第259話 死が分かつ絶望
『神の器』デルタは再び四本の腕を振り上げる。その際、柱を打ち砕き、己の腕が傷つこうと彼は気にした素振りも見せない。
そのなりふり構わない身体の使い方が、アグルエには心を失くした魔導機械のようにも見えてしまう。
「やめて……」
アグルエが呟いても、攻撃は止まない。呆然と不安に胸を揺すらせるその間にも、デルタの身体を覆っている白き炎の気配が大きくなった。
「マーキナス！ アグルエ様を、頼みます！」
前線へ踏み出したニルビーアが叫ぶ。手にする楽器の弓のような得物を横に引き、いつの間にか周囲に張り巡らされていた糸を弾いた。
デルタが力を放つように空気を振るわせれば、それを打ち消すかのようにニルビーアも音色を奏でる。
糸を弾きながら跳ぶニルビーア。奏でられる音にアグルエは無意識のうちに心を奪われ、その動きを目で追った。そうしている間にもマーキナスに腕を引っ張られ、二人が戦う位置より遠ざかる。
煩わしそうに跳び上がったデルタが四本の拳を握り込み、空中へ跳んだニルビーアを叩き落とそうと拳を振るう。
だが、そのどれもが周囲に張り巡らせた糸に弾かれ、ニルビーア自身へ届くことはない。
斬奏の糸――本来であるならば、その一本一本が鋭い刃物のような斬れ味を誇るニルビーア特製の糸のはずだ。
しかし、デルタはそれに怯む気配も見せない。振り抜かれる拳が傷ついている様子もない。身体に纏った白き破壊の炎が、身を守るバリアのような役割も果たしているのだろう。
『神の器』として造られたがゆえの力の使い方なのか、魔術でコントロールされているというデルタは、白き力を使いこなしているように、アグルエの目からも見えた。
しかし、ニルビーアはそのような攻撃に怯んだ様子も見せず、得物を振るう。
目にも見えない細い糸がわずかな光を反射して、地を這うようにデルタの足元へと伸びる。
だが、その間にもデルタは腕を振り上げ拳を握った。
「ニルビーア！」
アグルエが心配になって叫ぶも、ニルビーアは柔らかい表情でこたえてから前を向きなおす。
迫る拳に反応するように、ニルビーアの頭から伸びた二本の触角が反応を示した。弓で宙に張り巡らせた糸を弾いたかと思えば、音が波紋のように広がって、薄い
拳は柔らかく吸収されるようにその膜へ吸い込まれる。続けざまに振り上げられる二発目、三発目、四発目の拳にニルビーアは同じように対応をした。宙に張り巡らせた糸を蹴って飛び移り、蹴って飛び移り、一発一発を細かい動作で防ぎながら、糸を弾いた。
デルタの注意はすっかりニルビーアが引きつけてくれている。
「マーキナス、アグルエ様を連れて、やつを追ってください！」
ニルビーアはそう言うが、アグルエもマーキナスも足が固まったように動くことができなかった。
「でも！」とマーキナスが叫ぶ。ニルビーアはデルタの攻撃を弾きながらも首を大きく横に振った。
糸を蹴って後方へ、そうして言い合いをしている間にもデルタが攻撃の手を止めることはない。
「言い合っている暇はないのです！ 魔王様が逃げた、
ニルビーアがかわしながら叫べば、マーキナスも頷く。
「アルバートの部隊が？」
そこで出てきた名前にアグルエも「お兄様が？」と思わず呟く。
二人が動けない間にも、ニルビーアとデルタの攻防は続いていた。
ニルビーアが弓を振るう、伸びる糸をデルタが拳で弾く。そのまま振るわれた二撃、三撃目の拳が、ニルビーアの張り巡らせた糸を断ち切った。
「くっ」と表情を歪ませたニルビーアは、そのまま拳の圧に飛ばされて壁に叩きつけられる。
「ニルビーア！」
アグルエがもう一度叫べば、デルタの視線は動けないでいた二人へと向いた。
赤紫色の瞳、溢れ出している白き炎。迫る威圧感。
アグルエは「くっ」と息を噛み殺し、手にしたリアリス・オリジンを握り込む。
だが、その腕をマーキナスが引っ張った。
「一か八か、か！」
マーキナスは何かを考えたように表情を強張らせ、腕を構えた。
デルタがアグルエとマーキナスに向かって握った拳を振り上げる。だが、その身体の周囲に巻きつくように白い輝きを放つ糸が纏わりついた。
「ここはわたしが、食い止めます！」
壁に叩きつけられたはずのニルビーアは、弓を振り上げ宙を蹴り飛び回った。
弓を振る度に糸が伸び、周囲には蜘蛛の巣のように糸が張り巡らされている。
これではアグルエとマーキナスも身動きを取ることはできない。
「わかったよ、ボクの転移でも、小距離だ」
「十分です！」
二人がやり取りをしている間にも、デルタは身体に巻きついた糸を白き破壊の炎で焼き切った。
だがその刹那、ニルビーアが弓を振るえば、周囲に張り巡らされた糸が一斉に振動をはじめる。
空気までもが震え出す。アグルエが耳を押さえようとしたその刹那、マーキナスが何やら魔法の詠唱を果たした。
◇◇◇
ぐにゃりと歪む視界にアグルエが戸惑う間もなく、周囲の光景は一変した。
広間より狭くなった通路、ここは廊下だろう。敷かれた赤い絨毯、燭台が等間隔に並ぶ黒壁が視界の先に広がった。
アグルエも見覚えがある。ここは城の上階、玉座の間へと続く場所だ。
何が起こったのか、アグルエも理解する。手にしていたリアリス・オリジンを一度鞘に納め、並んだマーキナスの肩を支えるようにし、彼女の顔をのぞき込んだ。
「マーキナス……どうして、ニルビーアを置いてきちゃったの！」
「……きみのことを頼まれたからさ」
マーキナスは無表情にもこたえた。その無機質さにアグルエは悔しさを胸に、ぎゅっと瞳を一度閉じて、開いてからこたえる。
「でも……」と言い返そうとして、彼女も事の重大さをわかっていないはずがないと気づいてしまう。悔しそうに下唇を噛んだマーキナスの顔が見えてしまったから。
『神の器』デルタとなったバーザントの力は、魔族一人が相手にできるようなものではないと、アグルエもマーキナスも直感していた。ゆえに恐怖を感じて、足が竦んでしまった。
作戦目標は、魔王アルバラストの救出と大いなる巡りの流れを直すこと。
そのためには城の最上階を目指す必要があった。
だから、ニルビーアは『ここはわたしが、食い止めます！』と身体を張ってくれたのだ。
マーキナスが機転を利かしてこの苦しい状況下でも転移魔法を使ったのだろう。あの場でニルビーアが自由に戦うためにも、それが最善の選択ではあった。それがたとえ、囮にするような選択であろうとも。
おかげさまで玉座の間はもう目の前だ。廊下の先に大きな両開きの扉が見えている。
状況を整理して冷静になってくれば、感覚が研ぎ澄まされていくようだ。
「……マーキナス、あなただけでも戻って」
「え？ だからボクは、きみのことを任されたって」
たとえ相手が絶大な力を持っていようとも、二人がかりであるならばいくらか勝機はあるだろう。
アグルエはそう考えながらも、真っすぐと玉座の間を――
そんなアグルエのことを、マーキナスは不審そうに見上げている。その顔を一瞥して、アグルエは首を横に振った。
「ううん、大丈夫だから」
アグルエはその先に感じた気配に、決意を胸のうちでぎゅっと固めた。
アグルエが覚悟を持って一歩を踏み出せば、マーキナスは少し困ったように眉をひそめた。
「戻って、マーキナス」
横顔を向けて一瞥すれば、マーキナスは怯えたように「わ、わかった」と首を縦に振る。
どうやら無意識のうちに、固めた決意を表すかのようにして黒き炎が身体から溢れ出していたらしい。
滅尽の炎、透き通った黒き炎は――魔王の証だ。
アグルエは笑顔を作ってマーキナスへ向かい、「うん」と頷く。マーキナスももう一度頷くと、何やら魔法の詠唱をして廊下から姿を消した。
マーキナスが戻ったのを確認して、アグルエは「さて」と息を吐いて、玉座の間へと向かう。
両開きの頑丈で大きな扉を目の前にして、旅立ったあの日のことを思い出した。
――いつかくる時を待っていて、その時はやってきた。お父様に頼まれて、旅立って。そして、また戻ってきた。
その覚悟を胸に、アグルエは両手で扉を開け放つ。
豪華絢爛なシャンデリアが吊り下がる高い天井。進んだ先、数段上がる段差の上にあるのは、三メートルほどの大きな玉座。
玉座の間だけは荒れた様子はなく、だが、そこには先ほどからアグルエが感じていた通りに、人の気配があって、人影が立ち尽くしている。
「ここで待っているのは、やはりシャル、あなただよね」
玉座の間へと踏み入ったアグルエのことを見つめる真紅の視線。
アグルエは、気配を隠そうともせず巨大な闇の
流れる長い銀髪に、漆黒のドレス。背中から生えた白い翼、天へと向かって伸びる二本の黒い角。
その手には既に闇の中より造り出した
「ルフフフフ、楽しみは、とっておいてもらったから」
玉座の真ん中に立ち尽くしていた
扉の先からも感じた気配は殺気だった。アグルエがこうしてくるのを、ずっとここで待っていたということだろう。
そう笑うシャルノーゼの足元に倒れている人影があって、それに気づいたアグルエは咄嗟に目を向ける。
黒いマントの下に鎧を着込んだ男性だ。青みがかる黒い肌、そして、床に伏せられてのぞいている顔からは、既に生気が感じられない。
端正な顔立ちはどこかアグルエにも似ていて――アグルエは思わず声を上げた。
「お兄様！」
倒れているのは見間違うはずもなく、アルバート・イラ。アグルエの兄で、アルバラストの実の息子だ。
「くっ！」
どうして、と問うまでもなく。事が既に起こってしまったことは一目瞭然だった。
シャルノーゼを目の前にしているというのに取り乱してしまいそうになる。「ルフフフ」と笑ったシャルノーゼの声で、アグルエは「ぐっ」と力強い視線を向けなおす。
「おかえりなさい、アグルエ。だけど、もう、遅かったのよ」
そうしたアグルエの表情が実に面白いといった調子で、シャルノーゼは笑っている。
シャルノーゼが倒れていたアルバートを蹴飛ばした。床を転がる兄の姿に、アグルエは駆け寄って屈みこんでその身体を支える。
苦しむこともなく閉じられた瞳。口元から流れた赤い血。身体からはすっかり熱が失われていて、冷たくなっていた。
それもそうだろう。胸の辺り、鎧を砕いて、その身体には大きな穴が開いていた。まるで心臓をひと掴みに抜き取られたようだ。
流れた血はマントが吸っているためか、身体を抱き起すように支えたアグルエの手にもべとりと嫌な感触が残った。
悔しさと哀しさ、それに恐怖。なんとも言えない感情が渦巻いて、悲鳴として飛び出そうになるのを精いっぱい我慢して、「くっ」と想いを噛み締める。
瞳からはうるうると、泣きたくもないのに涙が溢れ出した。
「なんで……」
そうしてアグルエが呟けば、シャルノーゼが冷たくもこたえた。
「わかるでしょう。あなたの兄も、黒き炎を継ぐ者。あなたのそれや、魔王のそれに比べれば弱い灯だろうとも、黒き炎の継承者には代わりない」
――『
「お兄様！」
呼んでもこたえてくれはしない。
アグルエの瞳からは止めどなく涙が溢れ出した。比例するように黒き炎が想いを燃やす。
ぽたぽたと流れる涙はアルバートの顔の上に落ちて、そんなアグルエの温もりに照らされるアルバートの身体はやんわりと白い光を放ちはじめた。アグルエの腕の中からその重さが消えていき、光となったそれは天へと昇っていく。
どうして、と問うても、それが自然の摂理だから。
アグルエがどれだけ想いを込めて黒き創造の炎を灯そうと、その温もりが戻ることはない。命を、生き返すことはできない。
ぎゅっと握り締めた拳には、そこにたしかにアルバートがいたのだという渇いた血の感触だけが残って――アグルエの全身を溢れ出す想いが、黒き炎が覆い包んだ。
「ルフフフ、いいわぁ。その調子よ」
シャルノーゼは不気味に笑う。
アグルエは顔を上げ、その顔を睨みつけた。
「いいのよぉ、その瞳。わたしが、求めていたモノだわ」
「シャル、どうして、あなたが、ここで……！」
アグルエが胸のうちより溢れてくる想いを込めて聞けば、シャルノーゼは楽しそうにただ笑って手を広げた。
「さぁ？」
聞いただけ、無駄だった。
立ち上がったアグルエは、腰に携えていたリアリス・オリジンを抜いて構える。
「わたしの、邪魔をしたいだけ、なんでしょ」
「ルフフフ、あなたの憎しみが、その絶望が、わたしの闇の力ともなる」
兄のことも、バーザントのことも。
アグルエの中で眠っていた感情に火をつけるには、十分すぎるほどのことだ。
「なんとでも、言え。もう……許さない。
アグルエがいくら睨みつけても、シャルノーゼは楽しそうに笑うだけ。
やはり、もう言葉を交わすだけ無駄だ。
「言ったでしょう、『もっと絶望する顔が見られそうだし』って」
もう言葉は不要だとアグルエは覚悟を固めた。だから、こたえず剣を握って一歩を踏み出す。
シャルノーゼも大鎌を振り上げ、アグルエにこたえるように一歩を踏み出した。
「わたしはこの時を待っていたの。あなたの
滅尽の魔王候補生、
平行線を辿った二人の運命は、幾度となく対立を繰り返した。
だがこの時を迎えるまでは、アグルエはどこかでまだ、わかり合えるはずだと信じていたのだ。
アグルエが振り抜いた剣と、シャルノーゼが振るった大鎌が衝突する。
互いに譲らない想いを懸けて、刃は交わった――。
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