第232話 そうして世界は分かたれた
頬を伝った涙を拭って、頭に積もった雪を落として、エリンスは王城の広間を再び訪れた。
身体中あちこちが悲鳴を上げるように痛い。だが、それも今は気にしている余裕がなかった。
「ツキノ!」
広間に敷かれている赤い絨毯の上にぺたりと座り込むツキノの小さな白い背中を見つけて、エリンスは駆け寄った。
エリンスの声でびくりと肩を震わせたツキノは、眉をひそめたようにしょぼくれた声で返事をした。
「エリンス……」
エリンスの目が赤いことにも気づいただろう。何があったのかはきっとツキノも察している。
駆け寄ったエリンスがツキノを抱きかかえるように持ち上げると、ツキノも潤んだ瞳で真っすぐとエリンスの目を見つめていた。
「ツキノ、一体、何があったって言うんだよ」
アグルエとずっと一緒にいたはずだ、とエリンスはその瞳を見つめ返す。
エリンスがそう聞きながらむぎゅっとツキノを抱きしめると、ツキノはくすぐったそうに尻尾を振った。
温かさの中にツキノの気持ちまで一緒に伝わってくるようだ。その小さい身体は小さく震えている。
二人してそうやって、寂しさを埋め合うように口を噤んだ。一分ほどしてツキノは口を開いた。
「……行ったのか」
「……行ってしまった、何も言わずに」
「そうかの……」
抱き締めて抱えたまま。ツキノの顔は見えないが、それでもやはりどこか寂しそうにぼやくようにツキノは言う。
そうやってぬくもりを感じていると気が抜けて、意識も飛びそうになる。だが、まだ立ち止まるわけにはいかない。
「離れている間に、何があった」
エリンスはその小さな白い身体の両脇を持ち上げるようにして、ツキノと再び顔を合わせた。
ツキノは静かにこたえてくれた。
「……迎えが来たのじゃ」
「迎え……魔界から?」
「うむ。
エリンスは考えるように俯いた。
アグルエに迎えが来た。それは、ラーデスアでの戦いが終わったとしても、まだ何かその裏で思惑が動いているということの表れだ。
帝国を襲った事態を終息させることはできただろう。だが、これが全て
ファーラスを襲ったことが、セレロニアを襲う前段階の準備だったように。
セレロニアを襲ったことが、霊樹の枝を奪うという目的はあったものの、ラーデスア帝国を陥落させるための布石でしかなかったように。
人界の目は、勇者協会の目は、
ではもしも――それすらも布石でしかなかったのだとすれば。
「
エリンスは顔を上げてツキノの目をもう一度見る。
ツキノはこくりと頷いた。
「おそらく、そうじゃ」
やはりエリンスの中では、
――『まあ、いいだろう。やり方はいろいろある……』
――『
あのとき、
だから
「
アグルエと同様、その力を継いできた父親、魔王アルバラストへ狙いを変えた――。
ツキノがそんなエリンスの考えに同意したように頷いた。
「そうじゃろう……地下で、アグルエと
「魔王五刃将、ニルビーア……」
エリンスはどこかで聞き覚えのあったその名を反芻する。
シスターマリーやかつてのツキノと肩を並べた魔族、その名を聞いた――否、目にしたのは星刻の谷、『勇者と魔王の約束』を記した石碑に刻まれていた名だ。
「じゃあ、アグルエは……」
そんな彼女が二人の戦いを止めた。アグルエを迎えに来た他ないだろうことはエリンスにもすぐわかった。
直々に魔王五刃将の迎えが来たとあれば、詳しい魔界の事情がわからないエリンスにも、緊急事態だったことが想像できる。
「うむ……アグルエを迎えに来たのはニルビーアじゃ」
「魔界へ帰った……アグルエは
エリンスは悔しさに歯を噛みしめた。
ぎゅっと閉じた瞼の裏、滲むように広がる熱さがこらえきれなくもなる。
「どうして……何の相談もなく、一人で行ってしまったんだ」
――二人で続けてきた旅だったのに。必ず一緒に、と誓い合っていたはずだったのに。
だが、そう想えば想うほどに、アグルエのことを信じれば信じるほどに、そこには話せず相談もできなかった理由もあるのだと思わされる。
「時間がない、とニルビーアは言っておった。それに、アグルエもニルビーアから詳しい魔界の状況は聞いてはおらぬじゃろう」
「……なのに、帰る決断をしたって言うのか?」
閉じていた目を開いたエリンスに、ツキノも困ったようにすっと目を逸らした。
何か悩むような素振りが見えた。エリンスはツキノが何かを知っていると確信して、その目を逸らさないままにもう一度聞く。
「俺は、このまま『さようなら』なんて嫌だ。だからツキノ、知っていることがあるなら、教えてくれ」
エリンスはツキノのことを抱きしめた。ツキノは「むぅ」と困ったように声を漏らして、だが、口を開いてくれた。
「妾にも話せぬことがある。それは制約ゆえじゃ。それを踏まえて言うぞ、
ツキノは話せる範囲で、エリンスに真実を告げてくれたのだろう。
アグルエがずっと悩んでいた、
そして、何よりも身を持って体感した。アグルエとの間に反発するように迸った互いの力を。手を取れなかった、あの瞬間に。
「星の力の、反発」
「うむ……それは、避けられぬ運命だったのかもしれぬ」
「……運命なんて言葉で片付けたくないんだ」
「わかっておる。アグルエも、それはわかっておったはずじゃ」
だからずっと悩んでいたのだろう。どうしようもない想いを抱えて、独りで抱え続けて――。
と、考えたところで、エリンスはマーキナスの言葉を思い返した。
――『星の力の反発だ。いいねぇ、目論見通りだ』
――『今回のボクの役目もおーわり』
――『ボクは
ツキノのことをもう一度持ち上げるようにして見つめて、エリンスは口を開いた。
「
そのエリンスの言葉に、ツキノも目を丸くする。
エリンスが続けて思い返したのは、
――『俺は、この世界を在るべきカタチに戻すだけ』
――『勇者と魔王が
「マーキナスも、
帝国の陥落、シドゥの想いすら、
「セレロニアでやつは言った。この世界の今のカタチは、歪なモノなんだと」
「それを一度断ち切って、なかったことにしようとしているのかもしれない」
「じゃが、――――を止めてしまえば、――――じゃ」
「だから、まだその先に何かをしようとしているんだろ、あいつは」
シドゥは口にした――『あいつの創る世界に興味はない』と。
ツキノが言おうとしたことは言葉にもならないものだったが、エリンスは全てを承知したように頷く。
と、その瞬間――がらがらと地面が音を立てて揺れはじめた。
耳と尻尾をピンッと立てたツキノに、エリンスも慌てたように腰を落としてバランスを崩さないように堪える。
次第に、地鳴りに続いて地響きが大きくなっていく。
地震か――とエリンスが考えたのと同時に、キーン、と耳鳴りまで響き出す。
頭が割れそうな衝撃に目を閉じそうにもなる。抱えた腕の中のツキノも立てた耳を折りたたむように前足で押さえ、頭を抱えていた。
ただ、天井が崩れはじめていることにも気づき、エリンスはツキノを抱えたまま王城の外へと飛び出した。
世界全体が泣くように震えている。そんな地震だった。
しばらくして、耳鳴りと地震も治まった。気づけば吹雪も止んでいる。
エリンスは安堵の息を吐きながら、ボロボロになっている王城を見上げた。
幸いなことに王城は形を保ったまま、崩れることもなかった。
「……よかった、崩れなくて」
中にはまだ意識を取り戻していないだろうシドゥがいる。
そんなエリンスの表情とは裏腹に、ツキノは不安そうに空を見上げた。
「むぅ、じゃが、今のは」
ただの地震ではなかったと言いたいらしい。ツキノは耳をぺたんと折りたたんだままに、苦しそうな顔をしていた。
エリンスも予感している。自身の考えが当たっているならば、アグルエを迎えに来たというニルビーアが急いでいた理由にも納得する。
「……世界が分かたれた。
この星の生態系は、巡る
人界と魔界の
そして、人界と魔界の
「……しかし、
魔界へと戻っていったアグルエの背中を思い出す。
アグルエは一人でも先へ進むと決めてしまったのだろう。
――やっぱり、このまま『さようなら』なんて、できるはずがない。
エリンスは不安そうにするツキノを抱えたまま、真っすぐと王城を見上げて決意を固める。
その瞳はもう、揺れていない。
ツキノは「エリンス……?」と声を零して、そんなエリンスの顔を抱えられたまま疑問そうに見上げていた。
――『エリンスは、自分の旅をして! そして、勇者になるんだよ!』
アグルエの言葉を思い出すと、彼女が何も言わずに去ったわけでもなかったことに、エリンスも気がついた。
今、エリンスがやるべきことは、黒の軌跡を巡って、五つの軌跡を巡ったその資格を手にすることだ。それが二人の旅の目的でもあった。
――だから、一人で先に行ったんだな、アグルエ。
エリンスはツキノの顔を一瞥して、「ふっ」と軽く笑った。
「なぁ、ツキノ」
「なんじゃ、どうした?」
「俺は……俺の信じた道を、進むことにするよ」
何かどこか達観したような気分だ。一段階段を上ってその先の景色が見えた気がした。
そんな風に口にしたエリンスの表情を見て、ツキノは「はぁ」とため息を零すと、呆れたように笑った。
「追う、と言うんじゃな」
「あぁ、たとえ
――どこまでも真っすぐに、それが俺の取り柄だから。
ツキノはそんなエリンスを見て安心したようにもう一度笑う。
「くふっ、じゃあ、まずはそのためにもじゃな」
「あぁ、帰ろう。みんなが、待っている!」
向こうでも戦いは終息しているだろう。
エリンスは想いを託した
王城へ背を向けて、抱えたツキノを肩に乗せて、エリンスはまだ終わらない二人の旅路を歩み進む。
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