第271話 紡ぐ未来へ、託す想い
――『二人で真の救済を! 絶対に果たすんだ!』
遠い昔、励ましてくれたあの声は。
エリンスのことを突き動かすように引っ張ってくれた声は、いつも胸の中にあった。
――『ここからは一蓮托生だ』
――『くふふっ、ここからも、じゃぞ』
勇者協会の地下から魔界へ向けて出発するときだって。
エリンスが落ち込んでいても、いつも一緒にいてくれた小さな温もりはすぐそばにあった。
首筋から胸元にかけて熱を感じる。
エリンスは首から提げた重さを認識し、もう力も入らないと思った身体に鞭打って、渾身の想いで腕をつき身体を起こす。
「ダメだ……ツキノ……」
なんとか振り絞った声に、届かせようと手を伸ばしても届かない。
必死に呼び止めようが、しかし小さな白い狐は背中を向けたまま、優しく尻尾を振った。
「すまぬな、エリンス。約束を、守れそうにない」
「ダメ、ツキノさん」
アグルエも床を這うように腕で身体を起こして顔を上げた。
しかしそんな二人へ、ツキノは横顔だけを向けて涙を浮かべた瞳を細め笑う。
その笑顔に全てを察してエリンスが起き上がろうとすれば、エリンスとアグルエ、二人の肩を支えるように抱き寄せたのは飛び退いてきたシスターマリーだった。
――『じゃから……
ツキノは前を向いて、ピンと耳を立てる。
「エリンス……『アークイルとの契約』も、ここまでじゃ」
エリンスは言葉を返すことができない。無意識のうちにぽろぽろと流れ出した涙に滲む視界の中、揺れる小さな白き炎を見つめている。
アグルエと顔を合わせて、そんな二人を見たシスターマリーが悔しそうに下唇を噛みながらゆっくりと首を横に振った。
「センセイ、やっと、その気になってくれた?」
ツキノが一歩二歩と小さな足で近寄れば、クラウエルはそれを嬉しそうに笑う。
「違うの。
力強いツキノのこたえに、しかし、クラウエルはわかっていなさそうに首を傾げる。
エリンスはこらえきれず、シスターマリーの腕の中から逃れようと手を伸ばすが、しかし、思ったように力が入らない身体では虚しく藻掻くだけだ。
「ツキノ……」
力無く零れた声に、ツキノはツキノは横顔を向けてこたえてくれた。
「いいんじゃ……ここまで、二人の旅を見守れた。それは、五年前にも思っていなかった幸運じゃった」
まるでここまでしか見守ることはできない――と、そう悟って覚悟を決めたかのような物言いに、エリンスとアグルエは首を横に振る。
「いや……」
小さく零れたアグルエの嗚咽に、エリンスも身を震わせた。
だけど、ぎゅっと、シスターマリーがそんな二人のことを力強く抑えるように抱き寄せる。
――『ツキノの命を預かるってことだろう』
エリンスが首から提げている重みは、そういう意味だ。父親であるレイナルから託されて、エリンスが受け取った。
――『あまりあいつに無茶はさせられない』
レイナルの言葉が、今になって強くエリンスの中に思い起こされる。
――『だから、あいつを頼るのは
エリンスはぎゅっと右手を握り締めて、歯を食いしばった。
ツキノのためにも強くなると誓ったはずなのに。もう、無茶をさせてはいけないと知っていた。もう、頼ってはいけないとわかっていた。
なのに――。
己の無力さを嘆いても現状が変わらないことはわかり切っていて、だけど、握った右手の中では折れた剣が共鳴するように、泣くように震えていた。
――ツキノ!
ぎゅっと握った瞼の裏に、共に歩んできた全てが思い描かれる。
村の外に倒れていたツキトとの出会い。エリンスのことを広い世界に連れ出してくれた幼馴染の言葉は、いつだってエリンスのことを突き動かしてくれた。
五年前、カミハラの森での魔族との遭遇。まだ無力だったエリンスは、どうしようもなかった別れを経験して、そして、決意を固めた。
勇者候補生になる――憧れだけを描いた想いはあの日、決意に変わった。
勇者候補生になって、アグルエと出会って、故郷へ帰ったあの時、また出会えたはずだったのに。
かけがえのない友だ。ここまで引っ張ってきて、いつも旅を見守ってくれたもう一人の親でもあった。
頼ってはいけないけれど、頼りにしていた。だって、
エリンスが、ダメだ、ダメだ、と想い続けたところで、伸ばした手の先からはするりと想いがすり抜けて行ってしまう。もう、身体に力が入らないことはわかり切っていて、それでも一歩を前に踏み出そうと足を踏ん張った。
「契約破棄!」
ツキノが叫べば、途端に首が軽くなる。
眩しい白き閃光が上がって、エリンスの首からかかっていた契約の証である首飾りは弾け、粉々になった。
エリンスの胸からも白き炎が溢れ出す。そんな衝撃に震えたエリンスとアグルエのことを、シスターマリーは必死の表情で支えるように抱き締めてくれる。
突風が吹き抜けたような衝撃に、突如空間を覆った白き靄が広がった。
衝撃が治まって、次第に晴れていく靄の中、薄っすらと浮かび上がったのは大きな耳と大きな尻尾を持つ人の姿。
クラウエルは期待に胸を膨らませるように目を見開いて、そして、エリンスとアグルエは、たしかな喪失感を覚えたままに、その後ろ姿を見つめ続けた。
腰まである長い髪はさらさらと流れ、七色に包まれた霊樹の間の中でも目立つような透き通る純白。ぴんっと立つ大きな白い耳に、腰の辺りからは毛量たっぷりの大きな尻尾がふぁさりと揺れた。
広がる袖が特徴的な民族衣装のような白い装束に、肩ひもを背中で結んでいる。
垂れ下がる裾が、治まっていく衝撃の中はためいていて、肌を覆った戦闘用の黒いインナーとヒールのあるブーツを履く足がのぞいた。
腰に斜めに巻いたベルトには大きな刀が納められた鞘が差さっている。
本来の姿、本来の力を取り戻した白き仙狐は、外界の神たる力、白き否定の炎を全身から滾らせるように放って、その姿を顕現させた。
アマハラノツキノ。
かつてはそう呼ばれていたこともあったのだとツキノ自身が教えてくれた。
エリンスがもう二度と頼ってはいけないと想っていた力を携えて、傷つき身体を支え合っているそれぞれの前に、庇うように背を向け、立つ。
「センセイ!」
クラウエルが嬉々と瞳を輝かせれば、周囲には再び旋風のようにして白き炎が流れはじめた。今度はクラウエルの力だろう。興奮する彼の想いに同調するように周囲に広がっていく。
ツキノはその力を全身で受け止めるように、腰に差していた刀を抜いた。
白刃が煌く。振り抜かれた刃が、白き炎の流れを断ち斬り否定する。だが、それでも治まるところを知らないように、溢れ続ける二つの力は渦巻いて、周囲の空気が震え出す。
そんな二つの力が渦巻く中で、エリンスは気がついてしまった。
白き炎がか細く揺れている。ツキノの身体の中で、その芯の部分はか細く、かろうじて燃えているだけ。もう残り少ない力と時間を酷使しているだけに過ぎないのだ。
蝋燭の火は消える間近、最期の瞬間に大きく燃え上がる。
まさにツキノが振るっている力は、そのような力の使い方なのだと、わかりたくなくてもエリンスにはわかってしまう。
「ツキノーッ!」
エリンスは力を振り絞って叫んで、足を一歩前に出す。
だが、マリーも渾身の力でそんなエリンスのことを支えて引っ張った。
「ツキノさん!」
アグルエの涙交じりの悲鳴は、痛いほどにエリンスの胸をも打った。
一瞬、マリーの腕からも力が抜けたように感じたのは、きっと彼女の想いも二人と同じだからだ。
そんな痛々しいほどの三人の想いも、ツキノには届いているだろう。だけど、ツキノは迷いを断ち切ったように、振り抜いた白く輝く刀を構えたまま、クラウエルの前に立ち塞がった。
「ここで、おまえに、エリンスとアグルエをやらせるわけには、いかぬ」
「へぇ……だから?」
「
「言っただろ? 今のぼくの力は、センセイにも負けないって」
圧倒的な力の差は、エリンスも感じているところだ。
最期の力を振り絞っているツキノにしても、それはきっと同じなのに。
だが、ツキノはいつものように余裕を含んだ笑いでこたえていた。
「それは、どうじゃろうな?」
「まあ、いいよ。センセイを黙らせて取り戻してから、後ろのやつらを壊すだけだ」
強がりに見えたのだろう。クラウエルが笑って、二人が言葉を交わした――その刹那。
周囲の空気が震えるような感覚に、一同が身を震わせた。
「くふ……間に合ったようじゃな」
ツキノは、待っていた瞬間が訪れたと言ったように笑った。
ぐらぐらと地面すら揺れている。世界を脅かすような力の影響に、星自身が揺れている。
その感覚は、エリンスがラーデスア帝国で感じたモノと同じだ。
あの瞬間――大いなる巡りの流れは断たれた。
それと同じことが起こったのだとすれば――。
「まさか」
クラウエルは余裕そうに笑っていた表情から一変し、慌てたように霊樹へ向かって振り返る。
「そうじゃ。大いなる巡りの流れは、取り戻したってことやのう」
クラウエルはそこで初めて焦ったような表情を見せた。
「
「ルマリア、今のうちじゃ! 二人のことを、頼む!」
戸惑うクラウエルを前に、腰を低く刀を構えなおしたツキノが叫んだ。
覚悟の灯った背中は大きく見える。だけど、エリンスは必死に手を伸ばした。
「ツキノッ!」
「ツキノさん!」
エリンスとアグルエの叫びが木霊する。
ツキノはちらりと横顔だけを向けると、目をゆっくりと細めて、そして、優しく笑ってくれた。
「
力強く宣言したツキノに、苛立ったような視線を向けるのはクラウエルだった。
「二人ならば、やれる。ここまでずっと、ついて見てきた……
ツキノが最期にそう笑った声と、その笑顔だけが白く溶けた光の中にこびりつくよう強く鮮明に残り続けた。
必死にもがいたエリンスのことを、悔しさに目を伏せたシスターマリーが必死に抱き締めてくれていた。「ごめん、ツキノ……」と涙交じりに呟かれた言葉が溶けて、マリーは転移魔法を唱えた。
――ツキノ、ツキノ、ツキノォォォォォ!
視界がぐにゃりと歪んで、白い光の中に吸い込まれるようにして霊樹の間が遠ざかる。
――うああああああああああああ!
叫ぶエリンスの声までも虚空の中に吸い込まれていく。
遠ざかった背中、失った重み。そんな先にあった、いつも二人の旅を見守ってくれていた優しい眼差し。
失くしてしまっても、もう、目の前にはなかったとしても。
赤銅色の瞳は涙でうるりと輝いて、品のいい紅を引いた口元は、それでも笑っていた。
そのような彼女の優しさは、エリンスとアグルエ、二人の胸に刻みつけられている。
二百年前に役目を果たした小さな背中に、無力さを嘆いていて。
そんな大切な友達の気持ちにも気づいていたはずなのに。
何もできなかった。強くなんてなれなかった。
エリンスの胸を締めつけたのは、そんな無力さだ。
折れた
そうして、エリンスは二度、友を失った。
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