第243話 心眼の魔王候補生
エリンスはほんのり甘い香りの中で目を覚ました。
「ここは……」
ぼーっとする意識の中、見覚えのない木目柄の天井が視界に広がった。
身体を起こして辺りを見れば、ベッドに寝かされていたことにも気がつく。
ライトグリーンの柔らかい素材で作られたベッドシーツ。白や薄いピンクなど、目に優しい色を基調とした部屋の内装。壁は丸太を積んで組み合わせたようなログハウス調。窓からも優しい木漏れ日が差し込んでいる。
白い机に白い椅子、机の上に広げられているのはどれも厚い本。かわいらしいペン立てに立てかけられた日記帳。そこが女性の部屋なのだろうことは自然と想像できた。
そうして部屋を見渡して、壁に立てかけられている自身の剣、
――自分が今、何をしていて、何をするべきなのか。
思い出しすぐさま飛び起きて、壁に立てかけられている剣の下へと寄って掴もうとしたところで部屋のドアが開いた。
「あら、起きた?」
柔らかい女性の声だ。
もこもことしたグレーのスリッパを履いていて、ふわりと広がる薄いグリーンのワンピースに首から提げている赤白チェックのエプロン。声色通り、その女性は柔らかい表情で微笑んでいる。
上品さを覚える整った顔立ちに、胸元まである金色の髪。左右に分けられた前髪のうちで縦に開く三つ目の
角や翼と言ったものは見当たらないが、その異様な額の黄色い瞳がうるりと動けば、エリンスは咄嗟に手にしようとしていた剣を握った。
「ちょ、ちょっと、わたしに敵意はないってば」
エリンスの警戒したような動きに、彼女は慌てたように手を振ってこたえる。
揺れ動く三つの瞳には言葉通り敵意は感じなかった。
ただ、三つの視線を感じるということにも慣れる気配もせず、その瞳からは目が離せない。エリンスは構えようとした腕から力を抜いて、剣を腰に提げる。
「ここは、魔界なのか」
目の前にいるのは見知らぬ魔族。ともあれば、無事に辿り着いたのだろうとはエリンスも思った。
「あなた、落ちてきたみたい」
「……落ちて?」
「まあ、詳しい話はあっちでしましょう」
引っかかる言い方はされたものの、彼女はドア口でドアを抑えたままに隣の部屋を指し示した。
「ちょっと待って。きみは?」
だが、エリンスとしてはそう落ち着いてばかりもいられない。
魔界へ着いたというのならば、アグルエを追わなければならない。
「わたし? わたしは、セレナ・ルス。ここに一人で暮らしているの」
「そ、そう。セレナ……俺は――」
戸惑いながらもエリンスが名乗って返事をしようとしたところで、セレナは言葉を挟んだ。
「エリンス・アークイル。エリンスくんはアグルエを追ってきた、でしょ?」
セレナの額の黄色い瞳が差し込んでいる木漏れ日を反射したようにきらりと光る。
名前を言い当てられたばかりか、今考えていたことまでぴたりと言い当てられたようだ。背筋を駆けるゾクッとした恐怖は、何も気のせいではなかったのだろう。
ただ、セレナはにこりと笑うと言葉を続けた。
「そんな驚かないで。言ったでしょ、わたしに敵意はない。むしろ、あるのは好意?」
顎に人差し指を上げて首を傾げたセレナに、エリンスはすっかり言葉を失ってしまう。
セレナに「どうぞ」と促されて、エリンスは無言のままに隣の部屋へと移動した。
寝室よりは少し広めのダイニングキッチン。高い天井で回っているファンに、四人掛けのテーブルと椅子が並べられている。他にあるのはソファーと大きな本棚。備え付けられたキッチンには、セレナの趣味か、料理道具がひと通り並べられていた。
セレナが椅子を引いてくれて、テーブルの上では白い尻尾を振るうツキノが振り向いた。
「ツキノ?」
エリンスが無事でよかったと安堵すると、ツキノは笑って返事をした。
「やっと起きよったか」
「どうぞ、こちらに」
エリンスはこくりと頷くと、セレナが引いてくれた椅子に腰かける。
「ちょっと待っててね」
ぱたぱたとエプロンの裾を揺らしてキッチンのほうへと歩いていくセレナの背中を見送って、パンを両手で抱えているツキノに顔を向けた。
「ツキノ、一体ここは」
「魔界についたのは間違いない。
セレナが何をしているのかと一瞥すれば、キッチン台で火にかけている鍋の様子を見て、その中身をご機嫌な様子でくるくるとかき混ぜている。
「魔族、だよな」
他に魔族らしい特徴も
ツキノは「うむ」とだけ頷いた。
そうこうしているとセレナは鍋から皿へ料理を盛ってエリンスの前に運んだ。
深めの皿の中に並々と注がれていたのはクリームシチューだ。白いスープの中にごろりとした芋やニンジンなどの野菜が浮いている。
温かい湯気に乗せられて鼻へ抜ける香りに、腹も空いてはいなかったというのにエリンスの腹も鳴りそうになった。
「パンもいる?」とセレナに聞かれて、エリンスは首を横に振った。
「お口に合うかわからないけど、自信作なの」
相変わらず品のいい笑顔を浮かべているセレナに、エリンスはまじまじとクリームシチューを見つめて、添えて並べられたスプーンを手に取る。
そこまで言われてしまえばいただかないという選択肢もなかった。毒が入っているわけでもないよな、と警戒しながらスプーンでひと口分を掬って口へと運んだ。
口に入れるや否や、広がるまろやかな味わいに舌鼓を打って、思わず呟いてしまった。
「美味しい」
「毒なんて入ってないでしょ?」
そう笑いながら向かいの席へと腰かけたセレナに、エリンスはこくりと頷いた。
何かされるというのならば眠っている間にされていただろう、とは考えつく。
「そうそう、無防備に寝ているんですもの。人間って魔族を何だと思っているの?」
そう言いながらも笑うセレナに、エリンスは魔族との数々の出会いを思い返す。
突然襲われたり、街を襲ってきたり――思えば、敵対した魔族たちは散々なものだった。
「あー他の魔王候補生の連中らにも会っているのね。当然か……人界まで出向くやつらは好戦的なのが多いから、勘違いも無理ないわね」
セレナは一人で話を進めて「あはは」と呆れたように笑っている。
「あぁ……ってちょっと待ってくれ。俺、口に出してないよな?」
ツキノに聞けば、ツキノは「ふむ?」と首を傾げて何を言っているのかわかっていないようだ。
それはそうだろう、とエリンスも思う。言葉にしていないのにセレナと会話が成立していた。それに気がついたのはエリンスだけだ。
「ごめんなさい。癖でつい。わたし、人と話すのも慣れていないから嬉しくって」
照れ隠しをするように頬を赤らめて笑うセレナに返答したのはツキノだった。
「そうじゃな、リューテのクチから落ちたというのなら、ここは西の果てじゃろ? どうしてお主はこんなところに住んでおる」
「街にいると疲れてしまうから。そうね、じゃあ、改めて自己紹介させていただこうかしら」
そう言ってもう一度立ち上がったセレナは一礼した。
「
そうしてから優雅にふわりと甘い香りを漂わせて、セレナは再び腰を下ろす。
セレナの顔を真剣な顔つきで見やったツキノが口を開く。
「心眼……そうか。お主、心が読めるのか」
「はい、表層の、少しだけですけど」
やはりセレナは照れたように笑って、エリンスはその間にもシチューを口に運んだ。
腹が減っていたというわけでもなかったが、気づけばひと口、もうひと口と手が進むほどに、クリームシチューは美味しかった。
「じゃから、一人、こんなところに暮らしておるということか」
「えぇ、街にいると余計な声まで見えてしまうので」
人の心が読めると知りたくないことまで知ってしまうのだ、とセレナは疲れたような表情を見せて笑った。
「魔王候補生……なのか」
エリンスが聞き返せば、セレナは「えぇ」と頷いた。
「一応ね。選定されたものの、もう辞退したわ」
「だから、アグルエのことも知っていた……」
エリンスが魔界へ来た目的すら、心を読まれて見透かされてもいたのだろう。
「ふふっ、当然知っているわ。彼女は魔界では有名だから」
微笑むセレナにエリンスも頷いた。
「最強と謳われた、滅尽の魔王候補生」
エリンスも散々に聞いてその背負った名前は知っている。
セレナはそれに「えぇ」と笑うと、続けてこたえた。
「冷徹なる魔王の娘。
エリンスがセレナに聞いた言葉の中には、今のアグルエを見ていたら信じられないようなものも並んでいる。
「滅尽の力は恐れられて、恐怖の対象になった。人は彼女から無意識のうちに距離を取る。そんな彼女は独り泣いていた。その事実を誰一人として、知ろうともしなかったけれど」
少し寂しそうにセレナはそうも言った。
そんな表情を見れば、エリンスにも彼女の想いがわかった気がした。
「アグルエの想いも……知っていたのか」
「えぇ、わたしには見守ることしかできなかったけれど」
エリンスは昔のアグルエのことを知らない。
旅の最中でも敵対した魔王候補生たちが、昔のアグルエのことを語ったことを思い出す。
「誰かに言われたわけでもなかったけどね。アグルエが決して口にしない想いだって、わたしには見えてしまったから。でも彼女が口にしないなら、わたしも決して口にはしない」
セレナもまたそうやって呑み込んでいた想いなのだろう。
「彼女、笑うことすらしなかった。そんな辛さを、わたしはただ遠くから見守っていただけ」
セレナはどうしてそうまでして――アグルエを思ってくれていたのだろう。
「彼女のことは小さい頃から見てきた。アグルエとは一緒に遊んだこともあったわ。今はもう亡くなってしまったけれど、わたしの母は長年王城に勤めていたの」
――幼馴染みたいなものなのだろうか。
「えぇ、きっとそれが近い。アグルエは魔王候補生に選ばれて、そのときとは全く別人に変わってしまったように見えたから。いつか、理解者になってあげられればいいなって思っていた。だけど結局、今の魔界はそんな形を求めてはいなかった」
セレナもまた魔王候補生として生きていく中で、此の世の歪みを見つめてしまったのだろう、とエリンスも察した。
「あなた、アグルエの心に触れたのでしょう? わたしにはなんとなくそれも見える。それが、眩しく見えるわ」
三つの瞳が優しくもエリンスを見つめている。
エリンスはその視線がなんだか恥ずかしくもなって頬を掻いた。「そんなに?」と聞き返せば、「そんなに」とセレナは笑って頷く。
「あなたに出会えたから、アグルエは独りではなくなった、そうでしょ?」
そう言われてエリンスが改めて思い描いたのは、一緒に旅をしてきた大切な彼女の存在とそこにいた人々との笑顔の数々だ。
街の人々と、
マリネッタやメイルム、それにアーキスとメルトシスも一緒に笑ってくれていて、まだちゃんと顔を合わせてもいないけど、ジャカスやミルティのことも改めて紹介したい。レイナルやリィナーサ、シスターマリーやディムルも――当然そこにはエリンスとツキノの姿もある。
――だから、追って来たんだ。
そんなエリンスが描いた想いが、セレナにも見えたのだろうか。
セレナは額の瞳にも涙を浮かべて、優しい笑みをエリンスへと向けた。
「わたしに……
セレナはそっと指先で涙を拭って笑う。
エリンスはジッとその三つ目を見つめ返して頷いた。
――魔界についたのならば、こっちのことや状況をもっと知らなければならないだろう。
何せ、人界では語られもしない異界の地だ。
そうして協力を申し出てくれる人と出会えたことは、エリンスにとっても幸運なことだった。
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