第238話 幕間 〝暗躍〟
机の上のランタンだけがぼんやりと灯った大きな執務室。大きな棚には金銀キラキラと、わずかながらの灯りを反射する勲章やらトロフィーやらが並んでいる。
その部屋の主、勇者協会最高責任者マースレン・ヒーリックは、豪華な回転チェアに腰かけ大きなデスクに向かって一人唸っていた。
蓄えた豊かな白髭を撫でながら手にした書類には、今回の騒動についての報告がまとめられている。
帝国奪還作戦。その行く末を見定めるようにして悩むのは、
帝国が秘密裏に犯した罪と、勇者候補生たちの処遇をどうするか。
「うーむ」と低い唸り声が一人、暗い執務室へ響く。
行方不明となった者たちの捜索に関しても悩みの種だ。
実質マースレンの右腕だったシスターがいなくなったことも不便極まりないところではあるが、シドゥ・ラースア・レンムドルに関しては最重要。
手にした書類――行方不明になった者たちの顔写真が貼られているそれを目にして頷いた。
全てを知った可能性がある。ラーデスアが余計なことをしてくれた。それに
ラーデスア帝国が
マースレンがそうして悩んでいると、こんっと部屋のドアがノックされた。
こんな時間に、もう勇者協会職員たちも休んでいる時間だろう――とマースレンは訝しむのだが。
「誰だ、入れ」
「いいのです?」
入れと言ったのに再度確認するよう響いた女の声に、マースレンは苛立つように返事をした。
「構わん、入れ」
マースレンが二度目になる返事をすると、ドアがようやく開いた。
手元の書類をまとめて引き出しにしまったところで、ドア先より顔を出したのは黒の管理者ネムリナだった。
「なんじゃ、お主か」
「遅くまでお疲れ様です、閣下」
暗いローブに身を包むネムリナはそう言って一礼する。手には銀のトレイを持っていて、その上にはポットとカップ二つが乗せられていた。
丁寧な調子ではあるものの、ネムリナがそうして現れるときは何か面倒な頼みごとを残すときだろう、と悟って、マースレンは「ふんっ」と鼻を鳴らしてこたえた。
「挨拶などよい、何ようじゃ」
「いえねぇ、わたし、今回早々に捕まってしまったから、まだ話していないことがあったんですよ」
トレイを手にしたまま歩み寄ってきたネムリナは、それをデスクの上にそっと置いた。
かちゃかちゃと音を立てながらポットを手にするネムリナに、マースレンは言葉を返した。
「そうか。その話か。あやつらが黒の軌跡を狙うとは」
「えぇ、そうですねぇ……管理者としては、びっくりする話でもありますよね」
どこか他人事のようにそう言ったネムリナに、わずかながらの違和感は覚えながらも、マースレンは鼻を抜けるハーブティーの香りに気を取られた。
ポットからカップへと、ゆっくりと薄い赤色をしたお茶が注がれていく。
ネムリナがそれをマースレンの前に並べる。いつもお茶を出してくれるのはシスターマリーの仕事だった、と思い出しながらも、マースレンはそうして差し出されたカップを手に取った。
「お主にしては珍しく、気が利く」
そう目を細めて笑ったマースレンに、ネムリナはいつの間にかデスクを回って、その内側へと入り込んだ。
マースレンが「ん?」とさらなる違和感を覚えて、ハーブティーへ口をつけたところで――そのカップの中身はマースレンの体内に入ることはなく、床に飛び散った。
静かな執務室に響いたのはカップが割れる音。
床に落ちて粉々になったカップに、注がれていたハーブティーは留まることもなく広がっていく。
「か、はっ……」
マースレンの口から溢れ出す赤い血が床へぼたぼたと垂れる。その彼の左胸は、ネムリナが手にしている杖に仕込まれていた刃で貫かれていた。
マースレンがその痛みを自覚したとき、その眼前で刃を突き立てたネムリナが「ふふふ」と不気味に笑う。
「最期の一杯は格別でしょう? 口にする前に刺しちゃったかしら……話していなかったことを報告しますね、閣下。黒の軌跡を崩落させるように仕向けたのは、わたしなんですよ」
それだけ告げて、ネムリナはマースレンから刃を抜き距離を取った。
「ん……なっ」
マースレンの口からはさらに血が溢れ出し、的確に貫かれた左胸――心臓部からもどくどくと血が溢れ出す。
マースレンに魔法を使う隙も与えない、意識の内側へと入り込むような隙を突く一撃だった。
マースレンも警戒心が高いほうであると、自分自身自覚しているほどに、周囲からもそう思われていた人物であった。
裏切り者は勇者候補生に一人いた。それが二人いても何らおかしくはない。だから、油断などしていたわけではなかったのに。
「ふふっ、わたしの力をお忘れになったわけではないでしょう? 閣下」
ネムリナは薄ら笑う。
マースレンは遠のく意識の中、その顔を睨みつけた。
ネムリナが得意とするのは、人の心を掌握する魔法。精神に作用する魔法だ。
部屋に入ってきた瞬間から、既にマースレンの警戒心の内側へと入り込んでいたのだろう。
「……心の、ドアを叩くために……二回、確認させたな」
「そう、ノックは一つ、返事は二つ。それがわたしの定めた暗示。タイミングとしてもよかったようですねぇ、閣下。あんな騒ぎの後じゃ、閣下の思考も引っ張られていたでしょう」
マースレンの視界が白くなる。もう持たないだろうということを自覚した。
「おやすみなさい、閣下。今までお疲れさまでした。その席は、空けてもらわないと」
そう笑ったネムリナに、マースレンは言い返すこともできず、絶命した。
◇◇◇
死んだマースレンを回転チェアから下ろしてその辺りに投げ捨てたネムリナは、自分が代わりにとばかりに、血で汚れているそこへ腰かけた。
どこか楽しそうにチェアをくるくると回しながら、足を組んで「ふふっ」と機嫌もよく笑う。
「はぁーあ、願ったり叶ったり。簡単なお仕事だった」
ラーデスアを陥落に導いた裏切り者は勇者候補生だった。
だが、その裏で、
「動きやすかったわ。表立って動いてくれた裏切り者のおかげでねぇ……」
床に伏したマースレンを一瞥して、ネムリナは長い杖の仕込み刃を鞘へと戻した。
「心の隙も作りやすいし。マーキナスの乱暴な送迎はちょっと気持ち悪くもなって最悪だったけれど」
机の上に置いたままになっているポットから空いていたもう一つのカップへハーブティーを注ぎ、それをひと口に含み喉を潤した。
「……おっと、休む暇もない。連絡だ」
そう言ったネムリナは右手で顔へと触れると、右の眼球を中指で軽く叩いた。
叩かれたネムリナの赤紫色の瞳が眩しいほどの赤い光を放つ。
輝くネムリナの右目が、ここではないどこかの一室を映し出す。
黒い壁が広い部屋を暗いイメージで染めている。ただ、天井から垂れ下がる豪華絢爛なシャンデリアが煌々と部屋の中を照らした。
血のように赤い絨毯が敷かれていて、長く伸びたその先、数段高くなった場所にあるのは、やけに大きな縦横三メートルほどはある玉座。
到底人が腰かけるサイズではないだろうそれは、魔王の座だ。
ネムリナの右目が映したそこは、魔界の王城、イルミネセントラル城の玉座の間だった。
ネムリナの視線の先には、玉座を前にして立ち尽くす白いマスカレードマスクをした男がいた。
「聞こえるか、ネムリナ」
響く男の声に、ネムリナは「はいはーい」と軽い調子で返事をする。
ネムリナの声はサークリア大聖堂執務室に響くものの、その男にも届いているようだった。
「聞こえてますよ、
ネムリナの
ただそれだけに、制約も多い。一度に術をかけられるのは一人まで。一度かけてしまえば、その者かネムリナが命を絶つまで解除することはできない。
ネムリナがその魔術で今操っているのは、とある魔族。それも
「無事、そちらへ戻れたか」
「えぇ、マーキナスが乱暴で参ったけど」
「あいつはまだ子供だから加減を知らねぇのさ」
「まぁ、言われた通り、マースレンは仕留めたわ」
ネムリナがそれを告げたところで
「ざまぁないな。あの老いぼれが……俺が直々に殺してもやりたかったが」
「贅沢は言わないでよ、そっちだって忙しいんでしょう」
「あぁ、忙しくて人手が足りん。それに、おまえにも一つ伝えておこうと思ってな」
「魔王を逃がした」
「えぇ? あんなに用意周到だって言い張っていたのに?
「小賢しい。さすが俺より長く生きているだけのことはある。まあ、こっちとそっちの流れを絶つことはできた。後は時間の問題だ」
「そっちの報告はそれだけか?」
話を早々に切りたそうにする
「エリンス・アークイル。あいつが、そっちへ行くかもしれないわ」
「
「それにあの子もそっちへ行ったはずよ。ニルビーアが余計なことをしたみたい」
「なるほどなぁ。やけに簡単に
ネムリナは「ふふっ」と笑うと、それにこたえた。その左目は、勇者協会執務室の中を捉えている。
「一つ、手を打っておいたわ。つけ入りやすい子がいて助かった」
「……全く、怖いな。おまえの魔術は俺でも相手をしたくない」
「あなたはかかってくれないじゃない」
ネムリナが笑うと、
「で、何をしたんだ? その子とやらに」
「ちょっと助言をしただけ。お友達を止めたほうがいいわよって」
「ふーん……」
「そうだ、ついでにおまえにもう一つ、頼みたい仕事がある」
「いいわ、何よ。仕事もなくなって表向きの雇い主も殺してしまったし、ちょうど暇になったところだし」
軽い調子で
「おまえに頼むのは殺しだけさ。レイナル・アークイル、あいつも邪魔だ、消してくれ」
「あぁ、あの男……あの子のお父さんか」
ネムリナは先ほど大聖堂で親子が話をしていた様子を思い返しながら、ターゲットの顔を思い浮かべた。
「いいわよ、
「あぁ、
そう
ネムリナの光輝いていた右目も落ち着きを取り戻す。どっとした疲れが身体に押し寄せて、だが、休んでいる暇もないかと思いなおして立ち上がった。
「ふぅん、
ネムリナは考え事をしながら一歩を踏み出して、そして、床に転がっていたマースレンに足を引っかけ蹴っ飛ばした。
「あら、ごめんなさい」
ふふっ、と微笑みだけを残すと、血で汚れたブーツの先も、血を吸ったローブの染みも気にしないようにして、ネムリナは薄暗い部屋を後にした。
黒の管理者、ネムリナ・エルシャルズ。
彼女は人の命も精神も、何とも思わず弄ぶプロの殺し屋だ――。
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