第278話 世界の変調

 ミレイシアのブロンドヘアーがどこか楽しげに揺れている。窯の温度を見てくれているようで、アグルエはその後ろで、後は焼くだけとなったミレイシアお手製のグラタンを前に、落ちそうになった頬を押さえた。

 初めての料理、エリンスの母であるミレイシアとの共同作業。どきどきと胸が早鐘を打っていることにもこのとき気がついた。


――楽しい時間、優しい時間だった。


 アグルエがそう目を閉じて思ったところで、しかし、そうゆっくりもしていられないのだろうと、忘れられるはずもなく。世界に迫っている危機は目の前にあるのだと思わされる。

 駆け寄ってくる人の気配に、アグルエは咄嗟に顔を上げて振り返った。


「ここにいたか!」


 慌てたようにカウンター越しに調理場へ顔を出したのは、アグルエも見知った顔だった。

 紺色のマントの下に軽鎧ライトアーマーを着込んだ勇者候補生の一人、腰には天剣と呼ばれる鞘に大層な飾りがついた剣を差している。サークレットの下より覗くいつもは涼しげな瞳も、キリリと結ばれ力が入ったように細められる。


「どうしたの、そんなに慌てて」


 カウンターに頬杖をついていたマリネッタも驚いたようにして背筋を伸ばしている。


「アーキス?」


 アグルエが首を傾げると、もう一人、アーキスに並んで勇者候補生がやってきた。

 ファーラス王国の紋章が刻まれた軽鎧ライトアーマーに、力強い翆色の瞳。魔界帰りでいろいろその後のことにも手を焼いていたのだろう、やや疲れた顔をしていたが、いつも通りの爽やかさを宿してメルトシスは笑って口を開いた。


「よっ、アグルエも無事だったか。ってまあ、報告では聞いていたけど、こう顔を見るまでは……な」


 天剣のアーキス、神速のメルトシス。

 勇者候補生第一位と第二位が揃い踏みだ。


「メルトシスも、無事だったんだ」


 顔を合わせる暇もなかったけれど「よかった」とアグルエが息を吐けば、マリネッタは横に並ぶ二人へ怪訝そうな瞳を向けた。


「一体、どうしたのよ。二人揃って」


 何やら探していたような慌てた素振りだったことをアグルエも思いなおす。


「二人にも、相談しとこうと思って」


 アーキスは曖昧な返事を零すだけ。

 そんな様子にアグルエとマリネッタは顔を合わせる。


「ちょっと、ついてきてほしいんだ。ここではあれだから」


 アーキスもこたえづらそうに周囲を見渡した。

 時間帯のこともあったのだろう。食堂には勇者協会の職員たちが集まってきていて、調理場の中でもコックや職員たちが慌ただしく料理の準備をはじめたところだった。

 アグルエたちが借りた一角だけは静かなままで、窯の様子を見守っているミレイシアは振り返って顔を上げると、アグルエへ笑顔を向けた。


「後は、焼くだけだから。いってらっしゃいな」


 ここまで手伝っただけに少し後ろめたさもあったけれど、アグルエは「はい」と最後の工程をミレイシアに託すことにした。

 余程急いでいたのか、先に食堂に併設されているベランダへと出ていくアーキスを追って、アグルエも外へ飛び出した。


「アーキスとメルトシスも、再会できたんだね」

「あぁ、こいつには心配かけられたがな」


 追いついてアグルエが言えば、アーキスが照れくさそうに笑う。メルトシスは頭の後ろで腕を組んで、返す言葉もないといった調子で笑った。


「それより、話って……」


 と、マリネッタが本題へ入ろうとしたのだろう。

 だが、外へ出たところで、アーキスが話そうとしていた話の内容にも、アグルエとマリネッタは想像がついた。


「空が赤い!」


 アグルエは思わず叫んでしまう。異常は一目瞭然だ。アグルエが空を見上げたのと同時に、マリネッタも空を呆然と見上げていた。

 屋内では気にならなかった空の気配も、そうして外へ出れば全身に降りかかってくるようだった。漂う不気味さに、不安。

 黒紫色の雲が出ていることが気にかかる。

 アグルエはその雲の色にはっきりと見覚えがあった。


「世界の変調……」


 ぽつりとアグルエが零した言葉に、アーキスも空を見上げた。


「話ってのは、まあ……見てもらったほうが早かったってのもある」


 アグルエはそう話したアーキスの言葉を耳で聞きながらも、空を見上げ続け胸元で手を握った。


「やっぱり影響が、もう」

「やはりアグルエには、何か思い当たることがあるんだな」


 アーキスの鋭い視線に、アグルエは顔を合わせてから口をぎゅっと結んで、「うん……」と頷く。


「この空は一体……」


 マリネッタは手を震わせながら空を見上げていた。

 空から降りかかってくるような不安の正体にも、アグルエは気がついた。

 わかる人にはわかるだけの、大きな力が空を覆っている。大きな意志が蠢いているようなものだ。幻英ファントムの――あるいは二百年前から続く人々の。禍々しくも胸が苦しくなるような重苦しさが、宙を舞う魔素マナにも影響を与えている。


「何が、起きているというの……」


 恐る恐ると口を開いたマリネッタに、アーキスは首を横に振ってこたえた。


「それは、まだわからない。だが、世界を巡る何かがはじまっているのはたしかだろう」


 アグルエはこたえることができなくて、ぎゅっと拳を握ったままに空を見上げ続けた。

 エリンスはまだ目覚めていないのだろう。だけど、刻一刻と、世界には危機が迫っていることはアグルエも感じ取っていた。


――わたしだけが焦っても、仕方がないことだけど……。


 握った拳を振り解きながらも空から目をそらすことができなくて、だけど、そんなアグルエの手をマリネッタがそっと握ってくれた。

 アグルエがハッと顔を向けると、そこに並んだ三人はそれぞれに頷いてくれる。


「エリンスは約束を果たした。だから、俺も約束を果たそうと思う」


 アーキスが力強く言ったのを皮切りに、メルトシスも「ふぅ」と息を吐いて頷いた。


「黙ったままではいられないだろ、俺たちも。勇者候補生なんだから」


 そう言った二人の勇者候補生を見て、マリネッタもまた「はぁ」と息を吐いてから、空いたもう一つの手を合わせてアグルエの手を両手で握り込んでくれる。


「そうね。できることがあるならば、わたしも二人の力になりたい」


 アグルエは勇者候補生たちの言葉を呆然としたままに受け取って、そして、ぽろりと流れた涙に、二人で辿ってきた旅の軌跡を見た。

 一人ではここまで辿り着くこともできなかった。エリンスとの出会いがあって、それぞれとの縁があって、巡ってきたからこそ今がある。紡いだ未来さきがある。


「また、あなたは泣いて」


 アグルエの頬をそっと、マリネッタの指先が撫でた。マリネッタは目を細めて笑っている。

 そんな優しい感触にもアグルエはぎゅっと目を閉じて首を横に振る。


「だって、嬉しくて」


 アグルエとマリネッタのやり取りを見守っていたアーキスも、「ふっ」と軽く笑うと腕を組んで頷いた。


「俺たちは、きみたちの力になりたい、友として、仲間として……二人にだけ、背負わせるつもりもない」


 二人の力にかかっていることを悟ってくれている部分もあったのだろう。

 アーキスの言葉がアグルエの胸の中に響いた。真っすぐと向きなおるアグルエは涙を拭って頷く。

 そうすると、手を放したマリネッタも嬉しそうに笑ってくれて、アーキスも任せろとでも言いたそうに力強く頷いてくれる。

 メルトシスもぎゅっと口を噤んで頷いてくれた。


 それぞれがそれぞれに、今を受け止めている。

 アグルエも気合を入れなおすようにぎゅっともう一度拳を握って顔を上げたところで、メルトシスが口を開いた。


「今、ちょうど、世界会談が行われている」

「世界会談?」


 アグルエが聞き返すとアーキスが続けてこたえてくれた。


「この世界全体を襲う危機的状況に対抗するために、勇者五真聖、勇者協会の重鎮も合わせて、世界各国から王や皇帝を集めて話し合いをしているところだ」


 アグルエが想像もできなかった大きな話に驚かされる。


「そんなに……みんなが?」

「あぁ、この事態、一国一国と勇者協会だけで解決できる話でもなくなったってことだ」


 メルトシスは赤い空を見上げながら呟いた。


「想いを、一つに……」


 アグルエがそれぞれの顔を見やって呟けば、マリネッタが力強く頷いてくれる。


「わたしたちもよ」


 それぞれ頷いた顔を見て、アグルエは嬉しくもなって自然と笑っていた。

 そのようにしてひと息つけたところで、またしても声を上げて駆け寄ってくる者が現れた。


「ここにいましたか、勇者候補生の皆さまと――アグルエさん」


 名指しで呼ばれたことに驚いてアグルエが振り返ると、そこに立っていたのは慌てたように息を切らした勇者協会の職員だった。


「シスターマリーが……お呼びです。世界会談の場へ、向かってもらいたい」


 どうしてわたしが――そう一瞬思ったところで、しかし、シスターマリーが呼んでいるとなれば、そこにはただならない大きな話が動いていることまで、アグルエには伝わってきた。

 それぞれ顔を見合わせた勇者候補生たちに、代表するようにアグルエが「わかりました」とこたえれば、一行は世界会談が行われている勇者協会総本部、大会議室へと足を向けて歩きはじめた。


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