第244話 魔界の空
エリンスがクリームシチューを食べ終える様子を、セレナはにこにこと頬杖をついて見守っていた。
やはりエリンスとしては三つの瞳に見つめられるということに慣れそうもなかったのだが、皿が空になったところで手を合わせて「ごちそうさまでした」と頭を下げた。
テーブルの上ではパンを平らげたツキノも満足そうに尻尾を振っている。
クリームシチューはセレナが自信作と言うだけあって、エリンスの口にも合った。
アグルエが人界の食べ物に興味を示していたことを思い出すと、魔界の食事は味気ないものなのかとも思っていたが、どうもそうでもないらしい。
「わたし、人界の料理も研究しているの。母がシェフをしていたから」
エリンスの思考を読んだセレナが笑う。
それは美味しいはずだ――とも考えて、アグルエが横に一緒にいれば彼女も笑ってくれていたのだろうか、とも思った。
「ありがとう、本当に美味しかった」
改めてお礼を伝えたエリンスに、セレナはそれが面白おかしかったのか、「あはは」と笑ってこたえる。
「いえいえ、どういたしまして。あなた、本当にアグルエのことばかり考えているのね」
そうだった――と思ってももう遅い。そんな思考すらも読まれているのだろう。
エリンスが恥ずかしくもなって俯くと、セレナは「いいのよ」と柔らかく笑い続ける。
「そんなあなたが、ここに落ちてきたのは運命かもしれないわ」
「あぁ、そうだった。手を貸してくれるってのはありがたいけど、俺は一早くアグルエに追いつきたいんだ」
別れてからどれくらいの時間が経っているのだろうか。
アグルエが魔界に帰ったとはいえ、どこへ向かったのか。そもそも魔界とはどんな場所なのか。
前を向きなおすと、エリンスの頭の中をぐるぐるといろいろな考えが巡り出す。
そんなエリンスの顔を見て、セレナは再び「あはは」と呆れたように笑う。
「目まぐるしいわね」
考えていることは丸見えなのだろう。
「ごめん、素直に言うと、落ち着いていられなくて」
「えぇ、まあ、事情はわからないけど、察するところもあるわ」
エリンスは困って額を押さえると返事をした。
「……アグルエがどこにいるかは、知らないよな」
「うん、アグルエはここに落ちてきたわけでもなかったし。魔界で今何が起こっているのかも、わたしにはね……。ここは魔界の中心地からはだいぶ離れている場所だから。昨日大きな地震があって、
セレナが言う『大きな地震』とは、ラーデスア帝国でエリンスが体感したものと同じだろう。あのときに人界と魔界の繋がりが絶ち切られたと言うのならば、魔界でも同じようなことが起こったのかもしれない。
「昨日……って言うと、穴に飛び込んでからまだそんな時間は経っていないのか?」
ログハウスの窓から差している日はまだ柔らかい、朝日だろう。
ともなれば、昨夜穴に飛び込んだのが真夜中近かったことを思えば、人界と魔界で時間の流れも共通しているのかもしれない。
エリンスがそこまで考えたところで、ツキノが「うむ」と頷いた。
「そうじゃな、今は昼前の
顔を合わせて話し込んだ二人を見て、セレナは唸るように何かを考えていた。
「どうした? セレナさん」
エリンスがその視線に気づいて聞けば、セレナは「あぁ、ううん」と首を振って笑う。
「わたしのことはセレナと、呼び捨てで構わないわ」
エリンスは素直に頷いた。
魔族の年齢は見た目でわからないところは大きいが、魔王候補生だった言うならば、同い年くらいということになるのだろう。
「そうよ、アグルエとも同い年」
また考えが読まれていたことにエリンスが驚くと、セレナは「あはは」と笑って話を戻した。
「……ひょっとして、人間って
セレナがそう聞いたのはエリンスに対してではなく、ツキノに対してだった。
「人界では伏せられておる。魔界のことは語られぬ」
「そう……人の世も、大変そうなのね」
納得するように会話をする魔族の二人に、エリンスはそれぞれの顔を見やってから口を開いた。
「どういうことだ?」
「
ツキノには世界から切り離されているという制約がある。
その言葉を聞いてセレナが立ち上がった。
「直接見てもらったほうが早いのでは?」
何やら提案するように言ったセレナに、ツキノも「そうかのう」と頷いた。
すっかり話に置いてかれているエリンスをよそに、セレナは空いた食器をキッチンの流しへと運んでくれた。そのまま首から提げていたエプロンを壁のフックにかけると、スリッパから靴へと履き替えてドアのほうへと向かう。
「エリンスくん、ついてきて」
エリンスは「あぁ」と頷くと言われたままについて歩いて、そのままログハウスの外へと出た。
セレナが一人暮らしをしているログハウスは、森の中、木々の合間に建っていた。とは言っても空が見えるほどに葉を広げるくらいで暗い印象もなく、優しい日の光が届いている。
木は人界のものと似ているが、どこか異質さも併せ持っていた。手先で触れてみればほんのり
そうしている間にもセレナは振り返りもせずに森の出口のほうへと歩いて行った。
エリンスが慌ててその背中を追って森を抜けたところで、一面に広がったのは金色の葉が揺れる草原だった。風で陽光を反射してきらきらと輝いている。
その光景に再び足を止めそうにもなったのだが、ひたすらに進んでいくセレナを追ってエリンスは駆け足で後を追い続けた。
ゆったりとした丘を登って行けば、その先に広がるのも一面、同じ色をした草原だ。
「わぁ」と思わず感嘆とした声を漏らしたエリンスに、ようやく振り返ったセレナが「ふふふ」と微笑んで立ち止まった。
遠景に見える緑をつけた山々が、浮かぶようにくっきりと青空の中に輪郭を描く。
金色の大地の背後に広がる青空は、人界のものとどこか似ているとても澄んだ色をしていたが――エリンスはそこにもまた異質さを感じた。
雲は見当たらない。だが、一筋走る白い線が空に根を這うように伝って、エリンスから見て右手のほうへと伸びている。それはやがて太い大きな幹のようなものへと繋がって、よくよく見てみれば、あちこちから同じようにして白い線が葉脈のようにして伸びて広がっている。
一際太い幹のような線が空の果てへ、山の向うの向こうまで伸びているようだ。
「変な、空だ」
それが口から飛び出した正直なエリンスの感想だった。空を走る白い線は雲ではないのだろう、と考えて、その肩の上ではツキノも懐かしむように空を見上げていた。
セレナはそんな二人の顔を見比べてからこたえてくれた。
「そうね、地上とは違うだろうから」
――地上。
「そうよ、人界のことよ」
エリンスの思考を読んで頷いたセレナが再び歩き出したのにつられて、エリンスもそれ以上その場では聞こうとはせず、その後を追った。
しばらく金色の平原を進むと大きな石の祭壇へと近づいた。元は神殿のような場所だったのだろうか。屋根や壁はすっかり風化して崩れて、立ち並ぶ柱もボロボロと崩れている。どこか地上で見る勇者の軌跡に近い雰囲気を感じるが、その様子を見る限りもっと古い時代のものなのだろうことがエリンスにもわかった。
セレナが石の段差を上っていくのに続いて、エリンスも石の祭壇を上った。階段を十段ほど上ったところであっさりと頂上に辿り着いたらしい。
並ぶ石柱に開けた広間、地面に刻まれた幾何学模様が真っ先に目についた。
かつては何か大きな役目を背負って作られた場所だったのだろう。
そんな雰囲気を残した石の祭壇の上で、太い柱に寄りかかるようにして空を見上げるようにしている巨人の魔族がいた。
四メートル近い体躯に、屈強な身体つき。上半身裸の褐色肌。丈夫そうな葉を編んで作られた
空を見上げているのかとも思ったが、その瞳は閉じられている。エリンスが近づけば微かに寝息も聞こえてきた。
「巨人の魔族……」
エリンスが見上げて呟くと、セレナは「えぇ」と頷いた。
「ウルボって言うの。もう何百年も、ここで空を見上げている」
エリンスたちが近づいたところで目覚める気配はない。空を見上げたまま眠っているらしい。
そのままエリンスは周囲を見渡して「ここは?」と聞く。セルナはすんなりとこたえてくれた。
「あなたたちが落ちた場所よ。リューテのクチと繋がっているところ」
「落ちた……繋がっているって……」
エリンスが目覚めてから、度々そのような言われ方をしている。
たしかにエリンスは大穴に飛び込んで落ちたのだろう。そこまでの記憶ははっきりとしている。
だが、それではまるで、地下へと落ちてきたというような話にも聞こえる。
そんなエリンスの思考を読んだのか、セルナが「えぇ、そうよ」と頷いた。
「どうも人界ではそういう話にはなっていないようね」
セルナに同意したようにツキノは「そうじゃな」と頷いていて、エリンスは思わず「え?」と聞き返した。
魔界とは――魔王の住む地。地上の侵略を勇者に阻止されて、未だ残った脅威が退いた場所。
五つの軌跡を巡ってその資格を手にした勇者候補生は、魔王討伐を成すために異界の地である魔界へと旅立つことになる。
それが勇者協会によって、
「人界リューテモアの地下深くに存在する魔族が生まれる地のことを、魔界リューテラウと、そう呼ぶの」
そんなエリンスの思考はセルナにも見えたのだろう。セルナは空を指してそう言った。
いつかアグルエが海を見てはしゃいでいたことをエリンスは思い出した。魔界は地続きで、こんなにも広い海は見たことがなかったと彼女は語った。地下の世界は一つに繋がっている。そして、彼女が広い世界に興奮して憧れていたことにもどこか納得がいった。
空は開けている。だがエリンスの覚えた違和感通りに、ここが地下だと言うのならばこの空は偽物だ。
「……そういうことだったのか」
「本当に、エリンスくんはアグルエのことばかり考えているのね」
エリンスが呆然と空を見上げれば、横で再びセレナには笑われてしまった。
「こやつはそういう病気なんじゃよ」
「ふふっ、恋は病、なんて言うから」
それを茶化すように鼻を鳴らして笑ったツキノに、セルナは苦笑しながらもこたえている。
エリンスはどこか恥ずかしくもなって、咳払いをして誤魔化しながらも口を開いた。
「じゃ、じゃあ地上と地下を巡る
「そうじゃの」
大いなる巡りの中、
それは何も距離を測って言っているわけでもない。あれほどの高さにある霊峰がその場所であったように、何かしら
「じゃあ、やっぱり世界は完全に切り離されてしまったわけではなかったんだ」
「うむ。まあ、空を飛んで帰るなんてことは無理じゃぞ」
「わかってるよ」
大穴を通って魔界に落ちてきたとは言っても、そう簡単な話ではないことはエリンスも十分に承知していた。
どれほどの距離を落ちてきたのかもわからない。それどころか、こうしてエリンスが今も空を見上げていても、その大穴の出口が空に見当たらない。
「不思議な空だ……」
改めて見上げる空は人界と変わらない色をしている。
だけど、それは違う空だ。やはり雲も見当たらない。
「魔界の空は、地上の空を映したものだと聞いたことがあるわ」
セレナはそのまま説明を続けてくれた。
朝昼と流れる時間も同じで、地上で雨が降れば地下でも雨が降るのだという。
「今はまだ昼だから、青空か」
エリンスがセレナの説明で納得したところで、ツキノも頷いた。
「そういう風にできているんじゃ、この星は」
ツキノのその言葉は妙にしっくりと、エリンスの胸のうちに落ちたように響いた。
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