第260話 魔が満ちる大広間
――それぞれの衝突があって、エリンスたちが広間へと突入を果たしたのはその後だった。
エリンスは
『大切な彼女』の残り香のような気配を微かに感じる。それは紛れもなく黒き炎の残滓で、その中心は、城の上階のほうから強く感じ取ることができる。
しかし、今はそう、先ばかりを見てはいられない。
目の前にしている魔族から感じる異様な気配。その強靭な身体に纏い揺らぐ白き炎の気配はエリンスもよく知っているものだ。
自分自身の中から湧き上がってくる、あの日授かった残り火、勇者の力に他ならない。
「何故、勇者の力が……」
それは人が授かるものであろう。あるいは、白いマスカレードマスクをした男が持つ力か。
エリンスの脳裏にやつの顔が横切って――そう呟いたエリンスには、横に並ぶ魔王がこたえてくれた。
「……『神の器』だ」
アルバラストは真っすぐとバーザントを睨みつけている。
そして、そんなアルバラストの言葉にはツキノが目を見開いてこたえた。
「クラウエル……あの子が、ここまでやったのか」
我が子の成長に驚くような言葉にも聞こえたが、どちらかと言えば、恐怖に近いニュアンスだった。
『神の器』――白き炎と黒き炎を宿すために、かつてアルクラスアが犯した禁忌の果ての研究成果。それは、二百年前に滅ぼされたはずだった。
だが、
そんなことは、エリンスにもわかる。ごくりと緊張を呑み込んで、しかし、目の前にしている『神の器』となったバーザントの目が不気味に赤紫色に光った。
「ふふっ」
エリンスが聞いたことのある女性の声色で、笑い声を発する。
「さすがは魔王」
称賛するように、しかし見下したように、目の前で『神の器』は笑った。
エリンスはその声を知っている。
黒の管理者と呼ばれ、勇者協会である程度の地位を築いておきながら、裏切り、アーキスを惑わした魔術の使い手。
そんな彼女が勇者協会総本部でしでかしたことをエリンスはまだ知らないが――だが、それでもどうして彼女の声がここで聞こえるのか、恐怖を感じざるを得ない。
ネムリナ・エルシャルズ。どうして、彼女が
メルトシスも、シスターマリーも話がよく読めないといったような表情を見せてはいた。
エリンスも、何もこたえることができなかったが、アルバラストは「そういうことか」と納得したように言葉を返す。
「……
まるでよく知っていることかのように、どこか悔しそうにしながら恨めしそうに深く蒼い瞳を揺らした。
「そう、精神が壊れてしまったこの『神の器』デルタは、わたしがこうして現世に繋ぎ止めているのよ」
左目を金色に、右目を赤紫色に輝かせる『神の器』デルタは表情を動かさないのに笑ったようにこたえる。
ネムリナの声は何でもないことかのようにそう語ったが、エリンスはその意味を理解するのに時間を要した。
『神の器』デルタ、白き炎、造られた禁忌。
人界を離れる際、アーキスと交わした言葉を思い返す。
――あちらのことは、彼に任せたはずなのに。
「どうして、おまえが、ここにいるんだ」
エリンスが聞けば、デルタはネムリナの声色で笑ってこたえた。
「
その言葉の意味がやはりエリンスにはわからなくて、代わりとばかりにこたえたのはマリーだ。
「あなた本当に、ネムリナ・エルシャルズ、なんだね」
勇者協会の中でも二人の立場は近しいところにあったのだろう。少なくとも顔見知りではあったはずだ。
そうこたえたマリーにも、ネムリナは「ふふふっ」と笑ってからこたえる。
「えぇ……わたしはわたし。わたしの力がこうして役立つ時を待っていたの」
エリンスの肩の上ではツキノも何かに気づいたようにはしていたが、口を開こうとしなかった。
「……復讐か」
だが、アルバラストは静かにこたえる。
「復讐? あぁ……わたしを育ててくれた叔母さまは、そういうことも言っていたっけ」
ネムリナとアルバラストの間にだけ伝わるようなやり取りに、エリンスたちは息を呑んで見守った。
ひょっとしたらツキノは気づいていたのかもしれないけれど、やはり口を開こうとはしない。
「その魔術は、二百年前に滅ぼしたはずだ」
「えぇ、
だが、目の前にこうして現存するということは、そうではないのだろう。
それもまた、二百年の間に生まれた歪みなのか。
「魔の一族。わたしの一族は、そう呼ばれていた」
人界では聞いたこともない話をネムリナは昔を思い出すかのように語る。
「叔母さまの口癖ね、いつの世にか、魔王に復讐を果たすためにこの魔術を継いできた。それも、
ネムリナ自身はそう思っていないかのように語る。
アルバラストはそれに焦ったようにこたえた。
「何が、目的だ」
「
一体何の話をしているのか、エリンスはまたもや理解するのに一瞬の間を要した。
――ネムリナはなんと言った? 『実験の結果を見届けたい』『それが研究者の信念』、それではまるで。
「
エリンスの言葉を代弁するように、メルトシスがこたえる。
ネムリナは「ふふふっ」と笑うだけで、それにこたえたのはアルバラストだった。
「エルシャルズ、それは偽名だろう。ダミナ・カイラス……かつて、アルファを造った男の名だ。そして
ダミナ・カイラス。その名に聞き覚えはないけれど、カイラス家――それは、エリンスにも馴染み深い名前である。
デイン・カイラス。かつて勇者と共に魔王を退けた
「そうよ。兄の研究が、彼を創った。その結末を見守りたいというのが、妹の努めでもあるでしょ?」
「カイラス家は、アルクラスアで魔術の研究をしていた一族だ。長男であるダミナが犯した禁忌を、弟のデインは勇者と協力して止めに入った。末子にいた妹は、二百年前の大戦で死んだはずだ」
笑うネムリナに、焦るような表情を見せるアルバラスト。
それを含めて、滅ぼしたと語ってはいたのだろう。だが、
「わたしは死んだ。けれど、精神となって生き続けた。こうして、末代まで」
ネムリナはデルタの身体でそう語る。今そうしているように精神だけとなっても、身体を継いで生き続けていたのだろうか。だとすれば、今目の前にしているのは二百年前の亡霊も同様だ。
「アルファは、わたしと兄の最高傑作だったわ」
そう笑ったデルタに、アルバラストは「ぐぐぐっ」と身を震わせる。
その感情が横に並ぶエリンスにも痛いほどに伝わって来た。怒り――だ。
震える空気に連動して、アルバラストの背中から黒き炎が溢れ出す。透き通ったアグルエのそれとは違う、漆黒へ染まる黒炎が。
「まだ、終わっていなかったと、そういうことか」
深い蒼い瞳も黒く燃えている。アルバラストが睨みつければ、ネムリナはデルタの身体を使い、肩を竦めて「そうなるわね」とこたえた。
「だけど、実のところ、もう、わたしにもわからないのよ」
ただネムリナは困っているかのようにして言う。
「何を想っていたのか、何がしたいのか。だから、わたしはもう、彼に遣われるだけでいいのよね」
とぼけているわけでもないのだろうことは、エリンスにもわかった。
二百年の時を生きて、それだけの世の流れを目にして、その中心にいて、彼女の想いはもうバラバラなのだろう。
そこにいるのに、そこにいない。まさに亡霊のようにして。
掴みどころのなさにも似た違和感は、エリンスがラーデスアで彼女と初めて顔を合わせたときに感じたものなのだと、そこで気がついた。
人の身体に乗り移ることのできる魔術、
「ルマリア、倒れた二人のことを頼む」
そう口にしてアルバラストが一歩前へ出た。その後ろで呆気にとられたようにしたシスターマリーは静かに頷く。
忘れてはならないが、ニルビーアもマーキナスも、『神の器』を操るネムリナにやられてしまったということだ。
幸いなことに、二人の息はまだあるらしい。それら全てを背負って、アルバラストは魔王として前にもう一歩を踏み出す。
「やる気になってくれたなら嬉しいわ。わたしももっと、
白き炎を噴き上げて、『神の器』デルタは四本の拳を握り込む。
白き破壊の炎、勇者の力を注がれた『神の器』としての力を使いこなせるのも、それを創った張本人であるというのならば納得だ。
目の当たりにすることになった強大な力を前に、エリンスも立ち止まってはいられなかった。
上階に感じる彼女の気配に一刻も早く追いつくために――今、するべきことがなんなのか。
手にした
相手にするのが誰であろうと、なんであろうと、今やるべきことは決まり切っている。
先ほどの言葉に頷きながらも心配そうな眼差しを向けるマリーと、肩の上のツキノの視線を感じてエリンスも一歩を踏み出す。
そうすれば、ツキノも尻尾をぶわっと立てて威嚇するようにしてデルタのことを睨みつけていた。
アルバラストの横にエリンスが並べば、逆側にはメルトシスも剣を構えて立ち並ぶ。
「やってくれるか、勇者候補生」
アルバラストが両側に並んだ二人の勇者候補生を一瞥し、エリンスとメルトシスは「はい!」「あぁ!」と頷いた。
「別に、相手が何人だろうと構わないわ。失敗作の『神の器』だろうとも、わたしが操れば百パーセントの力を発揮できるから」
拳を振り上げたデルタに、エリンスとメルトシスが一歩前に出て剣を構えた。
アルバラストの怒りに燃えた視線が、赤紫色に輝く瞳を貫いている。ただ、デルタはそれにも怯んだ様子は見せずに拳を振り下ろす。
「時間を稼いでくれ。そうしたら後は、我が担おう。頼む!」
魔王アルバラストの掛け声にこたえるようエリンスとメルトシスは地面を蹴って、剣を振り抜き、拳を弾き返した。
白き炎を纏う拳にも、二人の剣は後れを取らない。
そんな二人の勇者候補生の背中を見つめて、魔王アルバラストは自身の手のひらに拳を打ちつけた。
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