第293話 幻影の生まれた場所
二人は漂うように、黒い空間へ投げ出された。
何も見えない暗闇の中、それでも感じられたアグルエの気配に、エリンスは自然と手を伸ばす。
――『俺は、何のために生まれたのか。俺は、誰で、何で、あったのか』
響いたのは、どこか聞き覚えがある男の声だ。
のしかかるように押し寄せる深い嘆きに重たい後悔が、暗闇の中に広がっていく。
――『この世界はあなたにとって、どう見える?』
透き通るようなきれいな女性の声が、波紋のように広がって問いかけた。
――『俺は幻の影に堕ちよう――
激怒、憤怒。憎しみに焦げた白き炎の熱が、エリンスの胸の中にも広がった。
一体、何を聞かされている――何を見せられているのか。
エリンスもアグルエも理解することはできずに、声を発することもできなかった。ただ、二人は黒い空間の中を成すがまま、激流に吞まれたように流される。
次第に離れていく二人の距離に、だけど、エリンスは必死にアグルエのほうへ向かって泳ぐように暗闇を引き裂き、手を伸ばした。
互いに目だけを合わせて、アグルエも手を伸ばしてくれる。
触れた指先、もう一歩を必死に伸ばしたその先で、互いに絡まる指に、固く手を繋ぐ。
そうしたところで、暗い水流の果て、白き光に吞み込まれて辺りの光景は一変した。
◇◇◇
長いトンネルを抜けて目が眩んだように視界が開けた。地に足をつく感覚がなくて、宙を漂う感覚が気持ち悪い。
辿りついたのは、どこかの一室。明るい部屋の中は、床を埋め尽くすように配線やパイプが絡まり這っていて、二人にはどう使うのかもわからないような魔導機械が立ち並ぶ。机の上に積まれた本や書類の束、部屋の真ん中には大きな寝台が設置されていて、半裸の男が寝かせられている。
色白の肌に筋肉で引き締まった上半身、乱雑に伸びた黒い髪が顔の半分を隠すように伸びていて、だけど清廉な顔つきからは
――「ここは……」
呟いたエリンスの声は、まるで水の中へ響くようにくぐもって、自身の耳にも届いた。
アグルエも不思議そうな顔をしていて、よく見れば二人はそんな部屋の宙に浮いている。おまけに、彼女の身体は透けていた。
エリンスも慌てて自身の身体を見渡せば、アグルエと同じように半透明であり、まるで魂だけが身体から切り離されてしまったような奇妙な感覚だ。
――「今ではない、過去の、どこか……」
アグルエがエリンスにこたえるように呟いて、そんな彼女の声もやはりくぐもって辺りに響いた。
アグルエの考えていることも、だいたいわかった。
二人は手を繋いだままに流されるまま、寝台で眠っている男の顔へと目を向けた。
――面影は、ある。
彼の顔は常に白いマスカレードマスクに隠されていた。
だから確信は持てなかったけれど、そこがどこで、それが誰なのかは、察しがつく。エリンスがそんなことを考えていると、部屋に唯一設置されているドアがギィと鈍い音を上げて開いた。
「安定しているぞ……うははは!」
白衣を着る男が高らかに笑いながら、部屋へずかずかと足を踏み入れてきた。
灰色の髪、クマの目立つ目元に鋭い目つき。しかし、黒い瞳の奥は何かにとり憑かれているかのようにギラギラと輝いている。
手にした書類を机の上に投げやって、部屋の中に這うように入り乱れた配線を踏み締めながら寝台へと近づいた。
そんな男の後に続いてもう一人、部屋の中には気配が増えた。
「ようやく、なのね……兄さん」
小柄な体系に、男と同じような白衣を着る女性。
大人びた表情に、にやりと吊り上がる口元。雰囲気は丸っきり違うというのに、その女性にエリンスは既視感を覚えた。
――「ネムリナ・エルシャルズ……」
それは彼女が名乗っていた偽名であっただろうけれど、白衣の男を『兄さん』と呼んだ彼女は、間違いなくあのネムリナだろう。
「ようやくだ、ようやく人類は神の座する場所へ、辿りつける! 『神の叡智』に!」
白衣の男は寝台に手をついて、眠りについている男の顔にかかった髪をかき上げた。
「これで、世界は救われるのでしょう?」
ネムリナが首を傾げて聞けば、男は「うはははは!」と高らかに笑いを上げる。
「我々人類を見捨てた神を、その座より引きずり降ろす。創造と破壊の先に、見返してやろう。人類の叡智が、神を超え、神を喰らうのだと」
男は興奮しきったように笑い、野望に染まった瞳を輝かせ続ける。
そこがどこで、彼が誰なのか。
エリンスも、アグルエも、追ってきた旅路を思い返して、考え至った。
――「
エリンスが寝台で眠りについた男の名を呼べば、アグルエも頷いた。
――「彼が、ダミナ・カイラス……ここが、全ての、はじまりの場所」
何を思って、何を考えて――造り出されたのかはわからない。
寝台に横たわる男は瞳を閉じたままに、指先一つ動かすこともなく、まだ生を知らないような顔つきのままに眠っていた。
◇◇◇
研究室を覆うように闇が広がって、二人は再び黒い空間に投げ出される。
繋いだ手はそのままに白い光に視界が遮られ――あまりの眩しさに目を閉じれば、再び辺りの光景は一変した。
どれくらいの時間が経ったのだろう。場面は同じ研究室だというのに、積もった埃、崩れた瓦礫。すっかり錆びついた魔導機械たちに囲まれて、しかし、寝台の上だけは青白い結界に守られるように『あの時』のままの時間を保っていた。
崩れた研究室からは、長い時間の流れが感じられる。
エリンスもアグルエも再び顔を合わせて、そうしている間にも崩れた壁の奥から二人の人影が気配を現した。
黒の管理者と呼ばれた女性と、金髪オッドアイの小柄な魔族。
二人は寝台で眠りについているモノを確認するように目を見張って、顔を見合わせる。
「ようやく、戻ってこられた。この場所に」
ネムリナが呟けば、クラウエルもにやりと笑った。
それから――また少しの時間が経過したのだろう。二人の前に広がっていた光景は、場面が急に飛んだように一変した。
寝台で眠りについた男はそのままに、錆びついた魔導機械は新しいものに入れ替えられていて、数人の白衣を着た研究者たちが計測される数値をメモするように書類に目を通している。
崩れた壁もすっかり修復されており、研究室はかつての光景を取り戻したかのように、再び活用されたようだ。
「経過は?」
部屋へ入ってきたネムリナは、研究者の一人に声をかける。
「順調です」
返事を聞いたネムリナは満足そうに笑って、そうしてそんな彼女の後に続いてもう一人、男が部屋に足を踏み入れた。
くすんだ銀髪、鋭い目つきに、金色の瞳。堀の深い顔立ちに、高い鼻。
煌びやかな印象を覚える金の刺繡で縁取られる布地を基調とした、くすんだ白い服装に、裏地が赤いマントを羽織っている。
男が部屋へ入るなり、研究室の空気が一変した。
研究者たちは足を止め、頭を下げる。ネムリナもまた、彼を寝台で眠るモノの元へ導くように腕を広げた。
目元に深いしわを刻みながらも若々しさを感じる男は満足そうに頷くと、カツカツと寝台へ近づいていく。
「くくくく……」
我慢ならないといったように口元を歪ませてから、男は口元へ手をやった。
「ジルニズア様、全てが順調ですわ」
ジルニズアと呼ばれた男は、寝台で眠る男を確かめるように目を見開いて、そして近くにいる研究者を呼びつけて何やら説明を聞いていた。
ネムリナがそう呼んだ名前に、エリンスは聞き覚えがある。
――「ジルニズア?」
アグルエも引っ掛かりを覚えたように首を傾げた。
――「あぁ……シドゥの父親、前ラーデスア皇帝……」
ジルニズア・ラースア・レンムドル。
眠る
これが、
「ようやく果たせるわ……『兄さん』。わたしたちの、研究の果て……」
小さく呟かれたネムリナの声に、エリンスとアグルエは顔を上げて見合わせた。
誰にも聞こえることはなかった彼女の心の声なのだろう。現に、研究者たちも、ジルニズアも気に留めた様子はない。
ジルニズアは
「我らに、叡智をもたらす、『神の器』アルファ」
「えぇ、そうですわ。二百年前、
「それがよもや、亡都の地下に眠っていようとは」
「今では、人の足では踏み入れられない場所。ここも、彼の協力なしには見つけられなかった」
そうネムリナが言いながら扉のほうへと目を向ければ、そこから姿を見せたのはクラウエルだ。
「魔族の子、か」
ジルニズアはつまらなさそうに目を細める。
「ふ、ボクの協力なしには……ねぇ、よく言うよ」
にやりと笑うクラウエルに、ネムリナもにやりと笑い返す。
「どうでも良い。こうして、力は我が手に入った」
二人がアイコンタクトを飛ばしたことなど気にもせず、ジルニズアは寝台へと近づいた。
寝台を覆っていた結界が消えて、しかし、横たわる男は瞳を閉じ続けている。
ジルニズアが満足そうにしているのを見守るようにして、ネムリナは言葉を続けた。
「ベータとガンマの経過も順調ですわ。これで、ラーデスア帝国の繁栄も約束されたようなもの。かつての魔導大国アルクラスアとしての権威も取り戻せるでしょう」
ジルニズアはその言葉にも上機嫌そうに頷いて、眠る男の身体へ触れる。
その背後では、ネムリナとクラウエルが暗い笑みを浮かべているとも気づかずに。
「後は、こいつに力を注げばいいのだろう?」
ジルニズアが呟いた言葉に、ネムリナが頷いた。
「えぇ、そのためにはラーデスア皇帝……弟君の協力が必要となるでしょうね」
「ふっ、それならば、問題なかろう。あやつは、我の言うことに逆らいはしない」
二人の会話を聞いて、クラウエルも寝台へ近づいた。
「真っ新な状態で……人として、勇者の洗礼を受ける必要があるんだよねぇ」
「白き炎を灯して……それで、『神の器』としての一歩となりますわ」
クラウエルとネムリナの言葉に、ジルニズアも理解しているかのように「くくく」と笑みを零す。
「帝国の選定で、アルファを勇者候補生に仕立て上げる、ということだろう」
「えぇ、後は、彼に軌跡を巡ってもらえばいいだけ」
ネムリナが頷いて、クラウエルもにやりと笑った。
「それで全て完了さ。彼には、それだけの力も用意してある」
二人の言葉を聞いて、ジルニズアは天井を見上げて大笑いを上げた。
「くくくくははは! 無限のエネルギー、神の叡智、愚かな勇者協会も、かつての四国も勇者ですらも、その価値を知らなかったのだろうよ。何が、『禁忌』だ。ラーデスア帝国こそ、永遠の繁栄を望む。アルクラスアの遺志は、帝国の元に!」
叶えし野望を目の前に、ジルニズアは狂ったように笑っていた。
その背後では、やはりネムリナとクラウエルが横目を合わせ、にやりと暗い笑みを見せている――。
目の前にした、過去の真実に、二人は手を繋いだままに言葉を失ってしまっていた。
――「……これが、
ようやく言葉を絞り出してエリンスが呟けば、手を繋いだ先でアグルエも頷く。
――「一体……向き合うべき真実って、どういうことなの……」
二人が疑問に思えど、二人を導いたはずの謎の声はこたえてくれはしなかった。
再び周囲の光景が暗く黒に染まっていく。
そして、白い光に包まれて――目の前に広がる光景は一変した。
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