第275話 眠る勇者候補生、食べる魔王候補生

 エリンスとアグルエが魔界より帰還して八時間が経った。

 事態の報告、現状の確認のために奮闘したシスターマリーには休む暇もなく、しかし、当の二人はと言えば、サークリア大聖堂に帰還するや眠るように意識を失ってしまった。集まってきた職員や勇者候補生たちによって医務室へと運び込まれ、簡単な治療を受けた後に休む時間が与えられている。

 サークリア大聖堂は各地各国から入ってくる連絡に慌ただしく蠢いていて、一足早く目覚めたアグルエの姿は、そんなサークリア大聖堂の食堂にあった。


 机の上に並べられた香り沸き立つ料理の数々。肉から魚料理に野菜をふんだんに使った色とりどりの料理たち。

 パンにご飯にスープに、と趣向を凝らして用意された協会勤務のコックたちの一品を前に、既に空いた皿が積み重ねられている。

 目覚めたばかりのアグルエは、それだけの料理をフォークとナイフを手に、満足そうに頬を赤らめて、ひと口ひと口味わっていた。


「相変わらずね」とそんなアグルエを見て笑うのは、彼女に付き添っていた勇者候補生の一人、水聖の異名を持つマリネッタだ。

 青い髪を結って水色のローブを纏うマリネッタは机に頬杖をついて、華奢な身体のどこにそんなにも吸い込まれていくのか、と不思議そうに、ぱくぱくもぐもぐとしているアグルエの食べっぷりを眺めている。

 そのからくりも今となっては知られているだろう。アグルエは少し恥ずかしくなりながらも手は止めず、マリネッタは納得したように「ふっ」と瞳を閉じて笑いを零す。


「それだけ、力を使っていたのね」


 マリネッタにそう問われ、アグルエはフォークに刺した鶏肉のステーキを口に運びながら「うん」と頷いた。

 ラーデスア帝国での戦いを終え、魔界へ直接向かって、その間食事をとる暇も余裕もなかった。覚醒した黒き炎の力を常に発揮していたようなものだ。

 その上、魔界へ帰ってみればイルミネセントラル城は幻英ファントムとクラウエルの手に堕ちていて、目の前に立ち塞がった『神の器』や闇招あんしょうの魔王候補生との戦いにも全力を出していた。エリンスと再会して想いが救われはしたものの、その後も力は出し続けた。

 いくら想いの力があろうとも限界があるのだろう。人界へと帰ってきたところで、アグルエが気を失ったのは、魔素マナを使い過ぎたゆえの空腹によるところが大きかったのだ。


「わたし、食べ貯めるタイプだから」


 アグルエが笑えば、マリネッタも「そうだったわね」と納得したように微笑んだ。


「エリンスは?」


 マリネッタにそう訊ねられて、アグルエは食べる手を止めて俯いた。

 しゅんとした様子に気を遣ったようにして、マリネッタは慌てたように手を振る。


「ごめんなさい」

「ううん、違うの。大丈夫。エリンスは、まだ眠っているよ」


 咀嚼していた料理を呑み込んでこたえれば、マリネッタは再び頬杖をついて「そう」と頷く。


「わたしを追うために、無理をしてくれて……それで……」


 アグルエがそこまで言えば、マリネッタは目を伏せたまま首を横に振る。


「あなたは、眠っていなくて大丈夫なの?」


 顔を上げたマリネッタが真っすぐと見つめてきて、アグルエは「うん」とステーキをひと切れ口へ運びながらこたえた。


「わたしは眠っているより、食べるほうが大事みたい」


 舌をぺろりと出して笑えば、マリネッタも再び「そう」と安心したように微笑んでくれた。

 空いた皿をかちゃりと重ねる。

 今は人目を気にする必要もない。食堂に他の利用者の姿はなくて、アグルエのために次々と料理を運んできてくれた協会職員の女性も、アグルエの食べっぷりに驚いたようにしながらも微笑ましそうに頷いていた。

 シスターマリーより食堂のスタッフへは「好きなだけ食べていい、彼女のために料理を好きだけ用意して」と言い渡されている。

 とはいえ、食べ過ぎただろうか――とアグルエがまだ山盛りの料理を前にして考えたところで、マリネッタは「ふっ」と息を吐く。


「エリンスは、ちゃんとわたしとの約束も果たしてくれたみたいね」


 アグルエがナイフで切り分けた魚の切り身をフォークで口に運んだところで、マリネッタはそう言った。

 なんの話だろう――と首を傾げると、「こっちの話よ」とマリネッタは嬉しそうに笑う。


「ちゃんと、エリンスの想いの丈を聞いたのでしょう?」


 どこか楽しそうに訊ねてくるマリネッタに、アグルエは恥ずかしくもなって小さく「うん」と頷いた。「だけど」と続けて、言い訳をするように言葉を返す。


「まだ、返事ができてなくて」


 そのこともずっと気掛かりだったのだ。


――『俺は、きみのことが好きだから』


 あのとき、エリンスがかけてくれた言葉が、胸のうちに溢れている。やっぱり、彼が救ってくれた――その想いに溢れてる。

 すぐにでも返事をしたかった。だけど、やはり戦いの中では、そうする余裕もなくて、結局ここまでしっかり返事をすることはできていない。


「全てが終わったら……ちゃんとこたえてあげたらいいと思う」


 俯いてしまったアグルエを励ますように、マリネッタは真っすぐとした青い瞳を向けてそう言ってくれる。

 アグルエは「うん……」とだけ頷いた。

 そこまで想ってくれる友がいることが嬉しくて、同時に申し訳なさが胸のうちに込み上げてきた。


「ごめん、マリネッタ。何も言えずに、一人で勝手に決めちゃって……」


 ニルビーアに差し出された手を、誰にも相談することなく取ってしまった。

 その結果が今であることを思えば――エリンスを傷つけてしまったのも、ツキノの背中に全てを預けてしまったことも、招いたのは自分自身だ。

 アグルエが机の上に手を置くと、フォークとナイフがかちゃりと皿に当たり音を上げて、ほろりと流れた涙がしょっぱかった。


「……そうではないと、思うわ」


 だけど、そんな気持ちを汲み取ってくれるようにして、マリネッタはそう言ってくれる。


「……何があったかは、マリーさんからの報告で聞いた」


 魔界での激闘の全ては、きっとマリネッタにも伝わっていたのだろう。

 アグルエが潤んだ瞳を拭って顔を上げれば、マリネッタは薄っすらと微笑んでいた。


「これからどうすればいいのかは、まだわたしにもわからない。だけど、あなたが一度決めたこと、一人でも歩くと決めた想いは、きっと無駄なんかじゃないし、間違ってもいなかったのだと思う」


 もしも、ニルビーアに連れられて魔界へ戻っていなければ――魔界の中央都市を襲った惨状は今よりも酷いものになっていたかもしれない。アルバラスト一人の力では幻英ファントムやクラウエルの横暴を止められなかったことは、歴然だったのだから。

 アグルエが共に戦って、エリンスが追って来てくれて、確かに失ってしまったモノも大きいけれど、守れたものもあったはずなのだ。

 大いなる巡りを取り戻すことはできた。

 避難した魔界中央都市の人たち、ラーデスア帝国の人らにしても逃げるだけの時間は作ることができた。街を覆うように支配していた魔導歩兵オートマタたちの被害も、減らせてはいたはずだ。


「そうだったらいいなって、思うよ、今は……」


 アグルエが胸元をぎゅっと握って押さえれば、マリネッタは優しい眼差しを向けてくれている。


――それに、お父様は悟っていた。


 口に出してマリネッタに相談することもできなかったけれど、アグルエの中では一つの考えが巡っていた。

 魔王アルバラストは、死期を悟っていたのだろう。

 幻英ファントムは手段を選ばずにこの力を狙っていたはずだ、と考えれば、狙われていたのはアグルエ自身なのだ。現に一度、セレロニア公国では狙われたのだから。

 あの時もツキノが守ってくれて、そして今回、アルバラストは身代わりになるかのように力と命を差し出したに等しい。

 今のアグルエには、それがわかってしまう。

 託された想い、紡がれた未来――受け継いだ想いは、確かに胸のうちに灯っている。


 アグルエがもう一度涙を拭って顔を上げれば、マリネッタはやはり優しい眼差しで笑いかけてくれた。


「今は、まだ……受け止めきれないこともあるかもしれないわ。でも、いっぱい食べて、そして、力をつけて」


――『……まだ、全てが終わったわけでは、ない』


 アグルエの胸のうちに響く父の声が、力を与えてくれるようだった。

 きっと、マリネッタもこの先に続く道を見据えているのだろう。


「……うん!」


 グッと眼差しに想いを込めてアグルエが頷けば、マリネッタも「ふぅ」と息を吐いてフォークとナイフを手に取った。

 一人では食べ切れないと判断したのかもしれない。その心配はいらないけどなぁと思いながら、アグルエは笑って、そして、想った。


――みんなが笑えるように、この世界を守りたい。まだ、終わらせない。


 白い光の中に消え掠れていった友の横顔を思い出して、そう願った。



◇◇◇



 机に並んでいた料理もひと通りアグルエのお腹の中に納まった。

 一緒に食事を済ませたマリネッタも満足そうに笑ったところで、アグルエもテーブルナプキンで口元を拭って笑う。

 ややぽっこりと胃が膨らんでいるほどで、これだけ食べたのも久しぶりだ。身体のうちに灯っている黒き炎の力の影響で消化は早いほうだ。しかし、しばらくは戦うこともできないだろう。


「ほんと、アグルエの食べっぷりには驚かされる」


 笑うマリネッタに恥ずかしくもなり、アグルエは「えへへ」と頭を押さえて照れ笑いを返す。

 協会職員の人らが空いた皿を片付けてくれて、「これは洗うのもひと仕事ね」と笑ってくれたのが印象深い。

 やはり食べ過ぎただろうか。

 アグルエが両手を膝の上について、赤くなる頬の熱に俯いたところで、そんな二人の元へ近寄ってくる影があった。


「ここにいたか、アグルエちゃん」


 名前を呼ばれてアグルエが顔を上げれば、そこにいたのはエリンスの父、レイナル・アークイルだった。

 黒い髪に年相応の皴が刻まれる彼によく似た顔。だけど、その表情はやや疲れたようで、眠ってもいないのだろう目元にはクマができている。

 何があったかはレイナルも聞き及んでいるのだろう。少し思うところがあるような顔を見せてはいたけれど、レイナルは優しく笑ってくれた。


「お父様?」


 アグルエが顔を上げてこたれば、しかし、それにこたえたのはレイナルではなく、彼の背後から顔を出したもう一人の女性だった。

 グリーンのおしゃれなワンピースに、長く綺麗なブロンドヘアー。整った顔立ちはスッとした清廉な上品さをしていて、育ちの良さがうかがえる。朗らかに笑う優しさの中に力強さを示すような優雅さを併せ持ち、その雰囲気もまた、彼に似ているところがある。

 アグルエが忘れるはずもなく、エリンスと旅立って船に乗り、帰った彼の故郷で出会った顔だ。

 マリネッタも突然の邂逅に驚いたように顔を上げている。彼女の名は、マリネッタの故郷であるセレロニア公国でも有名だった。


「お母様……?」


 どうしてここにいるのだろう――と疑いながらこたえれば、エリンスの母、ミレイシア・アークイルは微笑んだ。


「えぇ、アグルエちゃん、おかえり。ここまで、エリンスについてきてくれて、ありがとう」


 優しく笑いかけてくれる母の笑顔に、アグルエの瞳には再び涙が浮かぶ。

 ただいまと言える場所。おかえりと言ってくれる場所。

 家族を失ってしまった今となっても――まだエリンスと出会って日も浅いあの日に「いってらっしゃい」と言ってくれた温かさが、アグルエの胸のうちには溢れている。

「はい」とアグルエが笑えば、レイナルも安心したように笑ってくれた。


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