第290話 眠れぬ夜に、ふたりの契り

 それぞれの目的、作戦が定まって、時間は夜も更けた零時れいのときを迎えようとしていた。

 三月二十日さんのつきにじゅうのひ、勇者候補生にとっても、この世界に生きる人々にとっても、運命を分かたる日――最終決戦の時は、近い。


 最高責任者執務室を後にしたエリンスは、アグルエのことを探していた。

 レイナルにしても、シスターマリーにしても、まだまだ明日に向けてやるべきことはあると話していたが、エリンスは一足早く休めと告げられている。

 割り当てられている宿舎の部屋へ戻ったところで、だからといって、ただ眠れるような気にはならず、そういえばアグルエはどうしたのだろう、と思い至った。

 ジャカスとミルティの紹介をし、夕食を食べたところまでは一緒だった。その後、エリンスはレイナルに呼ばれて、アグルエもまた、マリネッタやメイルムに会いに行くとは言っていたはずだ。

 アグルエに割り当てられているはずの隣室のドアをノックしたところで、彼女は部屋にいなくて、エリンスは己の胸に手を当てて、彼女の温もりを探した。

 こういうときはだいたい、空を見上げている。

 魔界では見上げることのできない空に何か思うところでもあるのか――しかしそれにしても、今は赤い空が広がる不気味さだけがそこにあるだろう。廊下の窓からのぞいた赤い空に眉をしかめて、エリンスは宿舎棟の階段を上り、屋上を目指した。


 木製のドアを開けて屋上へ出れば、黒紫色の雲が広がる赤い空がエリンスのことを出迎えた。

 不思議と寒さは感じない。昼も夜も関係がなくなったような空模様に、エリンスの時間感覚も狂わされそうになる。

 やはり不安が降り注ぐような不気味な空に、そうして見上げてもいい気分にはならなかったが、エリンスが探し求めていた彼女はそこにいた。

 アグルエは屋上に設置されたベンチに腰かけ、そんな空を不安そうに見上げていて、だけど、ぎゅっと結んだ口元からは彼女の決意が滲み出している。


「アグルエ、ここにいたか」


 エリンスが声をかければ、ふと振り返ったアグルエは優しくも微笑んだ。


「うん、探させちゃった?」

「いや、探したなんて……そんな大袈裟な話でもないけどさ」


 静かに歩いて近寄ったエリンスは、アグルエの横に腰を下ろす。そうすればアグルエは、「そっか」と小さく笑って、再び空を見上げた。

 太ももの上で手を組んでいて、エリンスがそっとアグルエの横顔へ視線を向けても、彼女は空を見上げ続けている。

 何を考えているのか、アグルエのことはだいたいわかるようになってきたエリンスではあった。だけどそのときばかりは、彼女が遠くを見ているような気がして、声をかけることもはばかられてしまった。


 エリンスも空を見上げる。

 赤い空にはもくもくとバチバチと、不気味な黒紫色の魔素マナを迸らせる雲が流れていて、世界が今もなお変わっていってしまっているのだと思わされてしまう。

 この空の下に続くファーラス王国では、人々が今も戦い続けている。世界を守るため、生きるための戦いであろうが、その被害はあるだろう。候補生たちの耳に入らないようにマリーたち大人が配慮してくれていることもエリンスは知っていた。

 この空の下で今も、人は生き、人は死んでいる。

 勇者候補生として、今はただ休むことが必要なのだとしても、エリンスはそんな人らのことを救えない無力さをどうしても覚えてしまい、拳を握った。


「……星、見えないよね」


 そんなエリンスの気持ちを察してくれているのか、アグルエはぽつりと口にした。

 エリンスがアグルエの横顔へ目を下ろしても、彼女はやはり空を見上げ続けていて――星を探しているようだった。

 もう一度空を見上げて、エリンスはこたえる。


「見えないな……」

「エリンスはさ……わたしが、『勇者を探している』って伝えたときに、真っ先に手を引いてくれたよね。わたしも、知っていたんだよ。勇者がもう、この世界にはいないんだろうなって……ただのおとぎ話になっているんだって」


 初めて会ったときのことを思い出しているのだろうか。

 エリンスはそう語り続けるアグルエの話に耳を傾けた。


「聖刻の谷で、お父様と……勇者と魔王がした約束の話を見て、声を聞いて……『勇者を探したい』って言ったわたしの手を、エリンスはやっぱり取ってくれた」


 勇者協会が隠した真実の歴史、勇者の名前が消えた真相。

 あのときに聞いた『声』もまた、二人を巡り合わせたものだった。

 あるいは、二人だからこそ、導いてくれるものだったのかもしれない。


「それが……俺が勇者候補生として選ばれた意味なのだとすら、あのときに……アグルエが倒れて、それを支えたときに思ったのかもしれない」

「だとしたら、やっぱり、わたしはこの力を継いで……魔王の座を継いでよかった、って……そう思えるよ」


 横にいる彼女が優しく笑った気がして――エリンスが顔を向ければ、アグルエはエリンスのことを見つめるようにしてから目を細めた。


「あのときに……星空を見上げて、二人で願ったよね」


 澄んだ空気の夜空に、月や星の輝きだけが満天を彩っていた。

 夜だというのに明るくすら感じるその空では、星がとても近く大きく見えた。

 ふいに軌跡を描いた流れ星に、二人は手を合わせて願いを口にした。


――『俺はもっと強くなる。そして、勇者になる――』

――『わたしも強くなる。世界を救えるほどに強く――』


 刻まれた運命の下で紡いだ二人の願いは『今』を描いている。


「エリンスと旅ができて、よかった」


 同じ光景を思い描いていたのだろう。アグルエは瞳をうるうると輝かせてそう言った。


「俺こそ……アグルエがいたから、強くなれたんだ」


 失ったものを追いかけるだけの決意だった。

 亡くした友との約束を果たすためだけに、勇者候補生になった。

 真の救済――彼が語ったその意味すら、彼女が教えてくれたようなものだ。

 エリンスが優しく微笑めば、アグルエは「ううん」と首を振った。


「わたしね、一人で魔界へ帰ったときに……後悔したんだと思う。一緒に歩いて、一緒に目指して、一緒に見るべきだったんだって……あのときは、そんな風に振り返る余裕もなかったけどさ……。そして結局、シャルノーゼと幻英ファントムの口車に乗せられちゃって……でも、やっぱり、エリンスはまた手を取ってくれた。わたしを救ってくれた」


 アグルエは蒼い目を潤ませたままに言葉を紡ぐ。


「セレロニアで、幻英ファントムと対峙したときにね……どうしてこんな力がわたしの中にあるんだろうって、思ったことがあったんだ」


 アグルエの中にあった迷いもまた、エリンスは知っている。


「お父様のことも……どうして、わたしは魔族に生まれてしまったんだろうって……思ったんだ。でも、ツキノさんが力のことを教えてくれて、わたしにしかできないことがあるってことも、教えてくれた」


――魔王アルバラストのことも、ツキノのことも……救うことができなかった。


 きっとそれはエリンスと同じ想いで、彼女はそんな想いを憂いて、空を見上げていたのだろうことがその目を見ればわかってしまう。

 同じだけの悲しみを、同じだけの悔しさを、二人は共にした。

 胸のうちでは涙を流し続けているのだろう。今も溢れそうになる涙を我慢しているのだろう。

 ただ、彼女は腕で目元を拭うと再び空を見上げる。


「わたしは……最強の魔王候補生として、お父様の意志を継いで、魔王の座に就く。世界を救えるほどに、強く在り続ける」


 魔王の座に就く、強く在り続ける――その言葉に含まれた重みまでを、エリンスは受け止めた。

 決意を灯したアグルエの横顔に、エリンスも真剣な眼差しでこたえて、流れそうになった涙をこらえるように空を見上げる。


「じゃあ俺は……落ちこぼれ勇者候補生として……って、それじゃあ締まらないか」


 口にすることで改めて思い返してしまって、エリンスは誤魔化すように笑った。その横では顔を下ろしたアグルエも、同じように笑ってくれていて――。


「もう、『落ちこぼれ』は返上でしょ?」


 エリンスも笑顔を向けて、それにこたえた。


「あぁ……勇者として、世界を救う。こんな夜空も……今日までだ」


 アグルエも「うん」と嬉しそうに頷いてくれる。そしてアグルエは、右手をエリンスのほうに出して小指を立てた。

「ん?」とエリンスが首を傾げれば、アグルエは「約束」と口にして、エリンスの右手を掴む。エリンスもされるがまま右手を出して同じように小指を立てた。

 目と目が合って、細い小指同士が絡まり合う。

 結んだ小指は、手を繋いでいるときよりもか細い糸を掴むような弱さであったけれど、不思議と強い想いで結ばれるような感覚があった。

 きょとんとしたままのエリンスに反して、アグルエは優しく笑うと、細めた目の奥でたしかな覚悟を燃やしたようにして口を開いた。


「約束だよ。あのときの返事・・・・・・・は、全て終わらせて戻ってきたら……聞いてほしい」


 それがいつのどの言葉の、どの返事なのか――エリンスもすぐさま悟った。


――『俺は、きみのことが好きだから』


 目の前にいる彼女のことを抱き締めた温もりを改めて思い返して、「わかった」と力強く頷いて返事をする。

 二人は小指をほどいて、再び空を見上げた。

 その先、彼の地にて待つ宿敵を思い描いて――明日に備え想いを共に、そうして、決戦の日を迎える――。


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