第283話 消えた名前の真相
「ふぁんとむ?」
ランシャがまるで初めて聞いた名前だと戸惑ったようにした顔を見て、その瞬間、エリンスの頭の中で火花が散った。
今までわからなかったことが、一瞬にして理解できてしまったかのように――納得できてしまったのだ。
「……ランシャさん、
「ありません」
エリンスが聞けば、ランシャははっきりとそう言って、首を横に振る。エリンスは質問を重ね続けた。
「魔王アルバラストの名は知っていましたよね?」
「はい」
「では、勇者の名前は?」
「憶えていません」
そこまで聞いてエリンスは自分の考えが正しいのだと確信する。
「おかしなことを聞くかもしれません」
ひと言そう置けば、ランシャは「えぇ、仰ってください」と頷いた。
「今、世界はどうして、こうして危機に陥っているんだと思いますか?」
エリンスはこうした空の色をしている原因も、世界各地で異変が起きているという原因にも、思い当たることがある。
全ては
確信めいて目を細めたエリンスに反して、ランシャは考えるように首を捻ってからこたえた。
「……大いなる巡りの制御を失う事態です。『神の器』となった何者かが、『神の座』へ近づいたから、でしょう」
エリンスが魔界へと向かう前は、魔竜であったランシャも
――『俺はもう、高みへと達した。おまえらと同じ次元にはいない』
霊樹の間でそう
白いマスカレードマスクをして、並んだエリンスたちのことを見下ろしたその姿まで、エリンスははっきりと憶えている。
「もしかして、それが……ふぁんとむ……という者なのですか?」
考え込んでいたエリンスの顔をのぞくようにしてランシャが口にした。
「『神の座』に近づくってことの意味が、ようやくわかった気がします」
エリンスが顔を上げて言い返せば、ランシャは少し悩むような素振りを見せた。
同時に、エリンスが思い返したのは星刻の谷で見た石碑のことだ。
石碑を刻んだ魔王五刃将ニルビーアの名。
魔王であるアルバラストの名。
そして最後の一つ、勇者のものと思しき箇所に刻まれた名前は、消されていた。
勇者協会でも、世界を巡っても、決して語られることのなかった勇者の名前の意味を、エリンスはそのとき理解したのだ。
「星刻の谷……あの地に残されていた勇者と魔王の約束を示した石碑から、勇者の名前が消えていたんです」
静かに話をはじめれば、ランシャはジッと、そんなエリンスのことを見つめて聞き入るようにしてくれている。
「それを最初俺たちは、勇者協会が勇者の名前を隠すために消したのかとも思っていた。世界を旅しても、どこにも勇者の名前は語られていなかった。何か協会にとって不都合だったのかもしれない、とまで思っていた。でも、おかしな話だ。
エリンスがそこまで話せば、ランシャもエリンスに言いたいことを察したようだ。
「違ったんだ」
エリンスがそう頷けば、ランシャも頷いた。
「えぇ……あなたが考え至った、その通りです」
「名前を消したのは勇者自身だった。もしくは
エリンスが聞けばランシャは口を噤み、少し考えるようにしている。
話していいものか、悩んでいたのだろう。
この話の行く先と、その先のことまで考えているようだった。
眠る魔竜の足を撫でて一拍置いたランシャは、覚悟を決めたようにしてエリンスに向きなおると「はい」と頷いた。
「それもその通り、肯定します」
どうしてエリンスが、彼のことを憶えているのかはわからないにしても、『神の座』へ――あの扉をくぐってしまえば、この世界から切り離されてしまうのだろう。
ツキノが制約に縛られていたように、世界を巡る何かから切り離される――否、制約よりももっと強い力なのはたしかだ。
人々の記憶からも消えてしまうのだから。
誰も勇者の名前を憶えておらず、『勇者』という記号だけが残されていたのは、そういう世界を支配している何者かの意図があってのことなのだろうと察しがついた。
それこそが、『勇者と魔王の約束』だったのか――今のエリンスには推測でしか語ることはできなかったが、一つの事実として、
「それをわかってなお、あなたは進む覚悟を持っていると、言い切れるのですか?」
どこか心配するように、かつての面影を追っているような眼差しで、ランシャはそう聞き返してきた。
そこまでの淡々としているようだった彼女の言葉からは感じられなかった、たしかな感情というものがエリンスにも伝わって来る。寂しい、悲しい――そんな色に、白く光る瞳が揺れていた。
かつての勇者にも、そのようなことを聞いたのだろうか。
溢れるランシャの感情は、かつての勇者に向けられた者だろう。きっと、エリンスの後ろにそんな彼のことを見ていたのだろう。
そんなことがエリンスにも理解できた。だから、エリンスは真っすぐと向きなおって、はっきりと口にしてこたえた。
「覚悟は、疾うにできていたんだ。だから……友から、魔王から、そして、勇者からも、あなたからも……託された想いをここで絶やすわけにはいかない。何が待っていようと、進む道があるならば……俺
アグルエと想いは一緒だ。二人であるならば――何が待っていようと進める気がしていた。エリンスがそうこたえたところで、ランシャは黙ってしまう。だから、エリンスは言葉を重ねた。
「勇者も、そうしてあなたをこの世界に残して進んだ……それが、贖罪だったんだとしても、皆からも……あなたからも、こうして忘れ去られてしまうことがわかっていたのだとしても、そう決めて進んだんだろ?」
エリンスが問えば、ランシャはこくりと頷く。
「えぇ……そうです。彼は、独りで、それを覚悟の上でこの世界から姿を消した。わたしは……ついていくことができなかった」
ぽろりと、ランシャの瞳からは涙が流れる。
その涙のひと粒に込められた想いへ、エリンスは気がついてしまった。
それこそが、真に彼女の贖罪だったのかもしれない。
愛していたのに――白い光となって昇る響いてくる想いが、エリンスの胸を強く打つ。
愛していたはずだったのに――強い後悔の想いと共に、彼女の瞳から光が溢れ出している。
「……わたしには、もう、彼の名前もわからない」
――あなたは今も
――わたしはもう、あなたの
――きっとあなたも、わたしのことを覚えてはいないのでしょう。
いつか響いた『霊峰聖域』に轟く魔竜の声は、その想いを乗せて――泣いていたのだろう。
涙を流し続けるランシャを前にして、エリンスはジッと拳を握って、そして口を開いた。
「たった一人だけ、彼のことを憶えていた人がいました」
エリンスがそう話を切り出せば、ランシャは「え?」と驚いたように、同時に、安心したようにして息を吐く。
「俺とアグルエが、
――『
魔王アルバラストが最期に残してくれた想いを、エリンスは口にした。
「勇者……彼が残した軌跡のことを、魔王アルバラストは、
ランシャは呆然とエリンスの言葉を受け止めたようにしていて目を見開く。ぽかんと開けた口からは、「あっ」と弱々しく言葉を吐いた。
「アレイル……アレイル……アレイル・シエルフォン……」
それが、勇者という記号だけが、此の世に残されてしまった彼の名前だったのだろう。
ランシャは涙を流しながら、呆然とした様子でエリンスのことを見つめてくる。
「どうして……思い出せるのでしょう。どうして……」
「それはきっと……本当に消えてしまったわけではないからだ。世界から切り離される……『神の座』に到達しても、本当に存在自体が消えてしまうわけではない。『勇者』という記号が残されたのは、きっと二人の約束に、何者かの意志が関係しているからでしょう……だから、あなたの中にも残っているんだと思います。想いを皆が、受け継いでいるように」
ほろりと流れた涙が、ふいに光となって空へと昇っていく。
声を我慢したように涙を流したランシャに、エリンスは背を向けて、広がる赤い空を見上げた。
不安が襲いかかってくるような嫌な気配に、しかし、目は逸らさず、これから先のことを考える。
「そこに、希望はあるのかもしれない……」
呟いた言葉を、背後でランシャが聞いてくれているような気配を感じ取って、エリンスは独り言を呟くように決意を口にした。
「だから、俺は、ツキノが信じてくれた希望のためにも、彼女と共に、勇者アレイルが辿った道を追って、進みます」
それが託された者の責任で、前に進むと決めた覚悟だ。
アグルエも同じ想いで戦っている――どくんと跳ねる鼓動に、揺れる胸のうちの二つの炎がそれを知らせるようにしていて、今のエリンスには伝わってくる。
エリンスがそっと振り返ると、涙で腫らした瞳でランシャは頷いた。
「……あなたの覚悟はしかと受け取りました。わたしの役目も、あなたにこの話を伝えて終わりだと思っていたのですが……もう一つ、やらなければいけないことを思い出しました。まだ、今を戦うあなたたちに、伝えなければいけないことが、ある」
力強い眼差しで魔竜より離れたランシャは、来た道を戻り、サークリア大聖堂のほうへと歩きはじめた。
数歩進んで足を止めたランシャは、エリンスのほうへと振り返り言葉を続ける。
「今、この世界に迫っている本当の脅威を人々に伝える必要がある。今、このサークリア大聖堂で、何が行われているかわかりますか?」
そう聞かれて、エリンスは夢の中でぼんやりと見たアグルエの姿を思い出した。
ランシャはエリンスのこたえを待たずに言葉を重ねる。
「世界会談。各国の重鎮たちが集まって、未来を勝ち取る戦いのための準備をしている」
『世界会談』という話の規模に驚きはしつつも、エリンスは納得したのだ。
アグルエもその場にいる。
どういう立場で、何を想っているのか、それさえも伝わってきた。
エリンスが頷くと、ランシャは改まって言う。
「わたしも、世界会談の場に赴きます。あなたにも付き添ってほしいのです」
エリンスとしても断る道理はない。「わかった」と頷くと、ランシャはメイルムの身体で優しい微笑みを浮かべて、真っすぐと歩きはじめた。
エリンスもその後へついて歩き、アグルエの待つ、その場所へと向かった――。
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