第231話 〝さようなら〟
薄暗い螺旋階段を上っていく者が一人と一匹。
手のひらの上に明かりとなる炎を浮かべ、一段一段と上がるたびにぼとりぼとりと大きな尻尾が段差に引っかかって音を上げている。
その腕の中で丸くなっているツキノは、未だぐるりと回る視界に気持ち悪さを覚えながらも、自身をそうやって運んでくれているニルビーアの顔を見上げた。
その視線に気づいたのか、ツキノが口を開く前に、ニルビーアは感情を出さない眼差しで一瞥して言う。
「大丈夫そうですか、もう目のほうは」
「目よりも気分の問題じゃ。気持ち悪さがとれぬ」
ぐでーっと伸びそうにもなるツキノを、ニルビーアは左腕でしっかりと丸くなるように抱えている。
あまり感情を表情に出さないニルビーアであったが、ツキノがそうこたえると「ふっ」と薄っすら微笑んだ。
「もう元気そうですね」
「元気なものか。お主は相変わらずじゃな、ニルビーア」
ニルビーアは言葉を交わしながらも、変わらない速度で階段を一段一段と上っていく。
「えぇ、久方ぶりに。こうしてかつての友人に再会できて、嬉しくはありますがね」
「……時間がない、じゃろう」
二人の会話がそこで途切れる。
ツキノが若干の気まずさを覚えたところで、ニルビーアが階段を上っていく速度は一定だった。
「あの子は、
「アグルエ様ですか」
「そうじゃ。二百年前、叶わなかった願いを……」
「だとしても……いいえ、むしろ、そのためにも。一度戻ってもらわねばなりません」
ニルビーアの決意は固いようだった。昔から一度決めたらそうと譲らない、こだわりの強い性格をしていたことはツキノも覚えていたが。
黙り込んだツキノを一瞥して、ニルビーアはぽつりと呟いた。
「役目を全うしたあなたを頼ることは、もうできない」
「……それは、そうじゃが」
ツキノとしても力を貸すことはできない話だ。
時間がないと語る以上、昔を懐かしんでゆっくりと話している時間もそうなかった。
一歩一歩と変わらない速度で階段を上がり続けたニルビーアが螺旋階段の頂上に辿り着いた。その先にあったドアを開けると、王城の廊下へ、地上の眩しい光が二人を出迎える。
「心配事がありますか?」
その眩しさに目を細めもしないニルビーアは立ち止まって、腕の中のツキノにそう聞いた。
「……心配は尽きぬよ」
ツキノの返事を聞いて、ニルビーアは何もこたえずにゆっくりと変わらないペースで歩きはじめる。
ツキノがそうこたえて思い出したのは、アグルエと初めて顔を合わせた日の夜のことだ。
故郷へ帰ってきたエリンスについてきた魔王の子。アグルエの真意も図りかねていたツキノは、顔を合わせてすぐにそれがアルバラストの意志なのだと悟った。
二人の密会。二人して楽しい話もしたあの日のことを、ツキノは大切な思い出として抱きかかえている。
――まさか、アグルエがすんなりニルビーアにこたえるとは、思いもせぬ。
目を回していたツキノが目を覚ましたのは、ちょうどアグルエがニルビーアに手を差し出されたタイミングだった。
気持ち悪さに吐き気がして状況も呑み込めないところだが、目の前でニルビーアがそうしているのを見たら、どういうことだかはピンときた。
エリンスとアグルエ、二人の絆に関しては、ツキノもすっかり信じ込んでいたところがある。だからニルビーアが手を出して、『どうか一緒に、魔界へとお戻りいただけませんか』と問うたとき――アグルエがそれをすんなり『……はい』と呑むとも思っていなかった。
――あの子の気持ちにも揺らぎはあった。
セレロニアで出くわした
そして、地下で知ることになってしまった、ツキノが口にすることもできなかった世界の真実。そこに書かれていたことは紛れもなく、全て真実だったのだから。
――それがあの子の背中を押すこともわかった。じゃが、
ツキノにその資格はもうない。離れゆく想いを繋ぎ止めることができはしない。
――
結局、役目を果たしてしまった今、部外者にできることはなかったということなのだろうか。
ツキノは己の無力さを痛感し、そしてそれを、今を生きているニルビーアにも零そうとはしなかった。それこそ余計な心配事になってしまう。
「……さて、約束の時間です」
ツキノが考え事をしている間にも時間が来たらしい。
誰もいない王城の広間は静まり返っている。
足を止めたニルビーアは抱きかかえていたツキノをゆっくりと地面へと下ろすと、一歩前に出て背中を向けた。
ツキノは自分の足で立つ。まだふらつくものの、気分も幾分かマシになった。
「行くのか」
小さな白き獣は、大きな黒い尻尾が垂れる背中を見つめている。
「えぇ、まだわたしの役目は終わっていない。アルバラスト様を支えなければ。それが、遺されたものの使命です」
背中を向けたまま、ニルビーアはやはり多くは語らずにそれだけ言って頷いた。
今こうしている間にも魔界では何かが起こっているのだろう。
だがそれは、ツキノにはもう関係がないことだから。ツキノがニルビーアに本音を零さないのと同様に、ニルビーアもまたツキノにそれを話そうとはしなかった。
「また、会えるといいの」
白い尻尾を振って、ツキノは最後にそれだけを言葉にする。
ニルビーアは大きな黒い尻尾をべたんと一回振ると、横顔だけを向けてそれにこたえた。
「全てが終わった
それだけを残して、ニルビーアは姿を消した。
瞬時に
思い出すのは、アグルエの決意を宿した蒼い瞳。
――『わかりました。一緒に帰ります。だけど、一つだけ、お願いがあります』
震えていたアグルエの瞳は、ニルビーアにそう返事をしたところでもう震えてはいなかった。
時間もない中、『なんですか?』とそのわがままを受け入れるように聞いたニルビーアに、アグルエは迷いなく返事をしていた。
――『大切な人に……挨拶だけする時間をください。一緒に旅をした、大切な人に』
ニルビーアもそう頼まれては断ることはできなかったのだろう。数分後、と約束の時間を示して、その条件を呑んだ――。
ツキノはエリンスのことを心配したように天井を見上げると、とぼとぼとニルビーアが去った方向とは逆のほうへと歩き出す。
独り寂しく歩く小さな背中を去った友たちへと向けて。
◇◇◇
ラーデスア上空から雲が晴れたのは、何らかの力による一時的なことだったのだろう。
見えていた青空も次第に増えてきた分厚い雲が覆い隠して、空は曇天へと変わっていた。
アグルエに手を引かれて城壁の上まで飛んだエリンスは、雪が積もったそこに残るアグルエの足跡を追うようにして、ゆっくりと歩いている。
顔も見せず、こうして城壁の上まで連れてきたところでアグルエは黙り込んでしまった。だからぼんやりと、その背中をただ見つめていた。
どれくらいの時をそうしていたのだろう。ものの数十秒のことではあっただろうが、やがて二人は、城壁が大きく崩れる戦いの傷跡が刻まれた場所へと辿りつく。
覇王は死んだ。帝国を陥落させた元凶も止めた。今や、戦いには勝利したはずなのに、どうも浮いた気分にはならなかった。
城壁の切れ間で足を止めたアグルエは、そこでようやく振り返った。しんしんと降りはじめた雪の中で、アグルエは涙を流しながらも笑顔を浮かべて、黒き翼を広げ――向こう岸へと飛んで行った。
二人の間には決して届かない距離ができた――そうして迎えたのが、決定的な別れの場面、『運命分離の分岐点』――。
――「さようなら、エリンス」
彼女の声が胸の中で木霊する。
追いかけようと飛んだエリンスに翼はない。向こう岸には届かなくて、崩れた城壁にできた窪みに落ちた。落下するという最悪の事態は避けられたものの、伸ばした手は彼女の背に届かなかった。
アグルエの語った言葉を思い返す。涙に濡れるエリンスの視界を、吹雪きはじめた雪が白く染めていく。まるでそれは戦いの跡をかき消すようで、去っていった彼女の足跡をも消してしまうようだった。
崩れた空はエリンスの気持ちを反映したかのように泣き続け、全てを真っ白に変えていく。
どうしてと問うても、待ってと声をかけても、彼女は振り返ってくれはしなかった。
崩れた城壁に引っかかったように腰を下ろしたまま、立ち上がることもできなくなった。エリンスは悔しさ打ちつける胸の中、拳を作った手で自身の膝を叩き続けた。
離れてしまっている間に何があったのか。
真実を知って、シドゥを止めて、やっと再会できたと思った結末が、これか――。
虚しくもなって、悔しくもなって、だが、そうして握りしめた拳を解くことはできなかった。
涙を残した背中、『さようなら』だなんて言葉だけを告げて――エリンスは、ただそれを見送るだけではいられなかった。
胸に灯る温かい光を感じて、エリンスは顔を上げる。
――道はまだ続いている。こんなところで、俺らの旅は終わらない。
何か事情がある。離れている間に何かがあったのは明白だ。
そういえば――と思い返すと、ツキノの姿が見当たらないことに気がついた。
胸に感じる温かさは、首から提げたツキノとの契約の証である首飾りが熱を持っているからだ。
エリンスはそっと握り拳を解いた手で、首元より取り出した首飾りを握り締める。そうすると、まだ近くにツキノがいる気配を感じられた。
いても立ってもいられなくなって、エリンスは涙を拭うと立ち上がる。気をつけながら崩れた城壁の段差を下っていき、近くに感じたツキノの気配があるほうへと歩みを進めた――。
◇◇◇
崩れた黒鉄の王城、その頂上。先ほどまではエリンスとシドゥが戦いを繰り広げていた場に、アグルエは翼を広げて降り立った。そこで待っていたニルビーアと合流を果たす。
「……もう、いいのですか」
あまり表情を顔に出さないニルビーアも、どこか困ったように眉をひそめて、アグルエのことを心配したようにそう聞いた。
全てここから見ていたのだろう。だが、アグルエは「はい」と目に浮かんだ涙を――未だそれが溢れ続ける目元をごしごしとコートの袖で拭って頷いた。
顔を上げたアグルエは真っすぐとニルビーアを見つめる。
その蒼い瞳は、もう揺らいではいなかった。
「では、参りましょう」
そう言って手を差し出すニルビーアに、アグルエはそっとその手を取った。
「
ニルビーアは時間がないと多くのことを語ろうとはしなかった。だが、そのひと言でアグルエもどうしてニルビーアが急いでいたのかを察した。
そうしたところで、二人の姿はあっという間に黒鉄の王城の上から消える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます