第274話 終末の足音

「亡都が、動いてる?」


 ファーラス王国の中心地、ファーラス勇者協会執務室に、その部屋の主であるリィナーサ・シャレンの声が響いた。

 報告に飛び込んできた男性職員は走ってきたためか息が上がり、膝に両手をついて、「はい」と頷く。

 彼は信じられないことを聞いたという顔をしていたが、それはリィナーサも同じだ。こうして飛び込んできた報告を耳にして、両手を机につき、思考を巡らせた。

 何を馬鹿なことを言っているのだろう――驚きに見開かれた目でこたえはするが、対する職員もそれ以上詳しい事情は知らないのだろう、額より流れた汗を白いローブの裾で拭うと顔を上げた。


「えぇ……そう報告が入ったきり、前線の部隊と連絡が取れなくなった、と……騎士団のほうから伝達が……」


 カチ、カチ、と時計の針が動く音だけが響く。前線と連絡が取れないとなると、猶予もないのだろうことはリィナーサにも想像ができる。こうしている間にも刻一刻と、時間は進む。

 明かりも消え、カーテンが閉められた薄暗い部屋の中、ごくりと緊張を呑んだリィナーサの喉が音を上げた。


「何か、異常が……」

「えぇ、リィナーサさんの見込んだ通りに」


 目を見開きながら思考を巡らせるリィナーサに、男性職員はこくりと頷いた。


「……ただ事ではない」


 何が起こったかわからないリィナーサにしても、嫌な予感が的中してしまったのだと悪寒が背筋を駆けた。


 突如、世界を襲った大地震。そしてその後、活発になった魔物の動き。

 勇者協会で把握しているだけでも、世界各地で様々な被害が出ている。街の結界装置が機能していないも同然で、各自治体、兵士や騎士、勇者協会職員、滞在していた勇者候補生や傭兵も魔物討伐に駆り出される事態だ。

 リィナーサが耳にしている被害は、それだけではない。

 勇者の軌跡周りでもより一層、魔物の動きが活発になっていると聞いている。

 リィナーサが管理している赤の軌跡にしてもその例外にはならないだろうと見込んで、王国騎士団に協力要請をしたところで、これである。


 一刻も早く、何が起きているのか把握する必要がある。そのために、リィナーサは勇者協会総本部であるサークリア大聖堂への連絡を試みていたのだが、こちらも連絡がつかない。

 世界を流れている魔素マナの流れに乱れが見えたのと同じように、勇者協会内部でも何かが起こっているのだと、リィナーサは考えていた。


 考えを巡らせていたリィナーサの表情を見てだろう、男性職員は指示を待つように黙り込んでいた。

 頼れない、頼りにならないのであれば、現場を任されている者として素早い判断も必要だ。ハッと顔を上げたリィナーサは、男と目を合わせるなり頷いて、静かに口を開く。


「本部と連絡がつかない。わたしも、すぐに出る。動ける者から騎士団と連携して、現状の把握に努めなさい」

「わかりました。そのように!」

「わたしは、赤の軌跡へ向かう」


 リィナーサはそのまま机から離れると、部屋の隅にかかっていたコートと羽帽子を手に取った。


「一人で、ですか?」


 心配したようにリィナーサを見守っている男性職員に、リィナーサは考えてから返事をする。


「……一人ででも、行くわ」

「しかし、それはいくら赤の管理者たるあなたでも……」

「危険は承知。人員を割いている余裕も、もうない」


 相談している暇もないだろう――と考えて、しかし、途端に勢いよく執務室のドアが開いた。


「大変だ!」


 飛び込んできたもう一人の職員の男性に、部屋の中にいた二人の視線が集中した。

 ドアのノックすらなかった。男の表情からただ事ではないことは察せられる。コートを肩にかけ、帽子を頭に乗せたリィナーサはキリリと目に力を入れて問う。


「今度は、何?」

「空が!」


 男性がカーテンの閉まった窓を指す。

 リィナーサは窓まで近づくと、勢いよくカーテンを引き、そして、窓を開けた。


「なっ!」


 窓の外に広がった空の色・・・に驚き、声を失う。

 街並みを望める執務室から続くベランダ、その上空へ目を向ければ、空が赤かった。

 まるで夕焼けに染まるようだ。もうすぐ正午になるくらいの時間だというのに。


 空を見上げたリィナーサの額からは汗が流れ落ちる。

 空の様子がおかしいと言っても、何もその色だけではない。夕焼けと言うにはどうもそう落ち着いていられる雰囲気でもなく、妙な不安感が降ってくるように襲いかかるのだ。

 雲も妙に暗い、黒紫色・・・をしている。

 赤の管理者であるリィナーサには、その色に見覚えがあった。

 あの地へ赴く度に、北へ目を向ければ必ず目にすることになる終わった大地の空。それと同じ色をした雲が、ファーラスの上空にも迫っている。


「赤い、空……」


 リィナーサの横に並んだ協会職員の男性は、放心したように空を見上げて言葉を零す。

「それだけじゃない!」と続けたのは、先ほど飛び込んできた職員だった。


「魔導機械が、魔物も、兵も、寄せ付けない勢いで迫っていると、最前線より報告が!」


 リィナーサは耳にした言葉が信じられなかった。


「魔導、機械?」

「それも大量に! 武器を二本携えた殺戮兵器が、空より飛来しています!」


 魔物も兵もということは、人を区別して襲っているわけでもないのだろう。

「くっ」と悔しさを噛み締めたリィナーサは、窓から離れて慌てて机の上に置いてあった黒い箱状の遠距離通話機に触れる。

 魔素マナを込めれば、遠くの場所とであろうと連絡が取れる優れもの、相手はもちろん勇者協会総本部であるサークリア大聖堂ではあるのだが、朝から繰り返しそのように訴えかけていても連絡がつかない。


「どうしましょう!」


 指示を仰ぐ職員二人を前に、やはり連絡がつかず、リィナーサは拳を作って机を叩いた。


「騎士団は!」

「今、王国の外……城壁の外を最終防衛ラインにし、迫るそれらの対処に!」

「先ほどの指示通り、今動かせるだけの人員をそちらに割いて! それに街に滞在している勇者候補生にも協力を。手の空いているものは国民の避難を手伝わせて!」


 指示を受けた一人の職員が「わかりました!」と返事だけを残し、慌てて部屋を飛び出していく。


「あなたは、ここで総本部からの連絡を待って!」

「わ、わたしがですか?」


 男性は戸惑ったように首を振る。


「わたしは、確認しなければならないことがある!」


 決意を灯したリィナーサの力強い物言いには、有無を言わせない力があった。

「わかりました」と頷いた職員を執務室へ残し、リィナーサはそのまま執務室のベランダへと飛び出して、柵を越え外へと飛び降りる。


 赤い空に、黒紫色の雲。ファーラス王国へ飛来した魔導機械。

 ここまで嫌な予感が的中することなんて、滅多にないことだろう。

 苦し紛れに奥歯を噛み締めて宙を飛んだリィナーサは、着地するとそのまま空を見上げた。


 既に街の中は混乱にざわめき、避難を先導する兵士の声で溢れている。

 店は開けっぱなし、手には買い物かごを下げた市民が走って逃げていく。慌てた子供が転べば、兵士の一人が抱えるようにして走る。

「南へ、南へ!」と叫ぶ兵士の声が、リィナーサの耳には強く残った。

 既に魔導機械とやらはファーラス王国の北部にまで迫っているのだろう。一種のパニックに陥って、街としての機能は完全に止まっていた。


「赤の軌跡、確認しなければ……」


 今街の外に出ることがどれだけの危険を伴うのか、それも十分承知しているつもりだ。リィナーサは覚悟を持って一歩を踏み出した。


「やはり、亡都には……まだ脅威が残っていた」


 人の流れから逆走し、ぽつりと零したひとり言は雑踏の中に消えていく。

 二百年前より立ち入ることもできなくなった禁忌の地。リィナーサは赤の管理者として着任してから、協会総本部に調査の許可を求めていた。だが一向にマースレンは首を縦には振らなかった。


「あの地にあった脅威を、知っていたんでしょう……」


 リィナーサが恨み節を吐けど、その声がもう彼に届くことはない。

 彼が昨晩亡くなっていることは、リィナーサには知る由もないことだった。



◇◇◇



――ファーラス王国勇者協会とサークリア大聖堂との間で連絡がついたのは、リィナーサが執務室を飛び出してから一時間後のことだった。


 サークリア大聖堂、勇者協会総本部の最上階にある最高責任者執務室に、四人の人影がある。

 濃紺色のベールを頭から被り同じく濃紺色の服を着込んだ女性――シスターマリーは、事態の緊迫した状況に、魔界帰りで疲れが見える表情をしながらも、執務室に置かれている大きなデスクに両手をついた。

 そんなマリーの横で、ファーラスからの連絡を聞いて考え込むような顔をしているのは、黄金色の鎧に純白のマントを羽織る騎士風の男性、勇者協会の右腕であり剣聖けんせいと呼ばれるディートルヒ・ハルバだ。

 その横で腕を組んで事態を見守っていたのは勇者候補生の一人、アーキス・エルフレイ。

 さらには窓際に立ち、空を見上げたのはエリンスの父でもある、レイナル・アークイルだった。


「たしかに空が、赤みがかってきている」


 まだ昼だというのに空は夕焼けに染まるようにして赤くなりはじめていた。

「どこか、見ているものを不安にさせるような不気味な空の色だ」とレイナルが呟けば、考え込むようにしていたディートルヒも顔を上げた。


「……事態は、のんびりと構えられている場合でもなかろう」


「だけど……」と、疲労も隠せず頭を抱えたのはマリーだ。


「魔界との橋渡し、苦労を掛けるところであろうが……今のこの状況、予断は許さぬ」


 ディートルヒは申し訳なさそうにしながらも、遠慮はせずに言い切った。

 彼が見つめる空席となった最高責任者の席は、マリーにとっても気掛かりだ。

 マリーもまた、魔界から帰ってきてそれぞれに報告を済ませたのち、勇者協会で起こった事件を聞くことになった。


「判断できる者も、いない……」

「否、我々で判断するしかないのだ」


 呆然とこたえたマリーに、ディートルヒはまぶたを閉じて頷いた。それに同意するよう頷いたのはレイナルだ。


「マースレンの後釜は、ディートルヒ、あなただとよく言われていた」

「ははっ……我はその器ではない。知らないことが、多すぎたのだからな」


 それぞれが、それぞれに。

 動きはじめた世界の中で目の当たりにする『事の大きさ』に、目を瞑りたくもなるところも大きかったのだろう。そう静かに苦くも笑ったディートルヒに、アーキスが口を出した。


「しかし、だからと言って……今は、皆が一つになるしかないでしょう」

「……その通りだな」


 ディートルヒはアーキスの言葉に頷く。


「この場で一番若いきみに諭されてしまっては、我々の顔も立たぬというわけだがな」


 ははは、と軽快に笑うディートルヒに、マリーは呆気にとられたまま顔を向ける。

 その視線に気づいたのだろう。目を開けたディートルヒは、マリーの顔を目配せするようにして口を開いた。


「だから、皆で手を合わせるしかなかろう……招集するしかあるまいな」


 ディートルヒが何を考えていたのか、マリーにも読めたところだ。しかし、その権限・・・・は最高責任者にしかないものでもある。

 マリーは空いた最高責任者の席を見つめた。


 シスターマリーも、魔王に言われ己の任務に就いて、この場所にいただけに過ぎない。最高責任者の席についていた歴代の者たちを見守り、『此の世』のカタチを守ることに意味を見出し、歩いて来たはずだった。

 戻って来てみれば、そこに座っていた現最高責任者、マースレン・ヒーリックももういなくなっていた。

 彼が守ろうとした世界が、正しかったのか、間違いだったのか。

 そんなことをこの場で考えたところでこたえが出ない。今はまだ、わからない。

 だけど、この世界を守ろうとした者たちに今を託された者として、前へ進まなければいけないことはわかりきっていた。


「……やりましょう。わたしたちで」


 マリーが覚悟を決めれば、レイナルも「あぁ」と頷く。


「ディートルヒ、招集の手筈はあなたの転移魔法に任せる」


 マリーが指示を出せばディートルヒは腕を組んで、もう準備は万端だとでも言いたげな様子で「ふっ」と笑った。

 マリーは改まったように背筋に力を入れて、もう一度空いた席を見つめた。

 あの日、背中を押した青年の決意を灯して旅立ったときの顔を思い出し――想いを胸に、高らかにその場にいたそれぞれに向かって宣言する。


「勇者五真聖の招集と、各国の代表を集めて、世界会談の場を!」


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