第277話 優しさの秘密
ミレイシアに連れられたアグルエとマリネッタが訪れたのは、食堂に併設されていた広い厨房だった。
あらかじめ話が通してあったのか、ミレイシアがコックたちへ「貸してもらえますか?」と声をかけると、様々な調理器具が並ぶ一角を貸してもらえる運びとなった。
銀色に鈍い輝きを放つ調理台に、煌々と照明が降り注ぐ。
これから昼時のためであろう、コックたちはアグルエたちが借りた一角とは離れた位置で昼食の準備に励んでいた。
厨房に沁みついたような香ばしい匂いと熱気に囲まれて、アグルエはあれやこれやとされるがまま、エプロンを身に着け、後ろ紐をマリネッタに結ばれた。
「アグルエちゃん、料理ってしたことある?」
ミレイシアはてきぱきとエプロンを装着し、三角巾を頭で結びながら笑顔で訊ねてくる。
「……いいえ、ないです」
よくよく思い返して考えてみれば、そのような経験はなかった。
魔界で暮らしていたときも城暮らしでは自然と用意されるものであったし、エリンスと旅をしていても、簡単な事なら手伝うことはあったけれど、自分から料理をすることはなかった。
食べる専門だ。
「ちょっと、エリンスのためにも作りたいものがあってね」
ミレイシアは話しながらも食材を選んでいて、手のひら大の芋を数個手に取った。
「アグルエちゃんも、一緒に作ってみない?」
にこりと歯を見せ笑うミレイシアに、アグルエはなんとこたえようか戸惑って、つい横にいたマリネッタの顔を見てしまった。
マリネッタはそうしたアグルエの視線に気づくと「ふふっ」と笑って、「やってみたら、いいんじゃない?」と笑ってくれる。
「マリネッタは?」
「わたしは邪魔しても悪いし、見ていることにするわ」
アグルエがそう聞けば、一歩二歩と下がるようにしてマリネッタはカウンターに腕をつき、こちらを楽しそうに笑いながら眺めるのみ。すっかり距離を取られてしまった。
ここで怖気づいても仕方がないだろう。アグルエはミレイシアに向きなおると、ぐっと拳に力を込めて頷いた。
「……やってみます!」
「そう。きっと、アグルエちゃんが手伝ってくれたら喜ぶから」
――誰のことだろう?
そう不思議に思いながらも、そもそもどうして何のために料理をはじめようとしているのか。アグルエは、調理器具を選定して並べはじめたミレイシアの横顔を眺める。
大きな耐熱皿を棚から取り出したミレイシアに、アグルエは純粋な疑問として言葉を投げかけた。
「何を、作るんですか?」
「ん?」とミレイシアは、水冷魔法により冷蔵保存されていたミルクを取り出しながら首を傾げた。
「グラタン。お芋をたっぷり使った、ポテトグラタン。エリンスの好物だから」
アグルエがそう聞いて思い返したのは、エリンスの故郷の風景だった。
広大な草原に、放牧された牛たち。積み上げられた藁俵。広がる深い森。雄大な大地がもたらす自然の恵みには、アグルエの頬も落ちたものだ。
二人でエリンスの故郷であるシーライ村へと帰ったあのとき、ミレイシアが用意してくれた夕食の中に、たしかにそれがあったことも覚えている。
とろみ滴るホワイトソースの海に、こんがり焼けたとろけるチーズ。そんな海底から引き揚げられるのは、まるで宝物。取れたて新鮮、シーライ産の芋。ほくほくと熱沸き立ち、絡まるホワイトソースに大自然の味わいが口の中に広がっていく。
「アグルエ、涎出てるわよ」
そこまでアグルエが想像したところで、横からマリネッタに指摘されて慌てて口元を手で拭った。「えへへ」と恥ずかしくなって笑うと、ミレイシアは楽しそうに「あはは」と笑ってくれる。
「それを作ろうと思ってね」
ミレイシアの言葉に、アグルエの胸も期待で溢れて高鳴った。
「はい! 手伝わせてください!」
アグルエは水道で手を洗うと、ミレイシアの横について見よう見まねで作業を手伝っていく。そこからは――ミレイシアに教わりながら、アグルエは初めての料理をした。
芋を手際よく包丁で切るミレイシアの横で、まず包丁の使い方から教わることになる。
剣を握るのとはまた違う緊張感に、一太刀一太刀、優しさを込めて猫の手にした左手に刃を沿わせる。
火にかけたフライパンの上で食材を炒めて、ミルクを注いでソースも作っていく。
その一つ一つの過程が、食べてくれる人の笑顔を想っての、優しい作業だった。
カウンター越しには頬杖をついたマリネッタが見守ってくれていて、鼻の頭にホワイトソースをつけたアグルエのことを指差して笑っていた。
大きな皿に切った芋を並べ、ホワイトソースを注いで、チーズに粉チーズを盛りつける。最後にミレイシアが「今日は豪華な特別仕様」と笑顔で歌いながら、海老の剥き身を乗せていく。
「美味しそう……」
さすがにアグルエの腹が鳴るようなこともなかったけれど、後は焼くだけとなったポテトグラタンを見つめて、そう言葉を零した。
「さっきあれだけ食べたのに」
マリネッタは呆れた調子で笑う。
「ふふっ、でもまだよ」とこたえてくれるミレイシアは、手にミトンをはめて調理場にあった巨大な窯に火をつけた。
「窯が温まるまで時間がかかるから。でも、焼けた後はほんのり焦げ目も ついて、とろーりってね」
きゅぴんとウインクを飛ばしてくれるミレイシアに、アグルエは目をキラキラさせたままに「はい!」と頷いた。
「また涎が垂れそうよ」
マリネッタにそう言われて、アグルエは慌ててエプロンの裾で口元を拭った。
「ほんと、食べるのが好きなのね」
ミレイシアにまでそう言われて、アグルエは頬が熱くなるのを感じながら「えへへ」と笑う。
「それもこれも、こっちに来てからだったんです」
自分の中の食欲がどこから来るのか。魔界にいた頃は考えたこともなかったことだ。
胸に灯った黒き炎の力が、生まれたときからアグルエに力を与えてくれる。人界に来てそれをより一層感じるようになった。
それもこれもきっと、あのとき空腹で倒れたところをエリンスに救われたからでもあるのだろう。
食べれば食べるだけ、消化されたモノが
「こうして初めて料理をしてみて気づきました。料理にも、想いは込められているんだなって」
アグルエがこたえれば、マリネッタは「ふっ」と笑った。ミレイシアも「そうね」と笑ってくれる。
「魔界にいた頃は、一人で、部屋で食べることがほとんどで。美味しいって思っても、そこまで食べることが楽しいだなんて、思うこともなかったんです。別に、魔界の料理がまずかったわけでもないんですけど……たまにお父様やお兄様と大きな食卓で食べたときは、自然と笑顔になれたのに……それが、こっちに来て、ひとりぼっちだったときにも……はらぺこでどうしようもなかったときにも、エリンスがいてくれたから」
アグルエが俯きながら想ったままの言葉を零すと、ミレイシアは「そう」とミトンを取った手をアグルエの頭に乗せてくれた。
「誰と食べるか、って大事なことだと思うから」
優しく溶けるような言葉に、アグルエはこくりと頷いた。
初めてエリンスと会ったあの日、担ぎ込まれた酒場の陽気な雰囲気をアグルエは大切な旅の思い出の一つとして憶えている。
彼は不安と驚きに戸惑うような表情を見せながらも、食べているところをずっと見守ってくれていた。
――それで、わたしが笑ったら、笑ってくれた。
そんなことを思い返したら頬がより熱くなる。
ミレイシアにはそのようなアグルエの想いが見えていたのか、「あらあら」と笑ってアグルエの頬を撫でてくれる。
頬を滑り落ちるような温もりに、アグルエは咄嗟に恥ずかしくもなり口元を手で覆った。
「これじゃあ、もう母親公認じゃない」
マリネッタがはっきりと口にするものだから、アグルエは余計に頬が熱くなるのを感じてしまう。
なんてことを口にしてしまったのだろう、とアグルエが今さら「あわわ」と慌てたところでもう遅く、向き合っていたミレイシアは笑いながらも、だけど、真面目な表情をして口を開いた。
「あなたがいてくれたから、エリンスは勇者候補生として、しっかり一歩を踏み出せたんだと思ってる」
改まってそう言われて、アグルエが「そんなことは……」と首を横に振った。
「ううん、エリンスには、ちょっと危なっかしいところがあったから……それが、わたしが最後まで反対した理由でもあったんだけどね」
ミレイシアにも思うところがあったのか、しっかりとアグルエと向き合ったままに本音でこたえてくれる。
「失くしたモノを追いかけるだけの脆い決意では、いずれ転んでしまったとき、立ち上がることができなくなってしまうものよ。でも、あなたを連れてエリンスが帰ってきたとき、その表情は見違えるほどに変わっていた」
守るものがあれば人は強くなれる。
アグルエも守られているばかりではなかったけれど、エリンスを守りたいと想っていたからこそ、想いが強まったのは同じような話でもあるだろう。
「だから、帰ってきてくれたあのとき思ったの。二人であるならば……って」
そう言って笑いかけてくれるミレイシアに、アグルエは「はいっ」と頷いた。
アグルエも同じ気持ちでいたのだから。
ツキノは、二人が出会ったことを
だけど、それを運命だなんて言葉一つで片付けたくはない。
二人で一緒に旅立つことになり、進むことになった。そして訪れた星刻の谷で〝声〟を聞いた。
「わたしも、一緒に踏み出せてよかった。そう思ってここまで来ました……道は真っすぐじゃなかったかもしれないけれど、だからこれからも、そんな
アグルエが顔を上げてこたえれば、ミレイシアも満足そうに笑っていた。
きっとレイナルから全てを聞いて、何があったのかまで知っているのだろう。
だけど、アグルエはもう振り返って考えることもなかった。
これから先へ進むために、託された未来を紡ぐために――アグルエは改めてミレイシアに向きなおって、力強く頷いた。
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