
何の――。
――『あなたは、選ばれたの』
誰に――。
――『この世界はあなたにとって、どう見える?』
こんな歪んでしまった、世界のせいで――。
何かが激しく砕ける音と共に、アルファの中にあった白い空間が崩壊した。
ひび割れて巨大なガラス片のように崩れ落ちる白い光の中で、アルファは長い髪の女性の姿を象る白い光と触れ合った。
それが――『女神に選ばれた』と彼が語った所以だったのか。
エリンスにはその姿をはっきりと捉えることができなかったが、まるで白い女性がアルファのことを選んだように、微笑んだ。
現実へ戻ったアルファは、崩れ落ちるように膝をつき――そして、「くくくくく」と喉を鳴らして笑いはじめる。
マースレンが何かに気づいたように目を見張った。すかさず異変を感じ取ったようにして駆け寄る武装した協会職員たちは、しかし、アルファの周囲に猛々しく燃え上がった白き光に呑まれるように焼き尽くされた。
「それが、
そう言いながら拳を握って立ち上がったアルファに、マースレンは驚いたようにしたまま、わずかな間身動きが取れなかったようだ。
「騙されて、監視のために……そうか、
ぶつぶつと呟いて立ち上がるアルファは、歪んだ瞳でマースレンのことを見上げている。
そこに、真っすぐただ前を向いていた勇者候補生、アルファ・オルス・リーブルスの面影は、もうなかった。
エリンスとアグルエも知っている――彼が、そこに立っている。
「『勇者の力』……こんなもののために、人は踊らされる……愚かだ、とんだおとぎ話だ。そんな話を信じて、繰り返して、世界は歩みを止めている。勇者協会はそれを許し、それを真実だと、歪めた」
異変に気付いたように立ちなおすマースレンが、そうして斜めに構えたアルファに向かって叫んだ。
「やはり……あやつは危険だ! 殺せ! あやつを、止めなければならぬ!」
マースレンの指示で職員たちが一斉に飛びかかる。しかし、アルファはにやりと笑って、握った拳を勢いよく開いた。
「ばーん、ってな」
飛びかかる職員たちは、アルファの身体より吹き出した白き炎に、一斉に巻き込まれるようにして消滅した。
燃え広がるように床を這う白き炎に、アルファの後ろで膝をついていたパーニアとレンラも、それを取り押さえていた職員たちも、呑まれて燃え尽きた。
アルファが睨めば、流れる白き炎がグレイシャを取り押さえた職員すらも燃やし尽くす。
目の前の光景が信じられないといった表情で首を振るグレイシャは、膝をついたままにアルファへ顔を向けていた。
「グレイシャ・ユニバーシ、こたえよ! こうなることを、知っていたのか!」
マースレンが慌てたように叫べど、グレイシャはこたえられそうになかった。
その表情を見れば一目瞭然だ。見開いた目からは涙を流し、燃え尽きた仲間たちの残滓に縋るように震える手を伸ばす。
マースレンも、アルファも、理解した。
グレイシャもまた、利用されただけに過ぎないのだと。
「くくくっ、そうだよなぁ」
納得したように頷いたアルファに、マースレンは向き合って叫んだ。
「お主は、どこから来た! 誰が目覚めさせた!」
そう叫びながらも腕を構えて、何やら魔法の詠唱をはじめる。
アルファの周囲に青白い光が表れて、それが彼を閉じ込める結界のような壁を作り出している。
アルファもそれにすぐに気づいたのだろう。だけど、にやりと笑って首を振った。
「俺を選定したのは、ラーデスア帝国、だろう?」
マースレンは悔しそうな顔をしていて――その瞬間、全てを悟ったのだろう。
アルファもまた、己を起こした者のことなど知りはしない。だけど、アルファは全てを受け入れたのだ。
「くくくくくっ」と吹っ切れたように笑い続ける。全身に湧いてくる力に、『器』として造られた意味を知って――握り込んだ拳を、周囲に張り巡らされていた結界へ叩きつけた。
たったの一撃で、マースレンが張り巡らせた結界は一瞬のうちに砕け散る。
彼はもう、何モノにも囚われない――そのような力強さが、ただ見ていることしかできないエリンスとアグルエにも伝わってくる。
アルファはそのまま膝をついて顔を上げているグレイシャの元まで、ゆっくりと歩み進めた。
「……アルファ、やめて」
か細く呟かれた彼女の声に、だけど、アルファは無言のままに、酷く冷たい顔を向けている。
涙が浮かんだ彼女の視線に、アルファもまた憐れみ返すような静かな視線を向けていた。
「……何も知らされず、何もわからないままに、勇者候補生などという呪縛を背負わされ……悲しいよなぁ……虚しいよなぁ……。酷く空っぽな世界だ。そうして、世界を守っているつもりになっていたのか、勇者協会は」
そう言いながらアルファが向けた視線の先で、マースレンは結界を破壊された衝撃だろう、口から血を吐いて膝をついていた。
顔を上げるマースレンはこたえられないといった表情で奥歯を噛み締めている。
そんなマースレンを横目に、アルファは再びグレイシャへと向き合って膝をつく。身動き取れない顔だけを上げたグレイシャの頬を撫でて顎へと触れ、アルファは「ふっ」と冷たく、小さく笑った。
「実に、くだらない。きみも……こんな世界に歪められてしまった。なぁ、グレイシャ」
アルファはそうしながら、仲間たちが散っていったほうへと目を向ける。
全て――己がそうして望んだままに燃やし尽くした結果だ。そこにはもう、憐れみすら向けはしない。
弱々しくアルファの頬へと手を伸ばしたグレイシャに、アルファはそっとその手を掴んで首を横に振った。
「……おまえ自身が、『禁忌』なのか」
すっかり力もなく立ち上がれない様子のマースレンの言葉に、グレイシャも首を横に振る。
静かに立ち上がるアルファは、グレイシャの腕を掴んで彼女のことを立ち上がらせた。
「……アルファ?」
意識が朦朧としているのだろう。
アルファの周囲で燃え上がっている白き炎に――とてつもなく濃い
力なく立ち上がる彼女がふらついて、アルファは腕を広げて優しく抱き止めた。しかし、アルファはそのまま彼女の首を左手で鷲掴みにして、その身体を持ち上げる。
「グレイシャ……おまえも、解放してやろう」
高々と左腕で持ち上げられた彼女の足は宙に浮く。
グレイシャは息が詰まったのだろう。苦しそうに目を見開きながらも、だけど、最期の瞬間まで彼の目を見て、その名を呼んでいた。
――「アルファ……」
右手を構えたアルファが、白き炎に包まれた拳を彼女の腹へと打ち付ける。
燃え上がるように広がった白き光は、彼女の腹に穴を開けて、周囲が白い光に包まれた。力が抜ける彼女の身体はそのまま白き炎に焼かれ、一瞬のうちに光へと還るように燃え尽きる。
腰に提げられていた彼女の剣も燃え尽きて、そこにくくりつけられていた白いマスカレードマスクだけが、からりと床に転がった。
腕の中で燃え尽きた彼女の想いを握り締めるように確かめたアルファは、床に落ちたそれを拾い上げる。
「……そんな名前の男は、どこにもいないんだ。こんな、歪んだ世界の上では……真実も歪められる。きみも……何も知らされずに、己の不幸を背負った悲しき犠牲者でしかなかった。ならばせめて、この先の世界で、苦しみを知る前に、安らかであれ」
誰に語ったものでもなかったのだろう。アルファは言葉を零しながら、手にした白いマスカレードマスクを顔に当てた。
「俺は、幻の影へと堕ちよう。どこから来たか、どうして生まれたか、何のために生きるのか……くだらない。俺は、神を喰うために生まれた『器』。ならば、その想いにこたえてやろう。俺を英雄だと認めてくれた、彼女の想いへこたえるためにも……俺は……こんな歪んだ世界を、真に救済する」
拳を握ったアルファに、マースレンはよろよろと立ち上がって腕を構える。
アルファは「ふっ」と、すっかり弱り切った勇者協会最高責任者を前に余裕の表情を見せて、相手にすることもなかった。
「
地面に叩きけるように放った拳から、白き炎が燃え広がった。
大聖堂を包んだ白き破壊の炎に、マースレンをはじめ、集まっていた職員たちに成す術はなく――その被害は、多大なものとなった。
窓から逃げ出したアルファ・オルス・リーブルスは――
『神』へと至るため、黒き炎を手にすることを目的とし、己の意志で動きはじめた。
手始めに己のことを選定したラーデスア帝国皇帝を殺し、世界を巡る意志の声を聞く巫女の一族を滅ぼした。亡都に佇む誰も立ち寄ることのなくなった古城を拠点とし、白き英雄は幻英の黒として――闇の世界へ身を堕とす。
そして時は今へと戻り――彼は、『神の座』へと至った。
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