第270話 〝心残り〟
攻撃を弾かれたクラウエルは悔しそうな顔を浮かべながらも、しかし、なんともないことのように着地した。
対して、ニルビーアは地面を滑りながら膝をつき、グッとした眼差しをなんとか前へと向けなおす。
「ニルビーア、どうして、戻って来たんじゃ!」
そんな二人の対比的な体力差に、白い尻尾を振ったツキノが一歩飛び出した。
ニルビーアは肩で荒い息を繰り返しながら、薄目を閉じた横顔を向けてツキノにこたえる。
「わたしには……まだ、やらなければ、いけないことが……あるからです」
掠れた声に細い息。ツキノも愕然としたように目を見開いてこたえた。
「だとしても、お主はもう、限界じゃ!」
「いいえ……ツキノ、大見得切った手前、早い再会となって、しまいましたが……それでも、想いは果たします」
冗談交じりに笑ったようにするニルビーアに、ツキノは何も言い返せないようだった。
なんとか身体を起こしたエリンスも、すかさず駆け寄ってきたアグルエに肩を支えられて立ち上がる。
壁に叩きつけられて倒れていたシスターマリーも起き上がり、ゆっくりと歩み寄って来た。
「ニルビーア……あなたには、あっちを任せたってのに……」
「いいえ、ルマリア。これはやはり、わたしが、託されたことですから」
二人は視線を交差させて、ニルビーアがそうまで言うのならば、といった調子でマリーは押し黙った。
「ツキノ」
ニルビーアは小さな白き獣を見下ろしている。
「あなたから託された約束も、魔王様の想いも、無下にするわけには、いかないのです」
わかってほしい、とそう言いたそうな瞳で、小さくニルビーアは言葉を閉め結ぶ。
先の戦いで全身に酷いダメージを負っている。いくら魔族が強靭な身体を持っていようとも、限界を超えていることくらいエリンスにも伝わってきた。
ニルビーアが持つ
ツキノは唖然として言い返すこともできなさそうに、ニルビーアの横顔を見上げている。
ニルビーアは手にした得物を構えながらクラウエルへ向き合った。
「クラウエル、もうよしなさい。そうしたところで、あなたの寂しさは埋められない」
「うるさい、母親面をするな。ニルビーア……もう、死にかけのくせに」
クラウエルは白き炎を灯した拳を握りなおして、先ほど攻撃を止められたことを根に持つように言い放つ。
しかし、ニルビーアも弱り切った様子を振り払うようにこたえた。
「わたしは……あなたのことをツキノから託された。あなたがしっかり前へ進めるように、この二百年……」
「だから、うるさい。ぼくが何を望んだか、知りもしなかったくせに。それにセンセイなら、もう、そこにいる!」
クラウエルの注意はすっかりニルビーアが惹きつけてくれている。
その間にもエリンスはアグルエと手を握り合った。二人の想いが、こうして直に触れあうことで溶け合っていく。全身に湧き出る力を胸に、アグルエと手を放すと、エリンスも
「わたしが、あなたを止めなければ!」
ニルビーアがボロボロになった身体を投げ出すように一歩を踏み締め、飛び出した。
構えた得物を振り抜き、一瞬の間に周囲へ張り巡らせた糸を奏でるように弾き、そして、斬撃を奏でる。
だが、クラウエルは煩わしそうに耳を押さえてから右腕を振り上げた。
「うるさいなぁ、もう、ここで、お別れだ!」
クラウエルが、右手のひらを叩きつけるように地面へついた。
周囲に広がる眩しい白き閃光で視界は真っ白に包まれて、エリンスが飛び出すのも間に合わない。
「ニルビーア!」
アグルエの悲鳴が背中越しに聞こえて、エリンスは剣を両手で握りなおす。
「ニルビーア!」
ツキノとシスターマリーの悲鳴も混ざって聞こえた。
エリンスは白き光の閃光の中を、剣を振り構え、駆け抜ける。
光の中心で、破壊の力に襲われるニルビーアは悲鳴を上げることもなく膝をつく。
クラウエルが白き炎を叩きつけた瞬間に周囲へ広がった力は、アグルエの滅尽の炎にも似ていた。破壊し尽す――周囲に迫った何もかもを破壊する。そういった彼の想いが、ニルビーア自身もニルビーアの放った糸も破壊した。
エリンスは全身でそれを否定する。だが、周囲の全てを否定するには、間に合わない。それでも、彼女が作ってくれた一瞬の隙を突くように駆け抜け、未だ床に手をついているクラウエルへと迫る。
「クラウエルッ!」
エリンスが剣を振り上げれば、しかし、右手を床へついたまま顔を上げるクラウエルは、まるで動じたようにもせずににたりと笑う。
黒白に輝く剣身がクラウエルのことを捉えている。逃さない、逃しはしない。たしかな感覚を持ってして、エリンスは全身全霊の一撃に想いを込めて、
剣士の感覚として、師匠に教わった剣の教えを元にして、剣閃が彼の身体を引き裂くところまで見えている、たしかな一撃を放ったはずだった。
だが、瞬く白き閃光が治まった
「くく、キアハハハハハハハハ」
エリンスの腕が、剣を握った体勢のままぷるぷると震えている。
力を抜くことも入れることもできず、両足もしっかりと地についたまま、目の前にした『神の器』イプシロンの圧倒的な力を前に、身動きを取ることができない。
エリンスが振り抜いたはずの剣身はクラウエルの左手に掴まれて、指一本、エリンスに動く隙は残っていなかった。
ギリギリと震える二人の力の衝突も、全てクラウエルの力の中に抑え込まれている。
剣の刃を鷲掴みにされる――今までされたこともない所業に、エリンスの顔も引き攣った。
「おまえに、ぼくは、斬れないよ」
ばたりと、全身に切り裂かれたような傷跡を残すニルビーアが事切れるように倒れてしまうのを横目に、エリンスは「ぐっ」と息を呑み込んだ。
「今やぼくの中の、勇者の力はこの地上で誰よりも強い。『神の器』として、二つの力を一つにし、
クラウエルが力を込めるように左手を握り締めれば、金属が砕けるような音が鳴り響いた。
飛び散る青白い刃の破片に、エリンスの瞳は驚愕と悲哀に見開かれる。
エリンスの想いまでをも破壊するようにして、クラウエルが握っていたエリンスの剣、
二人の想いを乗せた剣が――。
ここまでの旅路を支えたエリンスの願いを乗せた刃が――。
あの星に誓った決意までも――。
エリンスの喉を言葉にならない声が掠めた。驚きに見開いた視界の中で、クラウエルは勝ちを確信したようににたりと笑う。
「そんなっ!」
口を手で押さえて瞳には涙を浮かべて、アグルエが悲鳴を上げる。
そんな彼女の想いすらもエリンスの胸の中へと流れ込む。
シスターマリーも、ツキノも目を見張るようにして、瞳を揺らがせた。
「くっ」
刃を失ったエリンスはそのまま飛び退こうとするも、しかし、クラウエルがそれを許してくれるはずもない。
小さく振るわれた右腕から、大きな衝撃となって白き炎が広がった。
身体が再び宙に投げ出される感覚に、成す術もなくエリンスは瞳を閉じそうにもなる。だが、吹き飛ばされたはずの身体は優しい温もりに抱きかかえられた。
「アグルエ……」
エリンスが力なく呟けば、背中越しに感じたのはアグルエの温もりだ。
エリンスが投げ出された瞬間、飛びついてきてくれたのだろう。しかし、そんな風に彼女が支えてくれはしても、二人の力を持ってしても、衝撃を抑えることができなかった。
「ぐっ、わあああ!」
「きゃああああああ!」
二人は一丸となって弾き飛ばされて壁に叩きつけられた。
「エリンス、アグルエ!」
ツキノの悲鳴が聞こえたところで、しかし、エリンスとアグルエは地に伏せて起き上がることができない。
なんとかエリンスが顔だけを上げた先、広がったのは絶望的な光景だ。
膝をつくシスターマリー、呆然と事態を見守ったツキノ、事切れてしまったニルビーア。
かつての魔王五刃将たちでも敵わない。
霊樹の間の中心ではただ一人、勝ち誇ったように白き炎を滾らせるクラウエルが立っている。
――壊滅だ。
壊滅的な破壊、圧倒的な勇者の力を前にして、エリンスとアグルエもそう思わされてしまった。
「ニルビーア……お主まで、死に急ぐことはなかろう……」
転がったニルビーアへ、ツキノは呆然と涙を浮かべた瞳を向けていた。
マリーは苦しそうな表情をしながらも剣を抜き、顔を上げて立ち上がる。
残された戦力は、もうない。現状を誰が見ても明らかだ。それを覚悟しているのか、彼女の横顔にそんな想いが垣間見えた。
だが、それを制止したのはツキノだ。
「ルマリア、お主まで失うわけにはいかぬ」
白き獣の背中に白き炎が灯っている。
煙のように立ち昇る小さな炎が、エリンスにも見えた。
――ツキノ?
声にすることはできなくて、ただ眼差しをその小さな背中に向けていれば、ツキノは白い尻尾をふさりと振った。
「後のことを、頼む」
背中を向けたまま小さく零した言葉に、エリンスもアグルエも、シスターマリーも返事をすることはできなかった。
「もう、懲り懲りじゃ。これ以上、先に……死にゆく者を見届けたくなどない。これは
白い大きな耳をピンと立て、白い大きな尻尾も膨らませ、小さな身体でツキノは倒れた皆の前に立つ。
クラウエルはそのようにしたツキノのことを、どこか嬉しそうに迎え入れるように見下ろしていた。
「二百年前から続いた因縁の……二百年前に断ち切れなかった
ツキノは開きなおったように明るくそう言ったけれど、全てを受け止めたがゆえに、導き出してしまったこたえに気づいたから、だったのだろう。
覚悟も後悔も、ツキノの想いと十七年を共に生きたエリンスには、より色濃く伝わって来る。
「失ってから気づくなど……ふふっ、エリンスのことを笑えもせぬ。じゃから……
ぽろりと、エリンスの頬を一筋の涙が伝った。
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